ガチ百合ハーレム戦記

ナガハシ

リーン、帰郷する

 エヴァーハル転移陣の石台の上には、魔術師達のピラミッドができていた。


 一段目に50人。
 二段目に20人。
 三段目に7人
 四段目3人。
 最上段に1人。


 さらに無数の魔術師達が、エヴァーハル転移陣を取り囲んでいる。


 濃紺、赤、黒、灰色、白。
 大陸各地からかき集めた、魔術師の大軍団。
 みな転移陣にむかって、大飛翔魔法の集団詠唱を行なっている。


 『エーリオ・エリアー・リベストク・アウラル・ルシアー・アーラムラル……』


 魔力を増幅するための、長い詠唱が続く。
 つむじ風が巻き起こり、石台の上の魔方陣から立ち昇る光の渦が、どんどん密度を増していく。
 集団詠唱の陣頭指揮をとっているのは、灰色魔術師のゲンリだ。


『アリアー・エリアー・アーサリアー・エッサラーム・ホッサラーム……はあぁ!』


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 詠唱が最終局面を迎え、魔力増幅のための掛け声が上がり始めた。
 数百名の魔術師の声にあわせて、転移陣の周囲に集まってきていた街の人々も、一緒になって声をあげる。


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 総勢千名を超える人々による掛け声が、周囲の空気を激しく揺らす。
 山がうねるような騒々しい音が、エヴァーハルの市街にまで響いていた。


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 つむじ風はやがて暴風となり、そしてついに巨大な竜巻になった。
 湖の水面が激しく波立ち、周囲にいる人々の服や帽子を巻き上げ始めた。


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 石台の上の魔術師達は、しっかり肩を組んで詠唱を続ける。
 ついに、一段目にいる50名の魔術師の体が、魔方陣から吹き上がる魔力に押されて浮き上がった。
 二段目、三段目にいる魔術師達は、ぐっと身を低くして、振り落とされないよう身構えている。


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 ピラミッドの最上部にいる三段目にいる三人は、みなエルグァの術者達だった。
 そのうち一人は、かつてヨアシュを誘拐しようとした青年だった。
 緑色のローブと金色の髪の毛を、ばさばさと風に揺らしながら、最上部にいる“届け役”をリーンのもとへと誘導するべく、その全身に魔力をためている。


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 そして最上部にいる、長い金糸の髪の女騎士。
 首まですっぽり覆う頑丈な鉄兜をかぶった彼女は、エルグァの女王ジュアだった。


 ジュアは、その背に大きな袋を担いでいた。
 リーンに届けるプレゼント。
 それは、大陸中の魔術師の力を結集して打ち上げる、水と食料だったのだ。


 “エッサ・ホッサ・ホイサッサ!”


 一際大きな掛け声とともに、魔方陣の描かれた石の台が激しく振動した。
 魔力が爆発的に吹き上がる。


 そしてゲンリは、最後の詠唱を行なった。


『ホイル・ホイット・ホイッサー!!』


――シュバババババババ!


 目も眩むような閃光とともに、七色の魔法光線が爆裂した。
 そしてついに、総勢81名の魔術師による人海戦術ロケットが、轟音とともに天空へと打ち上げられた。


――うおおおおおお!!
――と、とんだああ!?
――いっけええええ!!


 見物人が一斉に喝采をあげる。
 魔術師の団塊がとてつもない魔力に押し上げられて、遥かな天を目指して飛び立っていく。


――ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!


