永久なるサヴァナ

ナガハシ

豪雨の中で

 それからの一週間、かつてないほどの獣闘熱にサヴァナは支配された。


 街の至るところで訓練に励む者の姿が見られた。朝からランニングに精を出す者。空き地でひたすらサンドバックを叩く者。古びた闘技場に繰り出して、相手を探して仕合う者。
 より強い獣面を求めて、命がけの戦いに臨む者も少なくなかった。


 たった一発、獅子長の顔にパンチを入れるだけで、金の山羊を手に入れられる。
 飲みきれない程の美酒。使い切れない程の金。そして抱ききれない程の美女。
 サヴァナ虎の巻においてはっきり『非推奨』と書かれているそれら願いを、しかし叶えたいと願う者は、実際かなり多くいるのだった。


 獣闘は、サヴァナに二枚目の獣面が舞い降りた瞬間から始まった。そして数十万年の永きに渡って続けられてきた。もはや歴史や文化といった次元を超越した、サヴァナ民の血肉そのものになっている。
 獅子長が言い放った『殴ってみたまえ』の一言は、そんなサヴァナ民の眠れる闘争本能を、一瞬にして燃え上がらせたのだった。


    * * *


 キングタワー最上階。獅子長の間のさらに上。タワー頂上部のピラミッド構造体の内部に、こじんまりとした部屋がある。
 そこは獅子長が金の山羊を『食う』ために作られた部屋だった。


 床面積は8m四方ほど。天井はアーチ状になっていて、一番高いところで3mと低い。全体的に手狭な感じのする、いかにも『屋根裏部屋』といった趣きだ。
 天の不死鳥が見える方向には、直径1mほどの円形の窓が取り付けられており、厚さ16cmの超高性能防弾ガラスであるそれは、対物ライフルの直撃にも耐える代物だった。


 そんな堅牢極まりない部屋の内装は灰色に統一されていた。灰色の椅子、灰色の絨毯、灰色の壁紙、灰色のベッド。何もかもが灰色である。
 それらの中で唯一黄金色の輝きを放っているのが、金の山羊カプラだった。窓際の椅子に腰掛け、背筋をのばし、首だけを窓の方に向けている。
 その窓の向こうに見える空までが、分厚い雲に覆われて灰色で、地上400mから見下ろす都市の景色は、うっすらと水蒸気で霞んでいた。


 カプラは微動だにしない。明日、オープニングセレモニーが行われた後、彼女はここで獅子に抱かれることになる。
 恐らくジョーを殴れる者は一人も現れないだろう。
 現れたとて、彼女の運命が変わるわけでもない。そこには、ただ静かに死を待つ者の姿だけがある。


「ご機嫌いかがかな、カプラ」


 そこに食事がのったトレーを手にしたジョーが入ってきた。
 ここは彼以外の者は立ち入れないので、服や食事はみな彼自身が用意しなければならない。
 獅子はカプラの傍らに立つと、ともに窓の外に眼を向けた。


「何か足りないものはないかね?」


 トレーをテーブルの上に乗せつつ言う。


「いいえ、何もかもが満ち足りています」
「そうか、ならば良い」


 ジョーは化粧台の方に眼を向ける。カプラが美しくあるために必要なものが、そこには全てそろっている。
 ベッドの上には柔軟運動をするためのマットレスが置いてある。
 給湯装置を備えたバスルームにも、彼女が要求してきた品物が一通り揃えられている。
 カプラはそれらを使って、まるで自動メンテナンス機能のついた精緻な機械のように、自分の体を最高の状態に保ち続けている。
 そしてジョーにとっては、それが彼女に望む全てだった。


 そのまま二人は、しばし窓の外に目を向けていた。特にどこを見ているわけでもなく、ただ頭の中をまっさらにして、互いの存在を受け止めているだけだ。
 この一週間、二人が口にしたことといえば、生活上の必要事項、そしてスケジュールについてのみだった。


 むしろジョーは、彼女を抱きたくないとさえ思っていた。
 金の山羊が彼女であったという事実を知って、これは一体どんな因縁かと天に問わずにはいられなかったくらいだ。


「あの日の空も、こんな色をしていた」


 静かな声で呟き、視線を隣に座る女に向ける。その頬に生えた金色の髭。その色と正対象な曇天の空。しかしその天候を水晶球に命じたのは、他ならぬジョー本人だった。
 まもなく水桶をひっくり返したような豪雨が訪れるだろう。多くの者が外で服を脱いで体を洗い、雨水をタンクに溜め始めるだろう。


