永久なるサヴァナ

ナガハシ

ウルフ・オブ・フューリー

「どうして……」


 眼下で繰り広げられている光景を、カプラは一切の情動なく見つめていた。
 まるで白昼夢を見ているようだった。


 絶対に来ないと思っていた者が来た。
 自分を憎むよう、呆れるよう、忘却するよう、あの猫の館で別れる時に告げた。
 見くびらないで――と。


 あの時ロンは言ってきた。生きたいのならそう言えと。自分を隠すなと。
 頭にこなかったと言えば嘘になる。あの言葉は確かにカプラの誇りを傷つけた。
 それは実際にその通りだったからだ。


 金の山羊になったことに気付いた日、カプラは密かに泣いた。
 偽り続けて見失っていた本当の自分が、その瞬間に眼を覚ましたのだ。
 世界を憎み、自分を蔑み、ありとあらゆる全ての物事に呪いの言葉を吐きかけ続けた自分の願いは、ただ一つ、幸せになりたかっただけなのだと。


 生まれて初めて自由になりたいと思った。そしてカプラは、当時身を寄せていたルーリックの元から立ち去った。
 顔を炭で塗りつぶして都市を徘徊し、有り金のほとんどを投げ売ってカカポの獣面を得た。
 しかし居心地のよい巣から飛び降りて、飛び方すら知らなかった彼女は、この世界の良い餌食だった。
 あのハイエナに襲われていた夜道で、ロンが通りがかっていなかったら、今頃はこうして息をしてないだろう。


 それからマスターの店で過ごした数日は、彼女にとって唯一人間らしく過ごせた時間だった。
 その事実に対し、カプラは本心で感謝している。
 しかし、だからこそ彼らを拒絶し、突き放さなければならなかった。
 自分と関わって良いことなど一つもない。
 そう確信していたから。


 だがロンは来た。そしてカプラに中指を突き立ててきた。
 その意図はすぐに理解できた。彼にはそうする資格がある。
 カプラは一度、彼を死の淵に追いやっている。


 あなたもみすみす、獅子のエサになる気?
 どこかガッカリした気持ちで、戦場となっている二階席を見下ろす。
 オオカミの姿で駆け回っている彼を見ていると、あの夜、タワーの屋上からカカポになって飛んだ時のことが思い出された。


 こんな私でも、自由になれるかもしれない――そう思った。
 新しく生まれ変わって、人間として死んでいけるかもしれないと。
 そう思わせてくれたロンのことを、カプラはこれ以上苦しめたくはなかった。


「どうして来てしまったの……ロン」


 騒然とする2階席。
 獣人化したロンが、いつの間にか水牛の背にまたがっていた。


 そしてもの凄い速度で、カプラに向かって走ってくる――――。


    * * *


「この貸しは高くつくぞ! ロン!」
「ああ、死ぬまでタダ働きしてやるよ!」


 2階席でオスカーと遭遇したロンは、獣化した彼女の背にまたがり、カプラの入っているカプセルめがけて突進していた。
 コンクリートの床を踏み砕かんほどの力強さで、四つの蹄を駆動させるバッファロー。
 五つ目の卑怯戦術――助っ人――その向かう先は金の山羊が納められたカプセルだ。
 そうすれば、獅子をその前におびき寄せられると考えたからだ。


「本当にやりたい放題だな!」


 当然、山羊を守るべく大階段を駆け上がってくるジョー。2階席に立つと、カプセルの前方に仁王立ちし、その両腕を前方に構える。


「頼むぜ姉さん!」
「全力でぶちかましてやる!」


 床すれすれの位置から、巨大な兜のようなその角を振り上げる。
 ジョーもまた、限界まで重心を低くし、スモウレスラーのように拳で床を叩いて突進した。


――ベキシィ!!


 大質量の肉と肉がぶつかりあう。空間が弾け、かぶり付いていた客達がその衝撃波で吹き飛ばされる。
 ジョーは人の姿のまま荒れ狂う猛牛を受け止めると、足を踏ん張ってブレーキをかけた。
 ブーツの靴底がみるみる磨り減り、金属材がむき出しになって火花を上げる。
 大量の筋肉を積載した水牛が、その黒光りする肉体を脈打たせてさらに突っ込む。


「いまだ!」
「おう!」


 水牛の背から身を乗り出し、ロンは無防備になっているジョーの頭部に拳を振るった。
 右! 左! 右!
 しかしあたらない。ジョーはオスカーの突進を受け止めつつも、鋭い眼光でロンを睨み、地獄のような集中力で、その拳の軌道を“誘って”いたのだ。


「ちい!」


 良いように打たされていると察したロンは、飛び上がって水面蹴り――これならばかわせまい!――しかしその時ジョーの首が――柔軟性も抜群――ありえないほど後ろに反り返った。


