アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
啓示
「クリスタルタワーの即身仏……」
僕が犬達と一緒にプレハブ小屋で暮らしていた頃の出来事だ。
当時は隠遁生活のようなことをやっていたから、あまり気にかけなかったけど……。
「少年は苦行僧のような生活を半年続けて、そしてひと月ほど前から完全に飲食を絶っていました。そして予定通り、自らの死とともにクリスタルタワーを建てさせました。ニューデリーの気候は概ね乾燥しています。骨と皮だけになっていた少年の体は、座禅を組んだ姿勢のままで、綺麗な状態に保たれていました」
「……一体どうして、そんなことをしたのだろう」
僕のその問いに、真理さんは静かに首を振って答えた。
「その理由は今でも良くわかっていません。ただ多くの人々、それも経済に関わる人達に、何かを伝えたかったのだと推察されるだけで……」
「うん……」
「アメリカの学生が、私達日本人のグループを誘ってきたのは、日本の即身仏のことを知っていたからです。日本人である私達になら、そのミイラ化した少年について何らかの共感を持つのではないかと彼は考えたのです」
そこで真理さんは一旦間をおき、水を一口飲んだ。
テーブルにグラスが降ろされる時のコトリという音が、やけに意味深く響いた。
「だが、その時真理さんはまだ13歳だった」
「はい。私が即身仏になったその少年を見て感じたことは、ただ途方も無い虚無感でした。この世の一切のことに意味はない、そういった虚しい感情です」
「そのガラスの密室は、誰でも見学できるようになっていた」
「はい。少年は初めからそのつもりで、クリスタルの塔を建てていました。ミイラ化した自分の姿を、出来るだけ多くの人に見てもらうこと。それが、少年の目的であったことは明らかです。アメリカ人学生は私達にこういいました。『これこそが人間の究極の姿なのではないか?』と。そして、これこそが全ての人間が目指すべき地平なのではないかと」
真理さんはそっと目を閉じて、再び静かに首を振った。
「私は彼の言うことを理解したくありませんでした。でも……」
言いにくそうに口元を歪める。
「何故か……何故だか心のどこかでは……そうかもしれないと感じてしまっていたのです。ミイラ化したその少年の表情は、不思議と幸せそうでしたから……」
「その仏様になった少年の姿は、今でも見られるのだろうか?」
「はい。今でも少年はクリスタルタワーの頂上にいます。毎年多くの観光客が、その姿を見学していきます。彼の姿を見た者が受ける印象は、それこそ、人それぞれです」
「恐怖に怯える者もいれば、感動する人もいる……」
「それが、天才中の天才と言われた少年が、15年の生涯で導き出した答えだったのですから……。私はあの時、人が持ちうる知性の頂上を見たのかもしれません。私がついていけないと感じた人達でさえついていけない、途方も無いと感じてしまうほどの能力を持った人物……。彼はその身をもって、人間の限界というものを私達に教えていたのかもしれません」
「人間の限界……」
進化の行き着く果ては破滅――とは良く聞く話だ。
しかしそれがもはやフィクションの世界ではなく、こうして現実のものになりつつあるのか。
2070年代とは、そういう時代なのか。
この世の全てのことを理解したのなら、あとはそれに満足して死にゆく他ない。
いずれ地上に生きる誰も彼もが、それ以外に幸せになる術を持たなくなる――そういうことなのか?
「……ううん」
だが僕はきつく目を閉じて首を振った。
真理さんと同じように、そんなものは認めたくなかった。
「それからしばらくして、私の中に強い決意が生じました。私は一刻も早く母になろうと思いました。可能な限り早く自立して、可能な限り多くの子を産んで、そして可能な限り、充実した人生を送れる人に育てようと。それこそが唯一、あの少年の存在に抗える行為だと、確信されたから」
「虚無に立ち向かう……ということか」
「はい、私がしばしば頭の中に思い描いてしまう恐ろしい光景とは、全ての人間がその虚無を受け入れて、生き仏のようになってしまった世界のことなのです。そんな世界を、これからの子供達に押し付けてしまうことだけは、私は絶対に嫌です」
「……同感です」
僕はそう言って深く頷く。
真理さんが何故あんなにも子供を産みたがるのか、その理由は僕の想像を遥かに超えていた。常人の思考とは一線を画している。
僕の頭の中に、そんな別次元な悩みに答える術があるはずもなかった。僕はただ、彼女に共感することしかできなかった。
「人は悟るために生きるのではない……か」
「生き続ける中で、生命の深遠に触れることはあるでしょう。でも、始めから悟ることを目指させるような世界は何かおかしい……。あの15歳にして即身仏になった少年を指して、これこそが全ての人間が目指すべきところと言い切るのは、何かが決定的に間違っている。私は案内してくれた学生にそう言って、クリスタルタワーを後にしました」
「もっともなことだと思う」
人はある程度、無知蒙昧である方が良いのかもしれない。
これまでの会話のなかで、僕はそんな結論を得るに至った。
真理さんは、怖い顔になっていた自分の眉間に指をあてて、ゆっくりとその強張りをほぐし始めた。
気づけば、皿の上の氷菓が半分ほど解けてしまっていた。
このままでは勿体無いことになってしまう。
僕はいそいそと、スプーンでとうもろこしのジェラートをすくう。
「そうやすやすと、そんな状況にはならないと思うけど……」
言いつつ首をひねる。そして思う。
全ての人が悟りを開いた場所――。
もしそんな世界があるのだとしたら、そこは一体、何と名付けられるべきだろう。
僕が犬達と一緒にプレハブ小屋で暮らしていた頃の出来事だ。