 空を砕かんばかりの凄まじい飛翔音が響く。
 腹の底を揺さぶるようなその音を聞きながら、ゲンリはポツリと呟いた。


「これが、私たちにできる精一杯です……。リーン」


 そして、力尽きたようにその場にへたれこむ。


「行ける所まで行ってください。そして、私たちにみせてください」


 一段目が上昇終了。
 続いて二段目の魔術師達が各々の飛翔魔法を唱えてさらなる高みを目指して飛び立った。


「貴方という、奇跡を」


 二段目の魔術師達の姿は、ついに雲の中へと吸い込まれていった。


 
 * * *


 
 魔術師の大軍団による人海戦術ロケットが打ちあがって来る光景を、リーンは光の階段の上から口をポカーンと開けて眺めていた。


「ほんとにきたぁー!」


 薄い雲を突き抜けてきた、31名の人の塊。
 このような高空に、生身の人間が塊になって飛んで来るという光景は、どこか現実離れしていて、まるで夢のようだった。


――シュパパアッ!


 二段目の魔術師が魔力を使い果たした。
 それぞれ空中に散開し、落下傘を開いて降下していく。
 続いて三段目の7人が全力の飛翔魔法を解き放つ。
 さらに加速をつけて、リーンのいる場所までグングン上昇してくる。


「おおおお、すげえ!」


 リーンの鼓動が高まっていた。
 こんなところまでみんなが助けに来てくれるとは、思ってもみなかったのだ。
 三段目の7人は、その上にエルグァの4人を乗せて懸命の上昇を続けている。
 リーンのいる高さまで、あと2エルデンといったところだ。
 まだまだ相当な距離があるが、それでも確実にリーンに近づいてきている。


「がんばってくれ…………みんな!」


 リーンは、少しずつ近づいてくる彼らの姿を、祈るような気持ちで見守った。


「そうだっ!」


 リーンは咄嗟に思いついて、階段を駆け下り始めた。
 少しでも良いから、距離を詰めようと考えたのだ。


 階段を駆け下りて行くうちに、ついに三段目の詠唱が終了した。
 のこり1.5エルデンの距離は、エルグァの中でも最高レベルの風魔法の使い手である4人に委ねられた。


「ジュア!」


 下の三人がジュアを抱えて、全速力で空を翔け上がってくる。
 吹き抜けるような空の青の中に、一筋の軌跡を描いて。


「アルメダ! みんなが助けにきてくれたぜ! これでまだ頑張れる!」


 階段を駆け下りながら、リーンは背中の姫に話しかけた。
 アルメダは、その真っ白な顔に、うっすらと笑みを浮かべているようにも見えた。


 エルグァの四人の姿が、手を伸ばせば届きそうな位置まできている。
 ジュアをかかえた三人は、全ての魔力を消費し尽くすと、最後の力を振り絞って、ジュアの体を高空へと押し上げた。
 大きな袋を背負った女騎士が、最後の飛翔体勢に入る。


「ジュアー!」


――リーン!


 ついに声が届いた。


――私自ら来てあげたわよー!


「ジュアぁぁぁー!」


 ガラガラにかれたリーンの声が、蒼空に響く。
 数段にわたって加速を続けられたジュアの体は、とてつもない速度に達していた。
 彼女だけが軽甲冑をきていたのは、その速度がもたらす気体の摩擦に耐えるためだった。
 首までスッポリと覆う鉄兜の先には、空気が圧縮されることで出来る、もやもやとした雲状の物体までもが生み出されていた。


――ショゴゴゴーン!


「うほっ!?」


 直後、リーンの目の前を空気の塊が飛びぬけていった。
 続いて押し寄せてきた衝撃波が、リーンの全身を強く叩く。
 ジュアの体が、ついにリーンの居る位置を飛び越えたのだ。
 リーンは尻餅をついて、ジュアの姿を見上げる。
 そして、声の限りに叫ぶ。


「おおーいぃ!!」


――行き過ぎちゃったわー!