「化け物か!?」


 頭に血が上ったロンは、オオカミ形態に変化。体ごとジョーにぶつかっていく。
 目の前に迫るジョーの顔。しかし次の瞬間、その顔は金色の絨毯に変わり――。


「ぐっ……ここまでか!」


 オスカーの突進が止まった。その角を掴む腕は、まるで鋼鉄のケーブルを束ねたような、およそ生物とは思えない形状に変化していた。
 それは獣人化した獅子の豪腕だった。


「GARAAAAAAー!!」


 テーブルをひっくり返すくらいの気軽さで、質量1トンの水牛が放り上げられる。
 ロンもそれに巻き込まれてもみくちゃになる。
 空中をひらひらと舞っている最中、獅子の獣人となったジョーの背後に、一瞬だけこちらを向いているカプラが見えた。


――おいおいおい……。


 ロンはやれやれと首を振る。


――なんでそんな顔してんだよ。俺はお前を助けに来たわけじゃねえんだぞ。


 ロンに向かって拳を振り上げてくるジョー。その動作で見えなくなるカプラ。


――なのに何であんたは……。


 ロンの体をすっぽりと覆いつくほどの巨大な拳が飛来。


――何でそんな泣きそうな顔してんだよ!


「うおおおおおおおっ!!」


 全身の力をすべて己の拳に集中する。空中戦エアリアル――迫り来る拳に合わせる拳。


――ドガッ!


 あたかもゾウの鼻に打ち落とされるハエ。
 絶望的な威力差に吹き飛ばされ、ロンの体は隕石のように2階席の落下防止パネルを突き破り、フィールドめがけて一直線に突っ込んだ。


「ぐうううううぅぅぅ……ぉぉぉおおおおおお!!!」


 空中で体を回転させて、決死の受身を試みる。
 眼下にせまる地面に対して足を向け、尻、背中、肩、腕と全身を最大限に使って落下エネルギーを分散。
 ロンの体は、まるで椀を転がすような動きを見せた後、フィールド上で弾み上がった。


「ぐぬううう!」


 再度クルクルと後方宙返りをして着地。奇跡的に無傷――だが。


「うっ……!?」


 瞬間、視界がぼやけた。脳震盪に似た症状。
 地平線がぐるぐると回り、平衡感覚がつかめない。少し、無理な動きをしすぎたか――。


「いやはや、しぶとい」


 獣人形態のまま、ジョーはたったの三歩で2階から大階段を下ってきた。


「戦術はともかくとして、このわたし相手に素晴らしい成果だよ」


 ロンはぼやける視界に鞭打って相対する。


「……あんた、俺に何か恨みでもあるのかよ」


 手を抜かれているのは明らかだった。獅子の戦い方は、まるでこちらに完全な敗北感を植えつけようとしているようだった。あたかもネズミを弄ぶネコのように。


「いいや、ない」


 きっぱりと否定してくるジョー。


「じゃあ何で人をおちょくるような戦い方をする!」
「認めさせるためだ」


 そう言ってジョーはカプラの方を見る。


「私こそが、もっとも金の山羊を抱くのにふさわしい男なのだとな」
「ああん?」


 ロンにはジョーが言っていることの意味がわからない。
 カプラに男として認めてもらいたいのか――? でも、だったらなんで俺を巻き込む必要がある。


「まだわからないのかね“ロン”」


 ジョーが初めてロンを名前を呼ぶ。


「ああ、わからねえよ“ジョー”」


 ロンもまた相手を呼び捨てることで応える。


「そうか、ならば教えてやろう」


 ジョーは太い指先でカプラを指し示す。続いてその指をロンの方に振り向けた。
 そして、想像だにしなかった言葉を吐いた。


「彼女は君を“愛している”のだ!」
「…………はあぁ!?」


 ロンは頭の中が真っ白になった。


「私は、別の誰かを愛している女を平気で抱けるほど、無神経な男ではないのだよ!」


 いよいよ頭がクラクラする。今起こっている事態を上手く認識できない。


「て、適当なことぬかしてんじゃねえ!」
「適当などではない、ゆるぎない真実だ。あの姿を見てみたまえ」


 言われて見た先、透明なカプセルの中のカプラが――。


「なっ…………」


 本心をつまびらかにされた羞恥のために、両手で顔を押さえて泣いていた。
 その姿を見たロンの胸に、真っ先に巻き起こった感情は――。


「……ふざけるなあ!」


 ロンの全身から野獣の毛が噴き出す。


「それはてめえが言っていいセリフじゃねえだろ!!」


 カプラに対して無神経極まりないセリフを抜けぬけと言ってのけた獅子に対する、脳みそが焼け焦げるほどの“怒り”だった。


「もうブチ切れたぜ……」


 拳を握って前に出る。


「あの女がどうなろうと俺は知らねえ……。でも今のあんたの言葉は、最高に気に食わねえぜ!」
「ふふふ、ならばどうする?」
「決まってんだろ!?」


 ロンの背中から獅子にも勝る闘志が溢れ出す。もはや殴るだけでは気が済まない――。


「てめえをぶっ倒す!」


――ウオオオオォォーーン!


 その遠吠えが戦闘開始の合図だった。0.01秒でオオカミ形態へと移行したロンは、一瞬にして最大速度に加速。電光石火の素早さで獅子の足元に切り込んでいく。


「ならばわたしも全力をもって答えよう!」


 同じく大獅子の形態に移行したジョーは、その巨体からは想像もできないほどの速度でロンを迎え撃った。
 もはや会場にいるどんな人物にも、二人の動きを追うことはできない――。









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