アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
助言
その日の夕食はラーメンだった。
塩気の薄いスープとふやけた麺。いかにも病院食といったラーメンだが、やはり今でも国民食、多くの入院患者にとって人気のあるメニューだ。
昔とちがって動物性の出汁を多く使えないから、病院食のラーメンともなればひどく味気ない。
一方、街中の店で出されるラーメンは、逆に塩気がとても強い。そうすることで出汁の薄さを補っているのだ。
これが葵庭さんの大好物で、そのために彼は脳出血で入院することになったようなものだった。
今ひとつ食欲の湧かない僕は、細々と麺をすすっていた。
隣のパーテーションからは、葵庭さんが豪快に麺をすする音が響いてきていた。
僕は結局半分ほど残し、ケアボットに回収を頼んだ。
《本当に回収してもよろしいですか?》
確認のために、ケアボットが聞いてくる。僕は「はい」と言って彼女にトレーを下げさせた。
しばらくして、葵庭さんからコールがかかってきた。僕はコンソールを操作してパーテーションを下ろす。
「どうも、こんばんは」
「ええ、こんばんは」
僕がそう返すと、葵庭さんは口元にニヤリとした笑みを浮かべてきた。
僕は首を傾げた。
「何か、懸案事項をお抱えですな?」
「え?」
「いえいえ、ただちょっと、お節介ながら言わせてもらいたいことがありまして」
「はあ」
神妙な目つきでしばし僕を見据えると、葵庭さんは前に視線を戻して腕を組んだ。
「私には信じられないんですよ。あなたのような達者な方が、あとひと月かふた月の命だなんて」
と言って何度かうなずく。
「僕にも何だか実感が無いんですよ」
「でしょうなあ。いやはや、医学の進歩ってやつは凄いですな。一昔前には想像も出来なかったような最後を、私達に用意してくれるんですから」
「ええ、はい」
「今なら人間、誰でも最後までやりたいことをやって死んでゆけます。私もぜひ、そうやって死んでゆきたいと思うのです」
今日の葵庭さんはやけに生真面目な様子だった。
赤ら顔の脹れっ面が、三割ほど凛々しくなったように見えた。
「葵庭さんはどんなことをやりたいんです?」
「もちろん、恋です」
と言って彼は、僕にキリリとした視線を向けてくる。
「かの文豪ゲーテは、70を過ぎてなお、十代の娘に恋をしたそうです。私は是非ともそんな老い方をしてみたいのです」
「でも、葵庭さんにはちゃんと奥さんが……」
「妻のことは、どうか言わないでくださいまし」
ピシャリと釘を刺される。
「……はい」
「それよりも、私はあなたのことが気にかかるのです……」
「それはまた、どういう」
「げふん。あなたは最近、少々気持ちが浮ついている。違いますか?」
僕は思わず眉根を上げてしまった。
何を言いたいのかと思いきや、葵庭さんは僕の心痛のことを心配してくれているのだ。
思いのほか、目ざとい人なのだ。
「そうかもしれません」
僕は正直にそう答えた。
少しばかり、ため息が出た。
「お相手は誰ですかな? あいや、言わなくて結構。大体予想は付きますから」
「はあ」
「私はどうにも、もどかしくて見ていられない思いです。絶対その想いは相手に伝えられたほうが良い。相手もきっとそれを望んでいるはずです」
「わかるんですか?」
「ええ、これでも若い頃はブイブイ鳴らしたもんです。女心にはちょいと詳しいと自負しております。あなたは絶対にその想いをお伝えになった方が良い。なぜなら必ず上手く行くからです、私が保障します」
「ふむ……」
僕は腕を組んで首を捻った。どこにそんな根拠が。
「自分に自信が無いのですな」
「はい、なにせ、これまで一度も女性と付き合ったことがないものですから」
「な、なんと!」
すると葵庭さんは、僕が予想していた以上に、大げさに驚いてきた。
「おお……、運命とは恐ろしい。神様はいったい何を考えてそんな人生をあなたに与えたんだ。あなたみたいな立派な人が、結婚出来ないばかりか、女性とも付き合わせてもらえないなんて」
