アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
足音
夜、消灯前に歯を磨きにいく。
歯ブラシに歯磨き粉をつけて、下の右奥歯から順に磨いていく。
歯と歯肉の間に重点的にブラシを当て、軽い力でリズミカルに、ゆっくりと時間をかけて磨く。
磨き終わったらフロスをかけて、歯と歯の間の汚れをとり、デンタルリンスで口をすすいでから、軽くマッサージするようにして最後にもう一度ブラッシングをする。
この作業を70年間、朝晩かかさず行ってきたから、僕の歯は、いまだに全て自前の歯だった。
鏡に映った僕の顔は、以前よりも幾分血色が良いように見えた。まだまだ10年は生きられそうな気がする。
僕の脳みその半分近くが、人工タンパクに置き換えられているなんて、さっぱり実感がない。
その気になれば、若い女性の一人くらい口説けそうだ。
歯磨き道具を抱えて病室に戻る。
M-278が僕の体を検温していく。レンズアイの奥に格納された赤外線センサーで、僕の全身のサーモグラフを計測し、そこから体温を割り出すのだ。
ベッドの上で寝る準備をする。
シーツを整えて、足を突っ込んだ姿勢で、院内ネットにアクセスする。
5階西病棟の掲示板にアクセスし、看護師のシフトを調べる。
真理さんは休日を挟んで、昨日から16時~0時の準夜勤に就いている。
準夜の時がねらい目ですぞ――というのが葵庭さんのアドバイスだ。この病棟では、消灯後に交代休憩が入るので、二人きりで大事な話をするとしたら、この時間帯をおいて他にはないとのことだった。
間もなく病室の明かりが消された。僕はしばし、そわそわとベッドの上で身じろぎした。
気持ちがひどく浮ついていた。
自分がいまから、大変な冒険をしようとしている。その事実に目が眩むような思いだった。
頃合を見計らって僕はベッドから這い出た。深呼吸をして息を整えてから、通路に出る。僕は自分に言い聞かせる。大丈夫、今日は予行演習みたいなものだから、と。
いきなり真理さんと一対一になれる機会が巡ってくるとは思えない。そもそも、こんな時間に病棟内をうろつくこと自体が初めてなのだ。
もし、看護師の誰かと通路ですれ違って、どこに行くのかと声をかけられたら、僕は突然夜中に温室に行きたくなったと言うことに決めていた。あの夜に光るという樹というものを、一度この目で見ておこうと思ったのだと。
薄暗い通路の床の上には、淡い緑色の光のラインが表示されていた。その光の案内の向こうに、煌々と明かりを点したナースステーションが見える。そこに人影は一つだけ。
遠くからでも良くわかる、女神像のようなその姿は、間違いようもない真理さんだった。
足を進めるごとに明瞭になるその姿。どれだけ近づいても、他の看護師の姿は見えない。本当に真理さんただ一人が窓口近くの机に座り、医療端末に向かって事務的な仕事をこなしている。
僕は引き返そうかと思った。ここに来て胃の底が絞られるような緊張に襲われたのだ。
だが、これは千載一遇のチャンスのようにも思えた。今ここで彼女に声をかけられなかったら、もう二度とその機会は来ないのではないかとさえ思われた。だから僕は、腹の底に力を込め、手で頬をバチバチと叩いて勇気を振るい立たせた。
そしてさらに、一歩一歩、足を踏み出していった。
ナースステーションまであと10歩と行ったところで、真理さんがこちらを振り向いた。一瞬キョトンとした表情を見せた後に、また医療端末の方に顔を戻してしまった。気のせいが、少し緊張しているような横顔になっていた。
僕はナースステーションの手前で立ち止まった。
そして、今の僕は彼女から見てどのように見えているだろうかと考えて――。
「……ううん」
小さく首を横に振って、足早にそこから立ち去ってしまった。
とてもじゃないが声をかけられるような状況ではないと思った。
暗闇の通路から歩いてきた、余命僅かな老人。
それはともすれば、亡霊のようにも見えるはずだった。僕は彼女を、亡霊からデートに誘われる女性にしてはいけないと思ったのだ。
「……はあ」
ため息をつきつつ、エレベーターホールに向かう。
* * *
一階に下りて、温室前まで歩いていく。
