アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
目覚め
飼料用とうもろこしが植えられた土地が延々と広がる農作地帯。
まったくと言っていいほど交通量のないその農道を、パールホワイトに塗られた場違いなリムジンが走り抜けていく。
右手に川が見えてきた。程なく左手に、鬱蒼とした森を抱える小高い丘陵が見えてくる。
川と道路の間に広がる2ヘクタールの土地には、今は大豆が植えられていた。一方、道路を挟んだ山側の二枚畑には、何も植えられていなかった。
そこはかつて、僕の住んでいたプレハブ小屋があった場所だ。
僕は真理さんとともに車を降りる。懐かしい空気が体の中に流れ込んできた。
「ここに小屋があって、その辺りにビニールハウスがあった」
腰の高さ程まで伸びた雑草を踏み分けながら、放棄農地に入っていく。
後から真理さんがついてくる。
「トマトを栽培していたのですね」
「他に、キュウリやナスなども。この畑の面積は10アールほどある。ここにびっしり、トウモロコシとダイズを植えて育てていた。自給自足は流石に無理だったけど、かなり食費を浮かせることが出来たんだ」
雑草を入念に靴で踏んで道をあける。長靴でも用意しておけばよかったかと思う。
僕のスーツが汚れてしまうことには何の問題もないが、真理さんの服を汚してしまうことは避けたい。
「すみません、まさか放棄地になっていたなんて」
「いいえ、大丈夫ですよ」
振り返って見てみると、真理さんは背が高いからか、あまり雑草の影響を受けていないようだった。
ストッキングに少しばかり、草の穂がくっついている程度だ。
そうしてしばし進むと、雑草が生え放題に山沿いの一角に、よく注意しなければわからないほどの、土の盛り上がりを見つけた。
「ここに飼っていた犬を埋めました」
「はい」
「二頭とも、トマトが大好きなイヌでした。僕が食べるものなら何でも食べたがったんです」
「何歳まで生きたのですか?」
「一頭は18歳、もう一頭は22歳。両方ともシバ系の雑種でした」
「随分と長生きしたのですね。トマトのおかげでしょうか」
「そうかもしれません」
僕は真理さんともに、その場にしゃがんで手を合わせる。
* * *
犬の墓を後にした僕達は、今度は近くの町営墓地に向かった。
舗装された山道を登り、車が二台停められるかどうかという、狭い駐車場に停車する。
駐車場の脇には、お地蔵様の小さなお堂が建っている。お菓子と花がいくつか供えられているが、カラスかキツネにでも荒らされたのだろう。ひどく散らかっていた。
僕は真理さんとともにお堂の掃除をして、用意しておいた落雁を供えた。そしてお地蔵さんの首に巻かれている、いつの昔のものかもわからない布切れの上に、新しい真紅の布を巻きつけた。
「ん?」
その時どこからともなく、バスケットボールほどの大きさの物体が転がってきた。
針の塊のようなその形状――。
間違いない、自律裁定端末だ。
「こんなところにまで」
「道内でも、一千台ほど稼働していますから。殆どお巡りさんのようなものですね」
「ご苦労さまなことだ……」
自律裁定端末は、しばし僕らを観察した後、またどこかへと転がって行ってしまった。
地蔵堂の掃除を済ませて、墓地へと入っていく。雑草こそ綺麗に刈り払われているが、墓石の多くは古くなって黒ずみ、ものによっては風化が進んで丸みを帯び始めていた。
墓を建ててそこにお骨を納めるという風習自体が、一般的ではなくなって久しいのだ。
その中でも比較的綺麗で、造りもしっかりとした墓石の前で僕達は立ち止まった。
墓標には「保坂家ノ墓」と刻まれている。
「大変お世話になった方なんだ」
墓の上からミネラルウォーターをかけて、雑巾で鳥の糞などを拭う。
いつ活けられたかわからない萎れた花を取り除き、代わりの新しい花を供える。
線香に火をつけて、線香台の上に横にして置く。風が少しあったので、ロウソクはつけないでおいた。