当時は隠遁生活のようなことをやっていたから、あまり気にかけなかったけど……。
「少年は苦行僧のような生活を半年続けて、そしてひと月ほど前から完全に飲食を絶っていました。そして予定通り、自らの死とともにクリスタルタワーを建てさせました。ニューデリーの気候は概ね乾燥しています。骨と皮だけになっていた少年の体は、座禅を組んだ姿勢のままで、綺麗な状態に保たれていました」
「……一体どうして、そんなことをしたのだろう」
僕のその問いに、真理さんは静かに首を振って答えた。
「その理由は今でも良くわかっていません。ただ多くの人々、それも経済に関わる人達に、何かを伝えたかったのだと推察されるだけで……」
「うん……」
「アメリカの学生が、私達日本人のグループを誘ってきたのは、日本の即身仏のことを知っていたからです。日本人である私達になら、そのミイラ化した少年について何らかの共感を持つのではないかと彼は考えたのです」
そこで真理さんは一旦間をおき、水を一口飲んだ。
テーブルにグラスが降ろされる時のコトリという音が、やけに意味深く響いた。
「だが、その時真理さんはまだ13歳だった」
「はい。私が即身仏になったその少年を見て感じたことは、ただ途方も無い虚無感でした。この世の一切のことに意味はない、そういった虚しい感情です」
「そのガラスの密室は、誰でも見学できるようになっていた」
「はい。少年は初めからそのつもりで、クリスタルの塔を建てていました。ミイラ化した自分の姿を、出来るだけ多くの人に見てもらうこと。それが、少年の目的であったことは明らかです。アメリカ人学生は私達にこういいました。『これこそが人間の究極の姿なのではないか?』と。そして、これこそが全ての人間が目指すべき地平なのではないかと」
真理さんはそっと目を閉じて、再び静かに首を振った。
「私は彼の言うことを理解したくありませんでした。でも……」
言いにくそうに口元を歪める。
「何故か……何故だか心のどこかでは……そうかもしれないと感じてしまっていたのです。ミイラ化したその少年の表情は、不思議と幸せそうでしたから……」
「その仏様になった少年の姿は、今でも見られるのだろうか?」
「はい。今でも少年はクリスタルタワーの頂上にいます。毎年多くの観光客が、その姿を見学していきます。彼の姿を見た者が受ける印象は、それこそ、人それぞれです」
「恐怖に怯える者もいれば、感動する人もいる……」
「それが、天才中の天才と言われた少年が、15年の生涯で導き出した答えだったのですから……。私はあの時、人が持ちうる知性の頂上を見たのかもしれません。私がついていけないと感じた人達でさえついていけない、途方も無いと感じてしまうほどの能力を持った人物……。彼はその身をもって、人間の限界というものを私達に教えていたのかもしれません」
「人間の限界……」
進化の行き着く果ては破滅――とは良く聞く話だ。
しかしそれがもはやフィクションの世界ではなく、こうして現実のものになりつつあるのか。
2070年代とは、そういう時代なのか。
この世の全てのことを理解したのなら、あとはそれに満足して死にゆく他ない。
いずれ地上に生きる誰も彼もが、それ以外に幸せになる術を持たなくなる――そういうことなのか?
「……ううん」
だが僕はきつく目を閉じて首を振った。
真理さんと同じように、そんなものは認めたくなかった。
「それからしばらくして、私の中に強い決意が生じました。私は一刻も早く母になろうと思いました。可能な限り早く自立して、可能な限り多くの子を産んで、そして可能な限り、充実した人生を送れる人に育てようと。それこそが唯一、あの少年の存在に抗える行為だと、確信されたから」
「虚無に立ち向かう……ということか」
「はい、私がしばしば頭の中に思い描いてしまう恐ろしい光景とは、全ての人間がその虚無を受け入れて、生き仏のようになってしまった世界のことなのです。そんな世界を、これからの子供達に押し付けてしまうことだけは、私は絶対に嫌です」
「……同感です」
僕はそう言って深く頷く。
真理さんが何故あんなにも子供を産みたがるのか、その理由は僕の想像を遥かに超えていた。常人の思考とは一線を画している。
僕の頭の中に、そんな別次元な悩みに答える術があるはずもなかった。僕はただ、彼女に共感することしかできなかった。
「人は悟るために生きるのではない……か」
「生き続ける中で、生命の深遠に触れることはあるでしょう。でも、始めから悟ることを目指させるような世界は何かおかしい……。あの15歳にして即身仏になった少年を指して、これこそが全ての人間が目指すべきところと言い切るのは、何かが決定的に間違っている。私は案内してくれた学生にそう言って、クリスタルタワーを後にしました」
「もっともなことだと思う」
人はある程度、無知蒙昧である方が良いのかもしれない。
これまでの会話のなかで、僕はそんな結論を得るに至った。
真理さんは、怖い顔になっていた自分の眉間に指をあてて、ゆっくりとその強張りをほぐし始めた。
気づけば、皿の上の氷菓が半分ほど解けてしまっていた。
このままでは勿体無いことになってしまう。
僕はいそいそと、スプーンでとうもろこしのジェラートをすくう。
「そうやすやすと、そんな状況にはならないと思うけど……」
言いつつ首をひねる。そして思う。
全ての人が悟りを開いた場所――。
もしそんな世界があるのだとしたら、そこは一体、何と名付けられるべきだろう。
「現代ドラマ」の人気作品
-
-
363
-
266
-
-
208
-
139
-
-
159
-
143
-
-
139
-
71
-
-
139
-
124
-
-
111
-
9
-
-
39
-
14
-
-
28
-
42
-
-
28
-
8
コメント