永久なるサヴァナ
揺れる大地
確かな危機感が原初の脳より発せられているのをジョーは感じていた。
「ビビッてんだろが……」
オオカミが笑う。その血まみれの口角を吊り上げて、まるで勝利を目前にしたような表情。
「こいよ……おらぁ……こいよ!」
拳を頭上に構えたまま、ジョーを誘ってくる。瀕死のオオカミを相手に、この時初めて、獅子は自ら足を引いた。
「来いっつってんだろ!?」
ジョーは葛藤していた。
彼は獅子長という立場上、公然と人を殺めることが出来ない。
今の彼を全力で攻撃すれば、間違いなく死に至らしめてしまうだろう。
だが、眼の前で虚勢を張っているこの男の目は、勝利へのゆるぎない確信に満ちているのだ。
背筋にビリビリと嫌な感触が走っていく。
中途半端な攻撃をすれば、それこそ命取りになる。
そう、獅子は確信する。
「むうう……」
今ここで彼を殺せば、外の世界との間で行われている取引がどれだけ凍結されるかわからない。
サヴァナの長として、それは何としても避けなければならない事態だった。
いっそ彼の勝利を認めてやろうか? そんなことさえジョーは考え始めていた。
だが彼にもプライドはある。この大イベントの最中、手負いのオオカミ相手に背を向けたとなれば、一生の恥となるだろう。
「……うむ」
ならば――。
そしてジョーもまた『覚悟』を決めた。
そして信じてみようとも思った。
今目の前に立っている、ロンという戦士の『強がり』を。
* * *
ジョーが両腕を上段に構えた。ついに来る――。
この時を待っていた。ロンは腹の底で死ぬ覚悟を決めた。
今初めてジョーが、本気で相手を『殺り』に来る。ジョーはずっと『遊び』で戦っていた。それではこの『秘奥義』は使えないのだ。
「流石にそのハッタリは笑えないよ、ロン」
やっとマジな目になりやがったな――。
ロンは腹の底にありったけの気合を込める。
「……悪く思わないでくれたまえ」
次の瞬間、ロンはジョーに向かって自分の体が吸引されていくのを感じた。
スッと引かれた獅子の拳に秘められた神通力が、あたかも時空間を捻じ曲げているようだった。
その背後に吹き荒れた殺意の波動。
引き絞られた力が解き放たれた、まさにその時――。
――ありがとよ。
感謝の言葉とともに、ロンは自ら獣面を剥ぎ取った。
「っ~~~~~!!!?」
途端、ジョーが血相を変えた。
その双眸を最大限に見開き、牙を噛み締め、全身の筋肉をバキバキと鳴らして、全力で解き放った力を“押さえ込む”
この力で面無しを殴ったら、“殺すどころでは済まなくなる!”
その体は爛熟した果実のように爆裂し、世にもグロテスクな光景が出来上がるだろう――!!
偉大なる自制力を発揮して、獅子の拳は、ロンの眼の前わずか数cmで停止した。
――言葉が足りなかったぜ。
続いてパサリ、布きれが叩きつけられる音。
「!?」
獅子の顔面に覆い被さるオオカミ面。
――本気でやってもあんたは死ぬんだ!
獣面を脱ぎ捨て、面をもたないただの“ヒト”となったロンは。全身に残されているありったけのエネルギーをかき集めて。
『『ゴッ!』』
その左拳を、獅子の横面めがけて叩きこんだ。
* * *
しばしの静寂。彫像のように動かない二つの体。やがて客席のいずこから奇声があがる。
――アーオゥッ!
それを機に爆発する8万人の絶叫。
――ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
巨大なセントラルコロシアムの外壁が何もかも消し飛ぶかと思われる程の大喝采。
コロシアム外のオーロラビジョンで観戦していた有象無象の面無し達が、そしてテレビ中継を通して観戦していた150万の住民が。同時にサヴァナの大地を蹴って飛び跳ねた。
そのエネルギーが無視しきれない地響きとなって、戦士達が立つフィールドを揺るがしていく。
客席のあちこちから鳴り物の音が上がり、嵐のような喝采が降り注ぎ、高い口笛の音が右へ左へ飛び交った。そしてありとあらゆる物体が投げ込まれてくる。
座布団、空き缶、ペットボトル、シャツ、ジャケット、ズボン、パンツ、トウモロコシの芯――。
広大なフィールドはあっと言う間にゴミ溜めと化す。
そんな中、ようやくジョーがよろよろと後ろに下がった。2歩、3歩と足を下げ、信じられないといった表情で、そっと殴られた右頬を押さえる。
――ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
「だから言っただろう……」
振り切った拳を引き戻す。
「あんたの“魂”が死ぬって!」
放心しきった表情のジョーが、ロンの顔を見つめている。いま獅子の眼に映っているものは、生まれたままのヒトの素顔。
サヴァナで最も弱い生物である、面無しの顔だった。
――獅子が殴られた!