そして手を合わせて目を瞑る。保坂さんと、その奥さんにしてもらったことを思い起こしながら、僕は長い間手を合わせ続けた。
初めて会った時、気持ちの良い笑顔で迎えてくれたことを思い出した。僕が殺人を犯していると知っても、その態度を崩さなかったおおらかさを思い出した。
そして、保坂さんの葬式に呼んでもらえなかった時の悔しさを思い出した。
真理さんは一歩後ろに下がって、僕と同じく手を合わせてくれていた。
目を開けると、周囲の景色が一回り明るくなっていた。墓地のある丘の上からは、農業地帯が一望できた。
一面、見渡す限りの緑。ゆるやかに蛇行する川が、視界の端から端までを横切っている。
農地はいくつかの防風林で区切られていて、その所々に、全自動作業を続ける多足型農耕機械が見える。遠くから見ると、その姿はまるで、緑の葉の上を動きまわる天道虫のようだ。
さらにその遠くには、数千頭規模の乳牛を飼育している、メガファームの赤い屋根が見えていた。
滅多に人が来ることのない寂れた町営墓地で、いま僕は、一人の女性とともに立っていた。
僕は着慣れない高級スーツ、真理さんはグレーのワンピーススーツ姿で。
風に吹かれて、墓地の辺縁に生えている草が揺れる。
ふとその葉音が、僕に何かを伝えようとしているように聞こえた。
僕の足は、そんな草の囁きに引き寄せられるようにして、自然と墓地の辺縁へと踏み出されていった。
後から真理さんが静かについてくる。引き寄せられた先には、僕を今まで生かし続けてくれた発電性植物――エレクトリカ――が生えていた。
「エレノアだ。こんなところにまで自生していたなんて」
「見ただけでわかるのですか?」
「うん、長い付き合いだからね。葉の揺れ方を見ただけでわかってしまうよ」
「農地からは随分と離れていますね。どうやってここまで来たのでしょう」
「さて……種が風に飛んだか、もしくは地道に茎を伸ばしてきたか」
「茎を?」
僕は一つ頷く。
「エレノアは地下茎繁殖をする植物だから、あちこち茎を伸ばして動き回るんだ」
「まるで動物のようですね……」
「うん。植物というのは、意外なほどに移動するものなんだ」
「見晴らしの良い場所を求めて、ここまでやって来たのでしょうか」
かすかな風が吹き、僕らの頬を撫でていく。
草がサワサワと揺れて、僕のしわがれた手をくすぐる。
「そうかもしれない」
僕はそう言って、少しだけ笑った。
真理さんは、実はとてもロマンチストな人だった。その心に触れられただけでも、このデートを企画した甲斐があったというものだ。
不覚にも、口元がにやついてきた。
そうして胸踊る気持ちをそのままに、僕はしばらくエレノアの葉を手で触って、その感触を確かめていた。
「あっ」
その時だった。僕の胸のうちに光明が灯った。
目が覚めたと言っても良いかもしれない。
心の奥底から、熱いマグマのようなものが込み上げてきた。
「ああ……」
そして自然と涙が込み上げてきた。
見晴らしの良い場所をもとめて、丘の上まで地下茎を伸ばしてやってきた草。
ちょっとした高みを昇るために、何十年もの歳月をかけた。
そうしてようやく求める場所に辿り着いた。望む景色を手に入れた。
それは、誰かと供に見るささやかな夢。
僕はここへ来るために生まれてきた――。
そのことに気づいた僕は、もう正気ではいられなくなった。
たまらず目頭を押さえてうずくまる。
真理さんが慌てて僕の肩を抱いてくる。
「どうされました!?」
「……いいえ、大丈夫です」
「でも、いきなり……」
僕は黙って首を振る。
そして、今この胸に生じた衝動を、そのままの形で真理さんに伝える。
「大丈夫ですよ、真理さん」
「はい……?」
「不安なことなんて何もありません。この先どんな事が起ころうとも、人が生きる意味を失うなんてこと、ありはしませんから」
「え……?」
いまだ戸惑いを隠せない真理さん。
肩に載せられたその手を、僕は握り返す。
そして再び顔を上げ、彼女とともに目の前に広がる光景を見晴らした。
夕日に照らされた緑の大地が、遠い空の際まで続いていく。