 リーンは慌てて階段を駆け上がる。
 魔術師達の頑張りが、計算以上の高度までジュアの体を押し上げてしまったのだ。
 ジュアはその勢いのまま、しばらく空を昇り続け、やがて重力に従って落ちてきた。


「ジュア!」


 リーンは落ちてくるジュアに向かって両手を広げた。
 飛翔魔法で落下速度を減じたジュアが、フワリとその腕の中に飛び込んでくる。


「来てあげたわよ! リーン!」
「ありがてえぜ!」


 そのままリーンは、ジュアの身体を思いっきり抱きしめた。
 もはや下心などは微塵もなかった。
 こんな大空の彼方まで、ジュアが応援にきてくれた。
 その事実が、嬉しくて仕方なかった。


「ちょ、ちょっとリーン! くるしいわ!」
「ああ、すまねえ! 感極まっちまったぜ!」
「もう! どんだけ追い詰められていたのよ!」


 ジュアは頭を守っていた鉄兜を外すと、地上に向かって放り投げた。
 続いて上半身に装着している軽甲冑を外して、やはり地上へと落とす。


「少しでも軽くしておくわ」
「いいのか? なんか勿体無いぜっ」
「何言ってるの。やれることはみんなやらなきゃ。あなた、あとどれだけ昇らなきゃならないと思ってるの?」


 リーンの腕の中でジュアは言う。
 次々と装備を外して、下界に落とす。
 地上を見下ろしても、もはや大陸の輪郭すら見えない。
 完全に空の彼方の、雲の上だった。


 落とした装備品は、あっという間に見えなくなってしまった。


「こんなところまで、よく昇ってきたわよ」
「ジュアには見えるのか? この光の階段が」
「うーん、何となくね。何かがリーンの足下にあるってのはわかるわ」
「そうか。やっぱりエルグァの血ってやつなんだな……」


 リーンがそう言うと、ジュアは微笑を浮かべて返してきた。


「その階段とやらがリーンには、はっきりと見えるのね?」
「ああ、そうなんだ」
「うーん……それってつまり、リーンは……」


 ジュアは何かを言いかけて言い淀んだ。


「ん?」
「つまり……私なんかより、もっと濃い天人の血をもっているってことよね?」
「やっぱ、そうなるのかな?」
「他に考えようがないわ。一体あなたのご両親はどんな人なのよ」


 改めて聞かれても、特に付け加えることはなかった。
 オヤジは森の奥で一人暮らしをしている偏屈男で、母親はどこの誰とも知れぬ人だ。


「俺はオヤジのはらわたから生まれたんだぜ!」
「…………それが本当なのだとしたら貴方」


 ジュアはその美しい顔に鋭いしわをよせて言った。


「本当にちんぷんかんぷんな人だわっ」
「へへっ、いまさらだな!」
「まったくよ! ま、ここでこんな話しても仕方ないわね。早く補給を済ませましょう」
「ああ、そうしようぜ。もう喉が渇いて大変なんだ」




 * * *


 
 ジュアが持ってきた水と食料の量は、およそ5日分といったところだった。
 物資の受け渡しを済ませると、リーンはジュアを腕に抱えたまま、階段の上にしゃがみこんだ。
 背中にはアルメダを背負っているので、実に二人分の体重と、5日分の物資を抱えていることになる。
 正直、立っているだけでも辛いのだ。