――ただの面無し(ゼブラ)に!
まさに、面目丸つぶれ。ロンの起死回生の卑怯戦術は、『伝説の獣面脱ぎ(マスクオフ)』として語り継がれることになる。
「フッ……」
観念したように獅子が笑う。もし拳を止めなかったとしても、ジョーの魂は死んでいた。
卑しい面無しの返り血を全身に浴びて、二目と見られない姿になっていただろう。
ともすれば、その返り血をもって獅子への一撃とみなすことも出来る。
いずれにせよ、ジョーの魂がひどく傷つけられたであろうことは間違いなかった。
「これがサヴァナか」
静かに目を閉じて息を吐き、再び確かめるようにして殴られた頬を撫でる。
尋常ならざる気迫を纏っていた獅子が、二周り以上も小さくなっていた。
ロンは立っていることすら苦しく、ついにその場に膝を突いた。
それと同時にジョーが、高く右手を上げてひらりと振った。
場内に轟くファンファーレ。あらかじめ演出を用意してあったのだ。
全てのスポットライトがカプラに当てられ、金の山羊を納めていたカプセルが降りてきた。
そして間もなく大階段に着陸。自動的に留め金が外されて、カプセルが真っ二つに割れる。
そこからカプラが、階段を転がり落ちんばかりの勢いで走り出してきた。
「ロン!」
なおも響き続けるファンファーレ。カプラは転びそうになりながらも、広いフィールドの上を走ってくる。
その後ろ、戦いを見守っていたトラが客の動きを警戒しながらついてくる。
ジョーがロンから離れると、それと入れ違うようにして、カプラが飛び込んできた。
「うおっ……!?」
地に膝をついているロンに抱き着いてくるカプラ。
その頬には金色の髭、そして一筋の涙。
「許してもらえないことはわかってる、でも言わせて……」
懐かしい花のような香り。また会うことがあったら、まず怒鳴ってやろうと思っていたが。
「ごめんなさい……ひどい迷惑をかけてしまって……」
そうしてロンの肩に顔を埋めてくる。どうして良いかわからない。謝らせるために来たわけではないが、心のどこかでこの状況を望んでいたような気もする。
しかしそれはきっと、男の習性のようなもので、けして俺自身の矜持ではない。
あくまでもロンはそう思っておく。
「別に……お前にためにやったんじゃねえ」
だからそれだけ言って答えとした。
「うん、いいの、そんな貴方を私は好きになったのよ……ロン!」
ただひたすら幸福そうな涙を流すカプラ。
いつまでこうしていれば良いのだろうとロンは思う。いい加減疲れてしまった。さっきから頭がクラクラして目蓋が重い。出来ればこのまま横になってしまいたい――……。
――ドドドドドドドド……。
その時、にわかに地鳴りのような音が響いてきた。
ジョーに向かって走ってくるトラが、血相を変えて叫んでいる。
「やばいぞジョー!」
何となく状況がつかめてきた。
「暴動だ!」
どうやら、お行儀の悪い連中がフィールドになだれ込んできているらしい。
一体どうしようってんだ? ロンには理解できない。
ここにはおっかねえライオン様が、トラまで従えて立ってるんだぜ?