 二人は一度、過去に出会っている。
 七年前、先代獅子長を倒すべく、ジョーが仲間達とともに宮殿に侵入したあの日も、まさにこのような、豪雨が訪れる直前のことだった。


 * * *


 先代獅子長の宮殿は、現在セントラルコロシアムが建っている場所にあった。
 切石積みの壁によって二重に囲まれた敷地の中央に鎮座する、壮麗なドーム屋根と無数のコラムからなる宮殿。
 今から260年前の獅子長が築き上げた建築物で、金の山羊の願いによって宮殿部分のみが館化されていた。


 どこか中東世界の神殿を思わせる構造で、壁は少なく、開放的な中庭を持ち、どこまでも風通しの良い造り。
 その宮殿の構造は、ひとえに獅子が持つ力が強すぎることに起因していた。
 住居を要塞化する必要がまったくない。すなわち居心地の良さが最優先されたのだ。


 しかし先代の獅子長に限っては違っていた。先代は非常に臆病で、警戒心の強い男だった。宮殿の周囲に二重の防壁を築き、その防壁の間に警備を置いて、自らは唯一鍵の掛かる空間であるハーレムに閉じこもって、滅多に外に出なかった。


 ジョー達は、その先代の臆病さを逆手に取ることにした。
 降雨の瞬間を見計らって、トラの獣面をかぶった盟友に正面を襲わせる。そして警備がそちらに集中している間にジョーが獅子に奇襲をかけるのだ。


 その時ジョーが被っていた獣面は、肉食系第三位のジャガーだった。
 獅子面の1000に対して、ジャガー面は350。この戦力差で獅子に勝った者は、ジョー達の知る限り前例が無かった。
 しかしジョーは、戦闘力指数500のトラ面を盟友に譲って、自ら奇襲をかける危険な役を買って出たのだ。


 しかし状況は思わぬ好展開となる。コンドルの足に掴まって空から宮殿に降り、そしてハーレムの入口まで来た時、ジョーはそこに一人の従者が血を流して倒れているのを発見する。
 獅子によって殴殺されたらしく、首が半回転以上もねじれて、頬骨と頚骨が完全に砕けていた。


 ジョーは速やかに状況を理解した。従者はトラの襲撃を獅子に伝えようとしたのである。
 しかし、何らかの理由で獅子は気が立っていた。危機を報告しにきた従者を、その内容を聞きもせずに殺してしまったのだ。そしてさらには、石の大扉を閉めずに戻って行ってしまった。


 こうしてジョーは、たやすく獅子のハーレムに侵入出来てしまった。


 僅かな蝋燭の火で照らされた室内。大理石の壁に浮かび上がる巨大な獅子のレリーフ。濃密な香の匂いに満たされたその空間を、ジョーはジャガーの姿となって、足音一つ立てずに進んでいった。
 壁際のテーブルには食べかけの料理と、ワインで満たされたディキャンター、そして金色に輝く水差しが置かれていた。
 床には無数の酒瓶と、女の下着とおぼしき布切れ。


 コの字状の奥まった造りになっているハーレムの中央まで来たところで、ジョーは様子がおかしいことに気付いた。人気が余りにもなさ過ぎるのだ。
 部屋の一角に並べられた楽器類。部屋の中ほどにあるステージ。その前に置かれた金装飾の長椅子。ここはサヴァナ中、いや世界中から集められた美女と演者によって賑わっているはずの場所なのだ。それがまるで閑散としている。獅子の気迫さえ感じられず、無人の洞窟のようにひっそりとしている。


――アア……。


 ようやく己の心音以外の音が聞こえた。小鳥のさえずりのようなか細い声だった。


 少女か――? しかも一人。大きな動きもないようだ……。
 ジョーはジャガーの形態を保ったまま、コの字状の部屋の角から、ハーレムの最奥部を覗き込んだ。


 ジョーの目に、老いた男の背中が見えた。たっぷりと脂肪のついたその体には、一筋の白い線が絡み付いてる。それが少女の腕であると気付くのに、しばしの時を要した。
 そこには獅子と少女が二人きりだった。他にも数え切れないほどの女を囲っているというのに、あんな年端もいかない少女一人と睦んでいるとは――。


――アア……アア……!


