アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

告白

 振り返るまでもなく、僕にはその足音が誰のものなのかがわかった。
 それほどまでにはっきりとした足音だった。


 こんな足音を立てて歩く女性は、この世に一人しかいない。
 12歳で東大入試問題を解けるほどの知能を獲得し、インドに留学して14歳にして国際看護師資格を取得し、16歳の時に第一子を産み、現在はこの病院で働きながら5児を育て、その傍らで副業の翻訳業までこなしているスーパーレディー。


「こんばんは」


 振り返るとそこには真理さんがいた。


「こんな時間に、お一人ですか?」


 そう言って僅かに口角をあげて微笑む彼女の姿は、まさに絶望の暗闇に舞い降りた光の女神だった。


「ああ……」


 僕はただ呆けたように口を開けて、その姿を見上げるのみだった。
 真理さんはそのまま僕の隣に立って、そのよくよく注意しなければわからない程度の微笑を保ち続けていた。
 そしてようやく僕は、僕のすべきことに気がついた。


「あ、よければどうぞ」


 と言って席から腰をずらす。すると真理さんは、その大きくてしなやかな体を滑らせるようにして、音もなく僕の隣に腰をおろしてきた。やや膝をこちら側にむけて座る。


「ちょっと、退屈だったもので」
「入院生活は退屈なものですよね」
「うん。でもここにくると、それも忘れることが出来る」
「植物が好きなんですか?」
「ううん、好きというか、ずっと触れてきたものだからかな。ここにいると落ち着くんです」


 そして僕は、温室の方に視線を向けた。さきほどの少女の姿はやはり消えていた。


「休憩ですか?」
「はい」
「いつもここで休んでいるんですか?」


 その質問に真理さんは答えなかった。その代わりに、光る樹の方をみてこう言った。


「あの光る樹は、なんという名前の植物なのでしょう」
「ティリア・ミクエリアナ・エレクフォス」


 ウェブで何度も調べたことなので、殆ど反射的にその名前が出てきた。


「失礼、学名の方でした。和名は菩提樹です。菩提樹のエレクフォス」
「エレクフォス」


 真理さんは、どこか感慨深げな口調で、念を押すようにしてそう言った。


「電気の力で光る樹」
「そうです。根元に住み着いている電流生成菌に、昼間の光合成で蓄えた有機物を食わせて、発電させているのです」
「やはり、お詳しいんですね」
「はい、これでも一応、農地発電をやってましたから」
「光ると何かよいことがあるのでしょうか、樹にとって」
「どうでしょう。もしかすると、よい事もあるのかもしれません。夜の間に虫が寄ってきて、地面に落ちて樹の養分になるかもしれない」
「人間もこうして寄ってきますものね」
「ええ、とても不思議な樹です」


 そこで僕達の会話は一旦途切れた。
 僕は真理さんが今ここにいることについて考えた。真理さんは偶然ここに来たというよりは、自らの意思でここに来てくれたのだと僕は思った。
 いつもここで休んでいるのかという僕の質問は、無粋なものだったに違いない。


 間違いのある言葉には無言の微笑みを返す。そして、言葉を発した本人自らが気付くように促す。
 賢い人は、そういったことを自然に行うことが出来る。真理さんもその一人だろう。
 僕は真理さんの方に眼をやって、その表情を眺めてみた。彼女はじっと光る樹を見上げて、辛うじてわかるくらいの笑顔を保っていた。その大きな瞳の中に、樹が放つ光が映り込んでいて、とても神秘的だった。


「真理さん」


 そうして僕は、その瞳の光りに引き出されるような感覚で、自然と彼女に声をかけることが出来ていた。
 僕は今、彼女に伝えなければならないことがある。今こそ伝えなければならないことがある。
 あの、光る樹の前でなら、僕の姿はもはや暗闇に浮かぶ亡霊などではない。
 今こそが、その時なのだ。


「はい」


 真理さんが僕の眼を見つめてくる。その視線は力強く、確信的だった。


「僕は、近いうちに外出しようと思っています」
「はい」
「期日は決まっていないのですが、出来ることなら」


 舌の先が乾いて言葉につまった。僕は一旦口をつぐんで、一呼吸おいた。


「出来ることなら、真理さんのお休みの日に合わせたいんです」


 腹の底から、熱いものが込み上げてきた。顔も酷くほてってくる。
 視界の中に星屑のようなものが瞬いて、温室の中の光り樹がキラキラと、その光りを一層強くしたように見えた。


 真理さんは、僕の言葉を聞いて、その瞳を一層大きく見開いた。
 はっと息を飲むのにあわせて、彼女の胸元が一回りほど大きく膨れる。続いて片手を胸の真ん中にあてて、ゆっくりと息を吐いた。
 どうやら驚いてくれているらしい。


「ええと、その」


 そう言葉を詰まらせて、眼をきょろきょろさせる真理さんは、どことなく子供っぽかった。
 今まで見た中で一番可愛らしい表情に見える。とても6人目の子供を身の内に抱えている女性には見えなかった。


「どうして私の休みの日に?」
「すみません」


 僕は反射的に謝ってしまった。
 それからすぐに、自分の間抜けさに気付いて腹が立った。


「どうして謝るんですか?」
「あ、いや、失礼。これは、デートのお誘いなんです」
「私と、ですか?」
「はい、真理さんとです。こういう言い方はフェアじゃないと思うのだけど、僕は死ぬ前にあなたとデートをしておきたいと思っていて……」


 顔から火が出るとはこのことだと思った。


「はい……」
「謝ったのは、僕がどうしても、僕の立場を利用してあなたを誘うことになってしまうからです」
「そんな」
「気を害されたのでしたら、すみません」
「いいえ、そんなことはないです。その……とてもうれしいです」
「え?」


 声が裏返ってしまった。


「デートに誘っていただいたこと、嬉しく思います」
「そ、そうですか、それでは……」
「次の休日は予定を開けておきます、どうか、よろしくお願いします」


 といって真理さんは、深々と頭を下げてきた。


「ああ……」


 僕はただ感動するのみだった。全身の肌が歓喜に湧き立つ。
 足腰がもう少し達者だったら、きっと僕はこの場で跳ね上がって喜んでいただろう。
 だがそれが出来ない僕は、その代わりに彼女に向かって頭を下げた。


「あ、ありがとうございます」
「はい、こちらこそ」


 見上げた先には、照れくさそうなはにかみ顔の真理さんがいた。
 いつも真面目で、どちらかといえば厳しい表情のことが多かった彼女の、そんな無防備な表情をみて、僕はまた頭がクラクラとしてくるのだった。


 そして翌日僕は、「だから言ったでしょ!」と何度も葵庭さんに背中を叩かれることになる。




 第三章 終











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