「一日に昇れる高さは、良くても半エルデンなのね。5日間登り続けたとして、2.5エルデン……。どう頑張っても7エルデン昇ったところでお終いね」


 ジュアは、天の円盤までの距離を計算しつつ、ため息をついた。
 10エルデンの彼方にある天界。
 二人は、それがいかに途方もない高さであるか、改めて思い知る。


「残り3エルデンはどう昇るつもりでいるの? リーン」
「わからねえ」


 リーンははっきりと言い切った。
 わからないものはわからない。


「とにかく、行ける所まで行ってみるさ」


 昇り始めた当初のその目標に、別段変更はない。
 表向きには。


「帰る手段はばっちり用意してあるから、無茶をしても問題はないんだぜ。エイダは早く戻れってうるさいけどな」


 と言ってリーンは、腰に下げた二枚の肩当をポンッと叩いた。
 それは以前、ドラゴン・スレイヤー・スレイヤー・ドラゴンを倒す時につかった、魔炎の鎧の肩当だった。


「帰りはこれでひとっとびだ」
「そう。ひとまず帰る手段は確保してあるのね。すこし安心…………」


 と言いかけて、ジュアは否定する。


「できないわね」


 そして、ジットリとした目でリーンを見据えた。


「それ、昇るのに使う気でしょ?」
「ギクリ」


 図星だった。
 リーンは心の底では、何が何でも天界に辿り着くと決めているのだった。


「行っておくけど、無理だからね? 根こそぎ魔力を吸い取られて、帰る手段さえ失ってしまうんだからね!」


 魔炎の鎧は、装着した者の魔力を無尽蔵に吸い取って、炎の翼に変えるのだ。
 それこそ、装着者が死に至る、その瞬間まで。


「わかってるわよね?」
「ああ。わかってるぜジュア。この鎧は帰るためだけに使う」
「本当に? 絶対だめよ? 約束してね?」
「約束するぜ! 大丈夫だ! 俺を信じてくれ、ジュア」
「うーん……」


 だが、ジュアの瞳はいまだ半月の形をしたままだった。


「信じてくれよ……」
「リーン。あなたはもうこの世界の王なんだから。もう、あなた一人の体じゃないんだからね?」


 何度も念を押すジュア。
 やはり、どうにも信じてもらえないようだった。


 
 * * *




 登頂19日目
 登頂した高さが6エルデンを超えた。
 ジュアと別れてからの5日間、リーンは受け取った水に殆ど手をつけていなかった。
 最低限の量をアルメダにだけ与えて、リーン自身は、自分の尿を飲んでいたのだ。


「こいつはちょっと、みんなには知られたくないぜ……。なあ、アルメダ」


 今日もまた、光の螺旋階段の上にしゃがみ込んで、リーンは自分の尿を採取していた。
 時刻は深夜を過ぎた頃だった。
 天に浮かぶ月は、その大きさが三倍以上にも大きくなっている。
 夜中だというのに、その月の輝きだけで、まるで真昼のように明るかった。


 月の光に照らされる中、清水の流れる音だけがチョロチョロと響いている。
 洞窟に生き埋めになった人々が、自分達の尿を飲むことで一月近く生き延びて助かったという話がある。
 人間、水分さえ摂取していれば、かなりの期間、命を繋ぐことができる。
 リーンはその話を思い出して試しているのだが……。


「……うーん」


 リーンはコップに取った尿の色を見て、眉をしかめた。
 それは、まるで血のように濃い色をしていた。


「流石にもう限界か……」


 このところ、汗さえかかなくなっていた。
 体から蒸散する水分を少しでも減らすため、今は陽の光が弱まる夜の間だけ昇るようにしている。
 だがそれでも、リーンの全身はすっかり干上がってしまっていた。
 しかたなくリーンは、血のように濃くなった尿を捨て、きちんとした水を3口ばかり口にいれた。


「ふう……」


 のどの奥を生ぬるい水が滑り落ちていく。
 たった3口の水で、リーンは全身の細胞が蘇っていくような感触を覚えた。


――こんなことなら、ジュアのおしっこ貰っておけばよかった……。


 でも、絶対に嫌がられるだろうな。
 そんなことを考える。


――メイリーだったら喜んでわけてくれたかも……。


 そんなことも考える。
 だがそれは、下卑た欲望から生じた発想ではなかった。
 リーンは今、切実に水分を欲していたのだ。


 水袋の蓋をして立ち上がる。 
 体がやけに軽かった。
 まるで手足に羽が生えているようだった。
 リーンの体重は、登頂を始めてからの20日あまりで、3分の2ほどにまで減っていたのだ。


 加えて、背中に背負っているアルメダの体もまた軽くなっていた。
 リーンのように激しい運動はしていないが、ずっと水と塩しか摂取していないので、手も足もすっかり細ってしまっている。
 もはや、骨と皮だけの状態に近い。