「いえ……僕自身にその気がなかったのがいけないんです」
「いやいやいや、その気にならなかったのは、その気になれるような人が今まで現れなかったからなんです。結局、恋なんてめぐり合わせです。宝くじみたいなものなんです!」
途端、意気込む葵庭さん。
僕は相槌をうつので精一杯になってきた。
「宝くじですか?」
「そうなんです。宝くじを沢山買ったほうが、当選確率があがるように、出会いが多ければ多いほど、恋に落ちる確率もあがるんです。それでも世の中にはですね、やたらとくじ運のいい奴がおりましてな。出会う女の全てが大当たりという、実にけしからん男までいるということなんですよ。これって一体何なんでしょうね? もう神様のいたずらとしか私には思えない!」
興奮気味に語る葵庭さん。
おそらくは、ずいぶんと女性に関してフラストレーションを感じて生きてこられたのだろう。
「まあ、僕には女運もなかったようですから……」
「いいえ、そんなことありませんぞ。現にいま来ているじゃないですか。人生最大のチャンスが!」
あくまでそう言い切る葵庭さん。
僕は思わず目を丸くしてしまう。
「そんな大げさな……」
「いえいえ、大げさなどではありませんぞ? 私はこのチャンスを、是非ともあなたに掴み取って欲しいのです。だからこうしてひどいお節介を焼いてしまっている。気を悪くされたのなら、すみません」
するととたんにしおらしくなった。
本当にムラの多い方だ。
正直、ついていくのに苦労する。
「いや、そんなことはないですよ。ありがたいお言葉です。それで、僕はこれからどうすれば良いのでしょう。余命わずかな老人の僕が、あの人に何をしてあげられるのでしょう」
「そんなのもちろん決まってるじゃないですか。私ら年寄りの、最大の武器を使うんです」
「武器?」
人生経験とか、そういったものなのだろうかと僕は予想したのだが、葵庭さんの口から出てきた言葉は、なんとも身も蓋もない言葉だった。
「そうです、金銭力です!」
塩気の薄いスープとふやけた麺。いかにも病院食といったラーメンだが、やはり今でも国民食、多くの入院患者にとって人気のあるメニューだ。
昔とちがって動物性の出汁を多く使えないから、病院食のラーメンともなればひどく味気ない。
一方、街中の店で出されるラーメンは、逆に塩気がとても強い。そうすることで出汁の薄さを補っているのだ。
これが葵庭さんの大好物で、そのために彼は脳出血で入院することになったようなものだった。
今ひとつ食欲の湧かない僕は、細々と麺をすすっていた。
隣のパーテーションからは、葵庭さんが豪快に麺をすする音が響いてきていた。
僕は結局半分ほど残し、ケアボットに回収を頼んだ。
《本当に回収してもよろしいですか?》
確認のために、ケアボットが聞いてくる。僕は「はい」と言って彼女にトレーを下げさせた。
しばらくして、葵庭さんからコールがかかってきた。僕はコンソールを操作してパーテーションを下ろす。
「どうも、こんばんは」
「ええ、こんばんは」
僕がそう返すと、葵庭さんは口元にニヤリとした笑みを浮かべてきた。
僕は首を傾げた。
「何か、懸案事項をお抱えですな?」
「え?」
「いえいえ、ただちょっと、お節介ながら言わせてもらいたいことがありまして」
「はあ」
神妙な目つきでしばし僕を見据えると、葵庭さんは前に視線を戻して腕を組んだ。
「私には信じられないんですよ。あなたのような達者な方が、あとひと月かふた月の命だなんて」
と言って何度かうなずく。
「僕にも何だか実感が無いんですよ」
「でしょうなあ。いやはや、医学の進歩ってやつは凄いですな。一昔前には想像も出来なかったような最後を、私達に用意してくれるんですから」
「ええ、はい」
「今なら人間、誰でも最後までやりたいことをやって死んでゆけます。私もぜひ、そうやって死んでゆきたいと思うのです」
今日の葵庭さんはやけに生真面目な様子だった。
赤ら顔の脹れっ面が、三割ほど凛々しくなったように見えた。