人はまったくいなかった。所々に照明がともされているだけで、病院の中はひっそりと静まり返っている。
病院の周囲は、高齢者向けの集合住宅に取り囲まれているから、外から響いてくる音も皆無だった。車など走っているわけもなかった。
温室に近づくにつれ、その先から淡い緑色の光りが見えてきた。僕は街灯に引き寄せられる夏の虫のように、その緑色の光に向かって歩いていった。
ひっそりと静まり返った通路に、僕のスリッパの音だけが響いて、まるでその音の中に、僕のいままでの人生の記憶が、少しづつ零れ出ていくようだった。
「おお……」
本当に樹が光っていた。高さ8メートルほどの高木。力強く伸びた幹から、上向きの枝がいくつも伸びて、その先にやや細長くて柔らかな葉が、びっしりと生い茂っている。
その葉の全てが、まるで蛍光塗料でも塗られているかのように光っているのだ。
よく見ると、枝葉の影には小さな粒状の花が咲き始めていた。
僕は温室の前の長椅子に腰掛けた。そして、ただじっと目の前の光る樹を眺めた。
暗闇に目が慣れると、より一層、温室の中の光景がはっきりとみえてきた。樹が放つ光は、足元の芝生をも照らし出していた。
そう言えば、この温室の奥には、光るラベンダーが植えられていた。しかし、僕が今いる場所からは見えないので、本当に光っているかどうかは確かめようがなかった。
なぜあんな奥に植えたのかと、僕は疑問に思った。どうしてもっと目立つ場所に植えないのかと。
初めて植える花だから、なにか自信がなかったのだろうか。それとも、こんな真夜中に温室の中を散歩してまわる患者というものを、想定しているのだろうか。
そんな人がいるのだろうか?
一応あの温室は、夜でも入れるようになっているみたいだけれども……。
「ふむ……」
ひとしきり考えてから、僕は首を振った。
いくら温室の植物のことを考えていても仕方がないのだった。
僕は、やろうと思ったことを果たせなかった。いざ、目の前にあの人が現れると、僕は自分に自信がなくなってしまうのだ。余命幾ばくもない僕ごときが、若く、多忙で、有能なあの人の時間を、奪ってしまっていい道理がないと思えてしまうのだ。
僕は額に手をあてて、さらに何度か首を振った。
葵庭さんは言っていた。最後に全財産を放り込むくらいの気持ちで、そうやすやすと経験できないことを味あわせてあげればよいのだと。それが唯一、若い女性が老人に付き合うことの利点なのだと。
身も蓋もない話だが、その通りだと僕は思う。僕が生きて学んだ教訓など、彼女にとっては何の意味ももたないだろう。
急に全身から力が抜けていった。もう、このまま長椅子に横たわって、眠ってしまいたいくらいだった。
それでもう、二度と目が開かなくても良いような気がした。あの幻想的に光る樹の前で、安らかに眠るようにして死ぬことが出来れば、そんなに素晴らしいことはないと思えた。
真理さんのことは、あの人と会えたというだけで、何もかもが報われているような気がした。
僕は目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
僕の中から一切の熱量が抜け落ちて、地の底へと沈んで行くような心地がした。長椅子のクッションはとても柔らかく、断熱プレハブで一人暮していたあの頃よりも、ずっと寝心地の良い場所のようだった。
――おじいさん。
誰かが僕に声をかけてくる。
――まだ諦めちゃだめだよ。
僕は眼を開け、顔をあげる。目の前には白い服の少女が立っていた。
温室のガラスの向こう、光る樹の真下に、あの幻覚の少女が再びその姿を現したのだ。
「ああ」
僕は別段驚かなかった。現れてもおかしくないとは思っていた。
彼女はこの期に及んで、僕に何を伝えようというのか。
――おじいさんは良くても、あの人は良くないんだよ。
「僕が良くても?」
少女はにっこり微笑むと、スキップを踏みながら樹の幹の裏側に隠れてしまった。
そしてそのまま消えてしまった。
「あの人は良くない……?」
僕はしばし、その言葉の意味について考えていた。
――カツ……カツ……カツ……
「ん?」
すると突然、僕の背後から通路の床を高くならす運命的な足音が響いてきたのだ。