「まったく世話の焼ける連中だ。では第二幕と行こうか!」
思ったとおり、好戦的な表情を浮かべてロン達に背を向けるジョー。
にわかにぼやけるロンの視界。世界がぐるぐる回っている。
「……ロン?」
この先のことはどうでも良いとロンは思った。俺はあのライオン野郎をぶん殴ったぜ? それで何もかもみんなOKだ。だからもう――。
「ロン……? どうしたのっ? ロン!」
休ませてくれよ――……。
「ビビッてんだろが……」
オオカミが笑う。その血まみれの口角を吊り上げて、まるで勝利を目前にしたような表情。
「こいよ……おらぁ……こいよ!」
拳を頭上に構えたまま、ジョーを誘ってくる。瀕死のオオカミを相手に、この時初めて、獅子は自ら足を引いた。
「来いっつってんだろ!?」
ジョーは葛藤していた。
彼は獅子長という立場上、公然と人を殺めることが出来ない。
今の彼を全力で攻撃すれば、間違いなく死に至らしめてしまうだろう。
だが、眼の前で虚勢を張っているこの男の目は、勝利へのゆるぎない確信に満ちているのだ。
背筋にビリビリと嫌な感触が走っていく。
中途半端な攻撃をすれば、それこそ命取りになる。
そう、獅子は確信する。
「むうう……」
今ここで彼を殺せば、外の世界との間で行われている取引がどれだけ凍結されるかわからない。
サヴァナの長として、それは何としても避けなければならない事態だった。
いっそ彼の勝利を認めてやろうか? そんなことさえジョーは考え始めていた。
だが彼にもプライドはある。この大イベントの最中、手負いのオオカミ相手に背を向けたとなれば、一生の恥となるだろう。
「……うむ」
ならば――。
そしてジョーもまた『覚悟』を決めた。
そして信じてみようとも思った。
今目の前に立っている、ロンという戦士の『強がり』を。
* * *
ジョーが両腕を上段に構えた。ついに来る――。
この時を待っていた。ロンは腹の底で死ぬ覚悟を決めた。
今初めてジョーが、本気で相手を『殺り』に来る。ジョーはずっと『遊び』で戦っていた。それではこの『秘奥義』は使えないのだ。
「流石にそのハッタリは笑えないよ、ロン」
やっとマジな目になりやがったな――。
ロンは腹の底にありったけの気合を込める。
「……悪く思わないでくれたまえ」
次の瞬間、ロンはジョーに向かって自分の体が吸引されていくのを感じた。
スッと引かれた獅子の拳に秘められた神通力が、あたかも時空間を捻じ曲げているようだった。
その背後に吹き荒れた殺意の波動。
引き絞られた力が解き放たれた、まさにその時――。
――ありがとよ。
感謝の言葉とともに、ロンは自ら獣面を剥ぎ取った。
「っ~~~~~!!!?」
途端、ジョーが血相を変えた。
その双眸を最大限に見開き、牙を噛み締め、全身の筋肉をバキバキと鳴らして、全力で解き放った力を“押さえ込む”
この力で面無しを殴ったら、“殺すどころでは済まなくなる!”
その体は爛熟した果実のように爆裂し、世にもグロテスクな光景が出来上がるだろう――!!
偉大なる自制力を発揮して、獅子の拳は、ロンの眼の前わずか数cmで停止した。
――言葉が足りなかったぜ。
続いてパサリ、布きれが叩きつけられる音。
「!?」
獅子の顔面に覆い被さるオオカミ面。
――本気でやってもあんたは死ぬんだ!
獣面を脱ぎ捨て、面をもたないただの“ヒト”となったロンは。全身に残されているありったけのエネルギーをかき集めて。
『『ゴッ!』』
その左拳を、獅子の横面めがけて叩きこんだ。
* * *
しばしの静寂。彫像のように動かない二つの体。やがて客席のいずこから奇声があがる。
――アーオゥッ!
それを機に爆発する8万人の絶叫。
――ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
巨大なセントラルコロシアムの外壁が何もかも消し飛ぶかと思われる程の大喝采。
コロシアム外のオーロラビジョンで観戦していた有象無象の面無し達が、そしてテレビ中継を通して観戦していた150万の住民が。同時にサヴァナの大地を蹴って飛び跳ねた。
そのエネルギーが無視しきれない地響きとなって、戦士達が立つフィールドを揺るがしていく。
客席のあちこちから鳴り物の音が上がり、嵐のような喝采が降り注ぎ、高い口笛の音が右へ左へ飛び交った。そしてありとあらゆる物体が投げ込まれてくる。
座布団、空き缶、ペットボトル、シャツ、ジャケット、ズボン、パンツ、トウモロコシの芯――。
広大なフィールドはあっと言う間にゴミ溜めと化す。
そんな中、ようやくジョーがよろよろと後ろに下がった。2歩、3歩と足を下げ、信じられないといった表情で、そっと殴られた右頬を押さえる。
――ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
「だから言っただろう……」
振り切った拳を引き戻す。
「あんたの“魂”が死ぬって!」
放心しきった表情のジョーが、ロンの顔を見つめている。いま獅子の眼に映っているものは、生まれたままのヒトの素顔。
サヴァナで最も弱い生物である、面無しの顔だった。
――獅子が殴られた!