 なおも鳴り続ける少女の声。獅子はすっかり夢中のようだった。
 侵入者に気付く様子は微塵もない。その太い腕で少女を抱き寄せ、かいがいしく愛撫している。その金色の長い髪をつまんでみたり、指で白い肌を撫でてみたり、濃い髭を蓄えた口で首筋に吸い付いてみたり――。


 およそ考えうる限り、もっとも想定していなかった事態だった。私欲と怠惰のために、サヴァナを混沌のどん底に突き落とした男が、あれではまるで、人形遊びをしている少女ではないか――。


 信じがたい思いで獅子の戯れを見ていると、不意にその少女と目が会った。


「……っ!」


 一気にジョーの全てが臨戦態勢になる。少女が悲鳴を上げた瞬間が、勝負の時。
 眼前に運命の分かれ目を見たジョーの内部に、真っ白になるほどの闘志がみなぎった。


――ウフフフ……。


 だが少女は声を上げなかった。その代わり、ジョーにだけ見えるようにして、背筋が凍るような微笑を浮かべてきたのだ。


 言葉を失う――という経験を、ジョーはこの時はじめてした。


 歳は10は越えている。だが15には達していまい。そんな少女が、老いているとはいえあの獅子を、すっかり手玉にとっている。
 さらにはジャガーと化している侵入者の一目見ただけで、その目的を完璧に見抜いてみせた。


 本当に人間なのかと疑わずにはいられなかった。あの容姿にして、既に1000年の時を生きているようにさえ思われた。
 ジョーがそのままの姿勢で注視していると、少女の方から行動を起こし始めた。獅子に弄ばれつつも、その動きを巧みに誘導していく。そして気付けば獅子は、ジョーに対して完全に尻を向けていた。


 まさに絶好機。少女の白い素足が、老いた獅子の背中に絡んでいく。ガラス細工のつま先が、おいでおいでとジョーを呼ぶ――。


 若き小獅子は迷うことなく駆け抜けた。限りなく肉迫するまで相手は気づかなかった。
 その鋭い爪を一薙ぎすると、老いた男のアキレス腱が、2つまとめて断裂した。


「――――あ!?」


 雷に撃たれたかのように全身を跳ね上げる獅子。しかし勝負は始まった時点で決していた。


 * * *


 部屋の円窓に雨雫がうちつけてきた。2つ3つと滴り落ち、まもなくガラスの全面を覆いつくす雨水の流れとなる。分厚いコンクリート壁を突き抜けて、ザアザアと雨音が響いてくる。


「あの時の少女は君だったのだ。覚えているか」


 カプラは正面を向いて小さく頷いた。獅子もまた、カプラに視線を送りつつ頷いた。


「もし君がいなかったら、わたしは獅子と一対一で戦うことになっていた」


 ジョーはたてがみを撫でつつ、もしそうであった場合の結果に思いを馳せた。


「もしかするとわたしは負けていたかもしれない」
「そして私は、いずれこわされていた」


 カプラは静かにそう返す。それで貸し借りは一切無し。遠慮はいらない――。
 すると獅子は、側にいるカプラにぎりぎりわかる程度に微笑んだ。二者の間に情の交流らしきものが発生したのは、この一瞬限りだった。


「わたしは君を使って、セントラルコロシアムを館化する。先代の宮殿を地中深く沈めるのに1年かかった。わたしのコロシアムを沈めようと思ったら、おそらくその10倍は時間がかかるだろう。そうやすやすとは消えてはなくならない」


 窓に背を向け、部屋の入り口に向かって一歩踏み出す。


「君の姿を模した彫像を取り急ぎ作らせた。コロシアムと供に館化する。サヴァナの象徴たる建築物の礎となった女として、君の名は後世まで語り継がれるだろう」


 消え行く女に対する、せめてもの手向け。しかしカプラの表情には一点の変化もない。
 そしてそのような態度を彼女がとることを、獅子はすでにわかっていた。


「わたしは先代のようにはしない。わたしはわたしのやり方で君を抱く。よいな」
「――はい」


 無機質に。しかしこの上ない力強さをもって、カプラは獅子の問いに答えた。
 その返事に満足した獅子は、そのまま真っ直ぐ部屋を後にする。


「では明日の7時に」


 それだけ言い残して獅子は扉を閉じ、そして外側から鍵をかけた。


 部屋に一人取り残される山羊。
 しばし椅子に腰掛けたまま、真っ直ぐに前を向いてじっとしている。
 やがて何かから顔を隠すようにして、雨水が滝のように流れる円窓の方に顔を背けた。









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