歯ブラシに歯磨き粉をつけて、下の右奥歯から順に磨いていく。
歯と歯肉の間に重点的にブラシを当て、軽い力でリズミカルに、ゆっくりと時間をかけて磨く。
磨き終わったらフロスをかけて、歯と歯の間の汚れをとり、デンタルリンスで口をすすいでから、軽くマッサージするようにして最後にもう一度ブラッシングをする。
この作業を70年間、朝晩かかさず行ってきたから、僕の歯は、いまだに全て自前の歯だった。
鏡に映った僕の顔は、以前よりも幾分血色が良いように見えた。まだまだ10年は生きられそうな気がする。
僕の脳みその半分近くが、人工タンパクに置き換えられているなんて、さっぱり実感がない。
その気になれば、若い女性の一人くらい口説けそうだ。
歯磨き道具を抱えて病室に戻る。
M-278が僕の体を検温していく。レンズアイの奥に格納された赤外線センサーで、僕の全身のサーモグラフを計測し、そこから体温を割り出すのだ。
ベッドの上で寝る準備をする。
シーツを整えて、足を突っ込んだ姿勢で、院内ネットにアクセスする。
5階西病棟の掲示板にアクセスし、看護師のシフトを調べる。
真理さんは休日を挟んで、昨日から16時~0時の準夜勤に就いている。
準夜の時がねらい目ですぞ――というのが葵庭さんのアドバイスだ。この病棟では、消灯後に交代休憩が入るので、二人きりで大事な話をするとしたら、この時間帯をおいて他にはないとのことだった。
間もなく病室の明かりが消された。僕はしばし、そわそわとベッドの上で身じろぎした。
気持ちがひどく浮ついていた。
自分がいまから、大変な冒険をしようとしている。その事実に目が眩むような思いだった。
頃合を見計らって僕はベッドから這い出た。深呼吸をして息を整えてから、通路に出る。僕は自分に言い聞かせる。大丈夫、今日は予行演習みたいなものだから、と。
いきなり真理さんと一対一になれる機会が巡ってくるとは思えない。そもそも、こんな時間に病棟内をうろつくこと自体が初めてなのだ。
もし、看護師の誰かと通路ですれ違って、どこに行くのかと声をかけられたら、僕は突然夜中に温室に行きたくなったと言うことに決めていた。あの夜に光るという樹というものを、一度この目で見ておこうと思ったのだと。
薄暗い通路の床の上には、淡い緑色の光のラインが表示されていた。その光の案内の向こうに、煌々と明かりを点したナースステーションが見える。そこに人影は一つだけ。
遠くからでも良くわかる、女神像のようなその姿は、間違いようもない真理さんだった。
足を進めるごとに明瞭になるその姿。どれだけ近づいても、他の看護師の姿は見えない。本当に真理さんただ一人が窓口近くの机に座り、医療端末に向かって事務的な仕事をこなしている。
僕は引き返そうかと思った。ここに来て胃の底が絞られるような緊張に襲われたのだ。
だが、これは千載一遇のチャンスのようにも思えた。今ここで彼女に声をかけられなかったら、もう二度とその機会は来ないのではないかとさえ思われた。だから僕は、腹の底に力を込め、手で頬をバチバチと叩いて勇気を振るい立たせた。
そしてさらに、一歩一歩、足を踏み出していった。
ナースステーションまであと10歩と行ったところで、真理さんがこちらを振り向いた。一瞬キョトンとした表情を見せた後に、また医療端末の方に顔を戻してしまった。気のせいが、少し緊張しているような横顔になっていた。
僕はナースステーションの手前で立ち止まった。
そして、今の僕は彼女から見てどのように見えているだろうかと考えて――。
「……ううん」
小さく首を横に振って、足早にそこから立ち去ってしまった。
とてもじゃないが声をかけられるような状況ではないと思った。
暗闇の通路から歩いてきた、余命僅かな老人。
それはともすれば、亡霊のようにも見えるはずだった。僕は彼女を、亡霊からデートに誘われる女性にしてはいけないと思ったのだ。
「……はあ」
ため息をつきつつ、エレベーターホールに向かう。
* * *
一階に下りて、温室前まで歩いていく。
人はまったくいなかった。所々に照明がともされているだけで、病院の中はひっそりと静まり返っている。