 リーンは、すっかり痩せ細ったアルメダの身体を背負い直すと、再び天へと向かって足を踏み出した。
 その足取りは、これまでにないほどに軽快だった。


 恐ろしいほどに軽快だった。




 * * *


 
 登頂22日目、7エルデンの高さに差し掛かったところで、リーンは一切足が動かなくなってしまった。
 最大限に節約していた水も、ついに底を突き、尿さえろくに出せなくなった。
 銀の外套を頭からかぶって、容赦なく照りつける天の光から身を守る。
 リーンは朦朧とした状態で、階段の上にうずくまっていた。


 地上を見下ろしても、もう何も見えない。
 天の光が全てをさえぎって真っ白にしてしまっている。
 空はもはや青くはなかった。
 リーンがいる場所は、まさに光の牢獄だった。


『……ガガ………リーン……………こえま……か、リー……ザザザー』


 通信バッチから途切れ途切れの声が聞こえてくる。
 そろそろ、通信限界なのだ。


「なんだ……? エイダか……?」


 リーンはうつらうつらと船をこぎながら、うわ言のように返事をした。


『もう……分なのです……早……戻って…………るのです!』


 エイダの声に続いて、別のだれかの声が聞こえてくる。


『……え様! お姉……様! 戻って……てく……さい!』


 ヨアシュの声だった。


「ああ……なんだ……ヨアシュか……俺今ちょっと眠いんだ……」


 だが、リーンは、もにょもにょとそう言って、通信を切ってしまった。
 誰に何と言われようと、リーンはアルメダを天界に連れて行くと決めている。
 この世界の誰もが望んでいなくとも、たとえアルメダ自身ですら望んでいなくても、リーンはアルメダを天へと連れて行くのだ。


「俺は……欲張りなんだぜ……」


 欲しい物は欲しい。
 助けたいものは助けたい。
 やりたいと思ったことは、何が何でも最後までやり遂げなければ気がすまない。


「それが……俺なんだ……ぜ。なあ……アルメダ」


 リーンは背中の上にいる者に向かって声をかける。
 眠り姫は何も言わない。
 リーンの背中を押すことも、その手を引っ張ることもなく、ただだまってリーンの背中に乗っている。
 その姿はまさにホムンクルス――人の手によって作られた、人の形をしたもの――すなわち、人形のようだった。


 そして実際に、人形だった。
 ただ布と綿で出来ているか、血と肉で出来ているか、その違いでしかなかった。


 リーンは完全に一人だった。
 こうして一人で天を目指し、一人で死に掛けているのも、みんなリーンの独りよがりだった。
 誰のためにもならないことだった。


「それでも……俺は昇るんだ」


 心のそこから申し訳ないと思いつつ、リーンはひとり呟いた。


「昇らなきゃ……ならないんだ」




 * * *


 
 真っ白な月が燃える天空を、干からびた姿の王が昇っていく。
 その背中に、物言わぬホムンクルスを背負って。


 真っ白に燃える月の真ん中に、小さな黒い点が見える。
 それが天界への入り口だった。
 干からびた王は、その落ち窪んだ瞳で、しかとその存在を捉えていた。
 彼女はついに、天界への入り口を発見したのだ。


 だが、その入り口までの距離は絶望的なものだった。
 まだ、2エルデン以上の距離がある。
 一歩進むたびに全身の筋肉が悲鳴をあげる。
 心蔵は今にも止まってしまいそうだ。
 喉がからからに渇いて、息をするのも苦しい。