「葵庭さんはどんなことをやりたいんです?」
「もちろん、恋です」
と言って彼は、僕にキリリとした視線を向けてくる。
「かの文豪ゲーテは、70を過ぎてなお、十代の娘に恋をしたそうです。私は是非ともそんな老い方をしてみたいのです」
「でも、葵庭さんにはちゃんと奥さんが……」
「妻のことは、どうか言わないでくださいまし」
ピシャリと釘を刺される。
「……はい」
「それよりも、私はあなたのことが気にかかるのです……」
「それはまた、どういう」
「げふん。あなたは最近、少々気持ちが浮ついている。違いますか?」
僕は思わず眉根を上げてしまった。
何を言いたいのかと思いきや、葵庭さんは僕の心痛のことを心配してくれているのだ。
思いのほか、目ざとい人なのだ。
「そうかもしれません」
僕は正直にそう答えた。
少しばかり、ため息が出た。
「お相手は誰ですかな? あいや、言わなくて結構。大体予想は付きますから」
「はあ」
「私はどうにも、もどかしくて見ていられない思いです。絶対その想いは相手に伝えられたほうが良い。相手もきっとそれを望んでいるはずです」
「わかるんですか?」
「ええ、これでも若い頃はブイブイ鳴らしたもんです。女心にはちょいと詳しいと自負しております。あなたは絶対にその想いをお伝えになった方が良い。なぜなら必ず上手く行くからです、私が保障します」
「ふむ……」
僕は腕を組んで首を捻った。どこにそんな根拠が。
「自分に自信が無いのですな」
「はい、なにせ、これまで一度も女性と付き合ったことがないものですから」
「な、なんと!」
すると葵庭さんは、僕が予想していた以上に、大げさに驚いてきた。
「おお……、運命とは恐ろしい。神様はいったい何を考えてそんな人生をあなたに与えたんだ。あなたみたいな立派な人が、結婚出来ないばかりか、女性とも付き合わせてもらえないなんて」
「いえ……僕自身にその気がなかったのがいけないんです」
「いやいやいや、その気にならなかったのは、その気になれるような人が今まで現れなかったからなんです。結局、恋なんてめぐり合わせです。宝くじみたいなものなんです!」
途端、意気込む葵庭さん。
僕は相槌をうつので精一杯になってきた。
「宝くじですか?」
「そうなんです。宝くじを沢山買ったほうが、当選確率があがるように、出会いが多ければ多いほど、恋に落ちる確率もあがるんです。それでも世の中にはですね、やたらとくじ運のいい奴がおりましてな。出会う女の全てが大当たりという、実にけしからん男までいるということなんですよ。これって一体何なんでしょうね? もう神様のいたずらとしか私には思えない!」
興奮気味に語る葵庭さん。
おそらくは、ずいぶんと女性に関してフラストレーションを感じて生きてこられたのだろう。
「まあ、僕には女運もなかったようですから……」
「いいえ、そんなことありませんぞ。現にいま来ているじゃないですか。人生最大のチャンスが!」
あくまでそう言い切る葵庭さん。
僕は思わず目を丸くしてしまう。
「そんな大げさな……」
「いえいえ、大げさなどではありませんぞ? 私はこのチャンスを、是非ともあなたに掴み取って欲しいのです。だからこうしてひどいお節介を焼いてしまっている。気を悪くされたのなら、すみません」
するととたんにしおらしくなった。
本当にムラの多い方だ。
正直、ついていくのに苦労する。
「いや、そんなことはないですよ。ありがたいお言葉です。それで、僕はこれからどうすれば良いのでしょう。余命わずかな老人の僕が、あの人に何をしてあげられるのでしょう」
「そんなのもちろん決まってるじゃないですか。私ら年寄りの、最大の武器を使うんです」
「武器?」
人生経験とか、そういったものなのだろうかと僕は予想したのだが、葵庭さんの口から出てきた言葉は、なんとも身も蓋もない言葉だった。
「そうです、金銭力です!」
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