病院の周囲は、高齢者向けの集合住宅に取り囲まれているから、外から響いてくる音も皆無だった。車など走っているわけもなかった。
温室に近づくにつれ、その先から淡い緑色の光りが見えてきた。僕は街灯に引き寄せられる夏の虫のように、その緑色の光に向かって歩いていった。
ひっそりと静まり返った通路に、僕のスリッパの音だけが響いて、まるでその音の中に、僕のいままでの人生の記憶が、少しづつ零れ出ていくようだった。
「おお……」
本当に樹が光っていた。高さ8メートルほどの高木。力強く伸びた幹から、上向きの枝がいくつも伸びて、その先にやや細長くて柔らかな葉が、びっしりと生い茂っている。
その葉の全てが、まるで蛍光塗料でも塗られているかのように光っているのだ。
よく見ると、枝葉の影には小さな粒状の花が咲き始めていた。
僕は温室の前の長椅子に腰掛けた。そして、ただじっと目の前の光る樹を眺めた。
暗闇に目が慣れると、より一層、温室の中の光景がはっきりとみえてきた。樹が放つ光は、足元の芝生をも照らし出していた。
そう言えば、この温室の奥には、光るラベンダーが植えられていた。しかし、僕が今いる場所からは見えないので、本当に光っているかどうかは確かめようがなかった。
なぜあんな奥に植えたのかと、僕は疑問に思った。どうしてもっと目立つ場所に植えないのかと。
初めて植える花だから、なにか自信がなかったのだろうか。それとも、こんな真夜中に温室の中を散歩してまわる患者というものを、想定しているのだろうか。
そんな人がいるのだろうか?
一応あの温室は、夜でも入れるようになっているみたいだけれども……。
「ふむ……」
ひとしきり考えてから、僕は首を振った。
いくら温室の植物のことを考えていても仕方がないのだった。
僕は、やろうと思ったことを果たせなかった。いざ、目の前にあの人が現れると、僕は自分に自信がなくなってしまうのだ。余命幾ばくもない僕ごときが、若く、多忙で、有能なあの人の時間を、奪ってしまっていい道理がないと思えてしまうのだ。
僕は額に手をあてて、さらに何度か首を振った。
葵庭さんは言っていた。最後に全財産を放り込むくらいの気持ちで、そうやすやすと経験できないことを味あわせてあげればよいのだと。それが唯一、若い女性が老人に付き合うことの利点なのだと。
身も蓋もない話だが、その通りだと僕は思う。僕が生きて学んだ教訓など、彼女にとっては何の意味ももたないだろう。
急に全身から力が抜けていった。もう、このまま長椅子に横たわって、眠ってしまいたいくらいだった。
それでもう、二度と目が開かなくても良いような気がした。あの幻想的に光る樹の前で、安らかに眠るようにして死ぬことが出来れば、そんなに素晴らしいことはないと思えた。
真理さんのことは、あの人と会えたというだけで、何もかもが報われているような気がした。
僕は目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
僕の中から一切の熱量が抜け落ちて、地の底へと沈んで行くような心地がした。長椅子のクッションはとても柔らかく、断熱プレハブで一人暮していたあの頃よりも、ずっと寝心地の良い場所のようだった。
――おじいさん。
誰かが僕に声をかけてくる。
――まだ諦めちゃだめだよ。
僕は眼を開け、顔をあげる。目の前には白い服の少女が立っていた。
温室のガラスの向こう、光る樹の真下に、あの幻覚の少女が再びその姿を現したのだ。
「ああ」
僕は別段驚かなかった。現れてもおかしくないとは思っていた。
彼女はこの期に及んで、僕に何を伝えようというのか。
――おじいさんは良くても、あの人は良くないんだよ。
「僕が良くても?」
少女はにっこり微笑むと、スキップを踏みながら樹の幹の裏側に隠れてしまった。
そしてそのまま消えてしまった。
「あの人は良くない……?」
僕はしばし、その言葉の意味について考えていた。
――カツ……カツ……カツ……
「ん?」
すると突然、僕の背後から通路の床を高くならす運命的な足音が響いてきたのだ。
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