――引き返すのだ、勇者よ。


 天から言葉が響いてくる。


――後戻りできるうちに。


 その言葉は、リーンの心に直接語りかけてくるようだった。


「ああ……そうする」


 リーンはぽつりと呟いて頷くと、ついに、腰に下げてある、魔炎の鎧の肩当を手に取った。


「……引き返すんだ」


 これをつけて、階段から飛び降りれば、後は寝ていても地上に辿り着く。
 湖の上では、いつリーンが落ちてきても良いように、飛翔魔法を使える魔術師達が待っていてくれるのだ。


 魔法を使って、あの天の入り口まで飛んでいけたなら、どんなに良いだろう。
 そんなことを、リーンは考える。
 だがそれは、どんなに優れた魔術師にも出来ないことだ。
 大陸中の飛翔魔法の使い手を集めても、4エルデンが精々だった。
 2エルデンもの距離を翔け上がる飛翔魔法など、この世界には存在しえないのだ。


 魔炎の鎧の装着を完了する。
 リーンはふうと一息、ため息をついた。
 ジュアの言葉を思い出す。


――あなたはもうこの世界の王なんだから。


 もはやリーンの体は、リーン一人のものではない。
 いまここで朽ち果てれば、アルデシアは再び混乱の渦に飲まれるだろう。
 だからリーンは帰らなければならなかった。
 みんなのためにも、アルメダのためにも、そしてなにより、自分自身のためにも。


 だが。


「すまねえな……みんな」


 リーンは謝罪の言葉を述べ、そして空を見上げた。
 ガリガリに痩せこけたその頬に、再び活力が漲ってくる。


――この命を、全て燃やし尽くす。


 決死の覚悟で、リーンは己の体に魔法をかけた。


『エンデ・イン………エクスパー!』


 朽ちかけていたリーンの体に、最後の活力が漲っていく。
 己の体そのものを燃え上がらせて勇者は、再び光の螺旋を駆け上がり始めた。


――オオオオオオ!!


 燃える月が照らす白熱の空間に、赤く鋭い螺旋を描いて、リーンの体が天へと昇っていく。
 心臓が爆発するようにして、血液を全身に押し出し、肺が狂ったように空気を取り込む。
 目を血走らせ、口端から泡をふきながら、リーンは死力を絞って肉体を駆動させた。


 目の前は真っ白で、もはやなにも考えられない。
 とにかく一歩でも多く足を前に踏み出す。
 ただそのことだけを考える。


 苦痛と疲労と乾き。
 燃えるように熱い、そして実際に燃えている、体。
 既に疲労しきった体の全てを搾り出して、リーンはそのままなんと、半エルデンの距離を駆け上がったのだ。


 やがて、体の中に燃やすものが一切なくなった。
 足がまったく動かない。
 もはやタダのクズ肉と化してしまっている。


 リーンは階段の上に倒れこむ。
 そして、なんとか動く両手だけをつかって、アルメダの体を胸の前に抱えなおした。


「これで……最後だああああああ!」


 両肩に装着した魔炎の鎧の肩当に、リーンは意識を集中した。


――コオオオオオオ!


 リーンの背中に、炎の翼が顕現した。
 最後にリーンは、己の魂を魔力に変えて燃焼させたのだ。
 もてる力を全て使い尽くして、リーンはさらに天へと飛翔する――――。


「とどけえええええええぇー!!」


 炎の鳥となったリーンは、さらにそこから半エルデンの高さを翔け昇った。
 背中の羽から噴き出す、炎の噴流が、長い一本の線を天空に刻んでいく。
 リーンにはもはや、天界の入り口しか見えていなかった。
 遥か高みにある、天人の住まう地は、もう、目と鼻の先にあるように思われた。


 だだ、いつまでたっても、その入り口はリーンの手には届いてこなかった。
 全身の魔力が物凄い勢いで消費されていく。
 心臓が止まる、目が眩む。
 体力、魔力、精神力、全てが底をつくまで消費されつくした。