ただそれだけの景色を、僕はこの上なく愛しいと思った。
まったくと言っていいほど交通量のないその農道を、パールホワイトに塗られた場違いなリムジンが走り抜けていく。
右手に川が見えてきた。程なく左手に、鬱蒼とした森を抱える小高い丘陵が見えてくる。
川と道路の間に広がる2ヘクタールの土地には、今は大豆が植えられていた。一方、道路を挟んだ山側の二枚畑には、何も植えられていなかった。
そこはかつて、僕の住んでいたプレハブ小屋があった場所だ。
僕は真理さんとともに車を降りる。懐かしい空気が体の中に流れ込んできた。
「ここに小屋があって、その辺りにビニールハウスがあった」
腰の高さ程まで伸びた雑草を踏み分けながら、放棄農地に入っていく。
後から真理さんがついてくる。
「トマトを栽培していたのですね」
「他に、キュウリやナスなども。この畑の面積は10アールほどある。ここにびっしり、トウモロコシとダイズを植えて育てていた。自給自足は流石に無理だったけど、かなり食費を浮かせることが出来たんだ」
雑草を入念に靴で踏んで道をあける。長靴でも用意しておけばよかったかと思う。
僕のスーツが汚れてしまうことには何の問題もないが、真理さんの服を汚してしまうことは避けたい。
「すみません、まさか放棄地になっていたなんて」
「いいえ、大丈夫ですよ」
振り返って見てみると、真理さんは背が高いからか、あまり雑草の影響を受けていないようだった。
ストッキングに少しばかり、草の穂がくっついている程度だ。
そうしてしばし進むと、雑草が生え放題に山沿いの一角に、よく注意しなければわからないほどの、土の盛り上がりを見つけた。
「ここに飼っていた犬を埋めました」
「はい」
「二頭とも、トマトが大好きなイヌでした。僕が食べるものなら何でも食べたがったんです」
「何歳まで生きたのですか?」
「一頭は18歳、もう一頭は22歳。両方ともシバ系の雑種でした」
「随分と長生きしたのですね。トマトのおかげでしょうか」
「そうかもしれません」
僕は真理さんともに、その場にしゃがんで手を合わせる。
* * *
犬の墓を後にした僕達は、今度は近くの町営墓地に向かった。
舗装された山道を登り、車が二台停められるかどうかという、狭い駐車場に停車する。
駐車場の脇には、お地蔵様の小さなお堂が建っている。お菓子と花がいくつか供えられているが、カラスかキツネにでも荒らされたのだろう。ひどく散らかっていた。
僕は真理さんとともにお堂の掃除をして、用意しておいた落雁を供えた。そしてお地蔵さんの首に巻かれている、いつの昔のものかもわからない布切れの上に、新しい真紅の布を巻きつけた。
「ん?」
その時どこからともなく、バスケットボールほどの大きさの物体が転がってきた。
針の塊のようなその形状――。
間違いない、自律裁定端末だ。
「こんなところにまで」
「道内でも、一千台ほど稼働していますから。殆どお巡りさんのようなものですね」
「ご苦労さまなことだ……」
自律裁定端末は、しばし僕らを観察した後、またどこかへと転がって行ってしまった。
地蔵堂の掃除を済ませて、墓地へと入っていく。雑草こそ綺麗に刈り払われているが、墓石の多くは古くなって黒ずみ、ものによっては風化が進んで丸みを帯び始めていた。
墓を建ててそこにお骨を納めるという風習自体が、一般的ではなくなって久しいのだ。
その中でも比較的綺麗で、造りもしっかりとした墓石の前で僕達は立ち止まった。
墓標には「保坂家ノ墓」と刻まれている。
「大変お世話になった方なんだ」
墓の上からミネラルウォーターをかけて、雑巾で鳥の糞などを拭う。
いつ活けられたかわからない萎れた花を取り除き、代わりの新しい花を供える。
線香に火をつけて、線香台の上に横にして置く。風が少しあったので、ロウソクはつけないでおいた。
そして手を合わせて目を瞑る。保坂さんと、その奥さんにしてもらったことを思い起こしながら、僕は長い間手を合わせ続けた。