――ただの面無し(ゼブラ)に!
まさに、面目丸つぶれ。ロンの起死回生の卑怯戦術は、『伝説の獣面脱ぎ(マスクオフ)』として語り継がれることになる。
「フッ……」
観念したように獅子が笑う。もし拳を止めなかったとしても、ジョーの魂は死んでいた。
卑しい面無しの返り血を全身に浴びて、二目と見られない姿になっていただろう。
ともすれば、その返り血をもって獅子への一撃とみなすことも出来る。
いずれにせよ、ジョーの魂がひどく傷つけられたであろうことは間違いなかった。
「これがサヴァナか」
静かに目を閉じて息を吐き、再び確かめるようにして殴られた頬を撫でる。
尋常ならざる気迫を纏っていた獅子が、二周り以上も小さくなっていた。
ロンは立っていることすら苦しく、ついにその場に膝を突いた。
それと同時にジョーが、高く右手を上げてひらりと振った。
場内に轟くファンファーレ。あらかじめ演出を用意してあったのだ。
全てのスポットライトがカプラに当てられ、金の山羊を納めていたカプセルが降りてきた。
そして間もなく大階段に着陸。自動的に留め金が外されて、カプセルが真っ二つに割れる。
そこからカプラが、階段を転がり落ちんばかりの勢いで走り出してきた。
「ロン!」
なおも響き続けるファンファーレ。カプラは転びそうになりながらも、広いフィールドの上を走ってくる。
その後ろ、戦いを見守っていたトラが客の動きを警戒しながらついてくる。
ジョーがロンから離れると、それと入れ違うようにして、カプラが飛び込んできた。
「うおっ……!?」
地に膝をついているロンに抱き着いてくるカプラ。
その頬には金色の髭、そして一筋の涙。
「許してもらえないことはわかってる、でも言わせて……」
懐かしい花のような香り。また会うことがあったら、まず怒鳴ってやろうと思っていたが。
「ごめんなさい……ひどい迷惑をかけてしまって……」
そうしてロンの肩に顔を埋めてくる。どうして良いかわからない。謝らせるために来たわけではないが、心のどこかでこの状況を望んでいたような気もする。
しかしそれはきっと、男の習性のようなもので、けして俺自身の矜持ではない。
あくまでもロンはそう思っておく。
「別に……お前にためにやったんじゃねえ」
だからそれだけ言って答えとした。
「うん、いいの、そんな貴方を私は好きになったのよ……ロン!」
ただひたすら幸福そうな涙を流すカプラ。
いつまでこうしていれば良いのだろうとロンは思う。いい加減疲れてしまった。さっきから頭がクラクラして目蓋が重い。出来ればこのまま横になってしまいたい――……。
――ドドドドドドドド……。
その時、にわかに地鳴りのような音が響いてきた。
ジョーに向かって走ってくるトラが、血相を変えて叫んでいる。
「やばいぞジョー!」
何となく状況がつかめてきた。
「暴動だ!」
どうやら、お行儀の悪い連中がフィールドになだれ込んできているらしい。
一体どうしようってんだ? ロンには理解できない。
ここにはおっかねえライオン様が、トラまで従えて立ってるんだぜ?
「まったく世話の焼ける連中だ。では第二幕と行こうか!」
思ったとおり、好戦的な表情を浮かべてロン達に背を向けるジョー。
にわかにぼやけるロンの視界。世界がぐるぐる回っている。
「……ロン?」
この先のことはどうでも良いとロンは思った。俺はあのライオン野郎をぶん殴ったぜ? それで何もかもみんなOKだ。だからもう――。
「ロン……? どうしたのっ? ロン!」
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