 そしてついに、リーンの背に光っていた炎の翼が、その輝きの一切を失った。


「ぐふぁ……っ」


 ボロキレのような姿になった人間が一人、地へと堕ちて行く。


 天の円盤の入り口まであと1エルデン。
 手を伸ばせば届きそうな位置にある巨大な天の円盤は、実際、遥か彼方だった。


――何もかもが………真っ白だ……。


 リーンの脳裏にはもはや何もなかった。
 綺麗さっぱり真っ白だった。
 悔いも、憤慨も、怒りも、悲しみもなかった。


――燃え尽きたぜ……全部……。


 光に満ちた天空を滑落しながら、リーンはただひたすら、腕に抱えたアルメダの姿にむかって唱えていた。


――愛している。


 と。


 もう、全てが終わっていた。
 だが、アルメダに対する気持ちだけは、永遠に終わらない。
 終わらせてなるものか。
 最後の最後まで、思い続けて、例え独りよがりだろうと何だろうと、俺はこの想いを貫き通すんだ。


 それが、俺に出来る、たった一つの償いなんだ――――。


 天の光がリーンの視界を焼いていた。
 なにもかも使い尽くして、意識が遠のいていく。


 なにもかも失っても、俺の魂はアルメダのものだ。
 アルメダの魂は俺のものだ。


 そうしてリーンの目を閉じようとしたその時。


 ついに。


 奇跡は起きた。






“本当に仕方のない人ですね、リーン”






 閉じかけていたリーンの瞳が見開かれた。
 誰が俺に声をかけてきた?
 いま、俺の目の前で微笑んでいる女神は誰だ?
 何もかもが、信じられなかった。






“こんなところまで、私を連れてきてしまって”






 だが、間違いなく奇跡はおきていた。
 どんな治療をためしても目覚めることのなかったアルメダが、今、その宝玉のような瞳を見開いて、穏やかな笑みとともにリーンの目を見つめているのだ。


「アルメダ……」


 黄金の輝きをとりもどした至上美の姫は、柳のように細くなったその両手を、リーンに向かって差し伸べる。
 そしてその頬にそっと手を添えると、静かにその唇を近づけてきた。






“私もリーンを愛しています”






 はるか9エルデンの高み。
 天の円盤の光で、真っ白になった高空で、二人は唇を交えていた。


 リーンの体に、信じられないほどの力が湧いてきた。
 アルメダの唇を通して、瑞々しい魔力が流れ込んでくるのを、体一杯に感じる。


「さあ、ともに行きましょう、リーン」
「ああ、行こう、アルメダ」


 いつしか二人は、空中に浮き上がったまま、手と手をとりあっていた。


 そして、その二人の姿は、完全に人のそれを超えていた。


 リーンとアルメダは今、完全に“天の人”になっていたのだ。


「俺は……お前がいればなんだってできる!」


 二人の背中に翼が生える。


 黄金の翼と、灼熱の翼。


 計四枚の翼をためかせ、二人の体は吸い込まれるようにして、天の円盤へと昇っていく。


 体に質量をまるで感じない。
 “そうしたい”と思ったように体は動いた。
 二人の姿は、物質の限界を超えた、ただの概念になっていた。


――これが、天に昇るということか。


 どこまでだっていける。
 なんだってできる。
 全てがわかる。


 望む全てが今、リーンとアルメダの手中にあった。 


 天の人となった二対の翼は、互いに手をとりあって、空へと舞い上がって行く。
 踊るような螺旋を描いて、天の閃光のなかに飛び込んでいく。


 それは誰もが知ることのできない場所でおきた、誰もが知ることのできない現象だった。


 二人の愛がもたらした、まさにこの世の奇跡だった。




――おかえりなさい、リーン。




 最後にリーンは、女性的な暖かみのある声を聞いた。
 初めて聞くはずなのに、ひどく懐かしい。
 何も考えないまま、リーンはその声に答えた。
 返すべき言葉は、考えるまでもなく一つだった。




――ただいま、母さん。




 やがて二対の翼は、夥しい光の溢れる天の円盤へと――――













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