初めて会った時、気持ちの良い笑顔で迎えてくれたことを思い出した。僕が殺人を犯していると知っても、その態度を崩さなかったおおらかさを思い出した。
そして、保坂さんの葬式に呼んでもらえなかった時の悔しさを思い出した。
真理さんは一歩後ろに下がって、僕と同じく手を合わせてくれていた。
目を開けると、周囲の景色が一回り明るくなっていた。墓地のある丘の上からは、農業地帯が一望できた。
一面、見渡す限りの緑。ゆるやかに蛇行する川が、視界の端から端までを横切っている。
農地はいくつかの防風林で区切られていて、その所々に、全自動作業を続ける多足型農耕機械が見える。遠くから見ると、その姿はまるで、緑の葉の上を動きまわる天道虫のようだ。
さらにその遠くには、数千頭規模の乳牛を飼育している、メガファームの赤い屋根が見えていた。
滅多に人が来ることのない寂れた町営墓地で、いま僕は、一人の女性とともに立っていた。
僕は着慣れない高級スーツ、真理さんはグレーのワンピーススーツ姿で。
風に吹かれて、墓地の辺縁に生えている草が揺れる。
ふとその葉音が、僕に何かを伝えようとしているように聞こえた。
僕の足は、そんな草の囁きに引き寄せられるようにして、自然と墓地の辺縁へと踏み出されていった。
後から真理さんが静かについてくる。引き寄せられた先には、僕を今まで生かし続けてくれた発電性植物――エレクトリカ――が生えていた。
「エレノアだ。こんなところにまで自生していたなんて」
「見ただけでわかるのですか?」
「うん、長い付き合いだからね。葉の揺れ方を見ただけでわかってしまうよ」
「農地からは随分と離れていますね。どうやってここまで来たのでしょう」
「さて……種が風に飛んだか、もしくは地道に茎を伸ばしてきたか」
「茎を?」
僕は一つ頷く。
「エレノアは地下茎繁殖をする植物だから、あちこち茎を伸ばして動き回るんだ」
「まるで動物のようですね……」
「うん。植物というのは、意外なほどに移動するものなんだ」
「見晴らしの良い場所を求めて、ここまでやって来たのでしょうか」
かすかな風が吹き、僕らの頬を撫でていく。
草がサワサワと揺れて、僕のしわがれた手をくすぐる。
「そうかもしれない」
僕はそう言って、少しだけ笑った。
真理さんは、実はとてもロマンチストな人だった。その心に触れられただけでも、このデートを企画した甲斐があったというものだ。
不覚にも、口元がにやついてきた。
そうして胸踊る気持ちをそのままに、僕はしばらくエレノアの葉を手で触って、その感触を確かめていた。
「あっ」
その時だった。僕の胸のうちに光明が灯った。
目が覚めたと言っても良いかもしれない。
心の奥底から、熱いマグマのようなものが込み上げてきた。
「ああ……」
そして自然と涙が込み上げてきた。
見晴らしの良い場所をもとめて、丘の上まで地下茎を伸ばしてやってきた草。
ちょっとした高みを昇るために、何十年もの歳月をかけた。
そうしてようやく求める場所に辿り着いた。望む景色を手に入れた。
それは、誰かと供に見るささやかな夢。
僕はここへ来るために生まれてきた――。
そのことに気づいた僕は、もう正気ではいられなくなった。
たまらず目頭を押さえてうずくまる。
真理さんが慌てて僕の肩を抱いてくる。
「どうされました!?」
「……いいえ、大丈夫です」
「でも、いきなり……」
僕は黙って首を振る。
そして、今この胸に生じた衝動を、そのままの形で真理さんに伝える。
「大丈夫ですよ、真理さん」
「はい……?」
「不安なことなんて何もありません。この先どんな事が起ころうとも、人が生きる意味を失うなんてこと、ありはしませんから」
「え……?」
いまだ戸惑いを隠せない真理さん。
肩に載せられたその手を、僕は握り返す。
そして再び顔を上げ、彼女とともに目の前に広がる光景を見晴らした。
夕日に照らされた緑の大地が、遠い空の際まで続いていく。
ただそれだけの景色を、僕はこの上なく愛しいと思った。
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