アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
微笑
科学技術の発達と教育水準の向上により、産業は高度化し人類の生活様式は激変した。
一方で、高学歴化による教育コストの増大を招き、一人一人の社会的自立が遅れることで、少子化という弊害をもたらした。
多くの先進国が、この少子化問題に頭を抱えていたさなか、ある一つの解決策がその姿を現してきた。
つまり、人間そのものの改良だった。
高度化する社会に合わせて、種としての人間を進化させる。遺伝子技術の発展は、そんな選択肢まで人類に提示したのだ。
いま、人類は二分化を始めつつある。
自らの遺伝子に合わせて、社会を再構築しようとする集団。
そして、自らの遺伝子を積極的に改良することで、より社会を発展させようとする集団。
その二つに。
真理さんは、まさに後者に属する人間であり、ここ日本という場所もまた、後者の道を選択した国の一つのようであった。
多忙な生活を送りながらも、精力的に愛を育み、子を儲けることの出来る遺伝子のみが生き残り、その他は淘汰されていく。
この流れは、この先ますます顕著になるだろう。
僕の両親の世代では、人は結婚し子供をもうけるのが当たり前だった。
僕の世代の頃から、人は結婚するしないの選択を自由に行うようになった。
そして僕の次の世代では、結婚はそれが可能な者にのみ与えられる選択肢になった。
この社会常識の変化は出生率を極端に引き下げた。
そして、僕のような孤独な老人をたくさん生み出した。
* * *
そうして幾日か時が流れた。
僕の精神余命はその間、概ね60日以下で推移した。今日の値は32日、今までで一番悪い数字だ。
《段差があります。足元にご注意ください》
ケアボットに車イスを押してもらって温室まで来た。幻覚を見てからも毎日通い続けている。
僕は素足で芝生を踏みしめ、その上に植えられている樹の肌に手をあてた。
「僕はどうしたらいいんだろう」
問いかけてみるも、答えてくれる者は誰もいない。ケアボットを同伴させるようになってから、僕はあの白い服の少女を見なくなった。
やはり僕の幻覚は、孤独によって生み出されるものなのだろう。
15分ほど温室の中を歩いてから、病棟に戻る。
エレベータに乗って5階に上がっていると、2階のところで真理さんが入ってきた。
僕は内心とても驚いたが、幸いなことに表情にはでなかった。
「こんにちは」
一呼吸おいてから挨拶をする。真理さんは僕の目を見て、それからゆっくりとお辞儀をしてきた。
エレベーターが5階に上がるまでの間、僕と真理さんはただ黙って扉の方を向いていた。
とても存在感のある女性だと改めて思った。
彼女が側にいるだけで、体の温度が2℃くらい上がったように感じられる。まるで、ベランダから差し込む暖かな日差しのようだ。
僕はずっと彼女に、隣にいて欲しいと思った。
しかし5階につくと、真理さんは僕を置いてさっさと出て行ってしまった。
僕にはきちんとケアボットがついていたし、わざわざ真理さんが何かしなければならない理由はなかったのだけど、僕にはその素っ気無い態度がかなり堪えてしまった。
彼女との心の隔たりが、ありのままに表れたように思われたのだ。
だが次の瞬間、思いもよらぬことが起きた。
「うっ……」
真理さんはお腹を押さえて立ち止まったのだ。僕は咄嗟に声をかけた。
「どうしました?」
「いえ」
彼女はそのまま壁際にもたれて、妊娠六ヶ月になるそのお腹をさすった。
「最近よく蹴るんです」
「ああ」
どうやら、お腹の中の赤ちゃんが元気過ぎたようだ。通常なら産休に入っていても良い頃なのだろうが、真理さんは休むことなくずっと職場に出ている。
聞いた話では、看護師の勤務をしている間に産気づき、病院の処置室で出産して、一休みしてすぐに職務に復帰した、なんてことまであったらしい。
そんな無茶が可能なほどタフな女性なのだろうが、しかし僕としては一言いわずにはいられなかった。
「無理はなさらず、 お休みを取られては?」
「ありがとうございます。でも、少し驚いただけなので。大丈夫です」
と言って真理さんは、何事もなかったかのような顔をして僕の方を振り向いてきた。
「本当に?」
僕が改めてそう問い直すと、真理さんは「はい」と言って、微かに口角を上げてきた。
よくよく注意しなければわからないほどの動きだったが、確かに真理さんは、僕に笑顔を向けたのだった。
「ご心配をおかけしました」
と言って会釈をすると、真理さんは再びツカツカと通路に音をたてて、足早に去っていった。
その動きはいつにもましてきびきびとしているように僕には見えた。
そして僕はその後姿に、気持ちを吸い込まれていくような感覚を抱いた。
彼女は間もなくナースステーションの中に入っていった。
「ううむ……」
初めて真理さんがはっきり笑うところを見た。
僕はしばらく、その笑顔が意味するところについて考えたが、やはりよくわからなかった。
何かしらの意味を、彼女はその笑顔の中に込めているように僕には思えた。
単に僕自身の思い込みと期待であったかもしれないけれど、彼女の笑顔には、僕の気持ちを不必要にくすぐるようなところがあったのだった。
《いかがいたしますか?》
そうていつまでも通路の真ん中でぼんやりとしていると、ケアボットが僕に催促の言葉をかけてきた。
一方で、高学歴化による教育コストの増大を招き、一人一人の社会的自立が遅れることで、少子化という弊害をもたらした。
多くの先進国が、この少子化問題に頭を抱えていたさなか、ある一つの解決策がその姿を現してきた。
つまり、人間そのものの改良だった。
高度化する社会に合わせて、種としての人間を進化させる。遺伝子技術の発展は、そんな選択肢まで人類に提示したのだ。
いま、人類は二分化を始めつつある。
自らの遺伝子に合わせて、社会を再構築しようとする集団。
そして、自らの遺伝子を積極的に改良することで、より社会を発展させようとする集団。
その二つに。
真理さんは、まさに後者に属する人間であり、ここ日本という場所もまた、後者の道を選択した国の一つのようであった。
多忙な生活を送りながらも、精力的に愛を育み、子を儲けることの出来る遺伝子のみが生き残り、その他は淘汰されていく。
この流れは、この先ますます顕著になるだろう。
僕の両親の世代では、人は結婚し子供をもうけるのが当たり前だった。
僕の世代の頃から、人は結婚するしないの選択を自由に行うようになった。
そして僕の次の世代では、結婚はそれが可能な者にのみ与えられる選択肢になった。
この社会常識の変化は出生率を極端に引き下げた。
そして、僕のような孤独な老人をたくさん生み出した。
* * *
そうして幾日か時が流れた。
僕の精神余命はその間、概ね60日以下で推移した。今日の値は32日、今までで一番悪い数字だ。
《段差があります。足元にご注意ください》
ケアボットに車イスを押してもらって温室まで来た。幻覚を見てからも毎日通い続けている。
僕は素足で芝生を踏みしめ、その上に植えられている樹の肌に手をあてた。
「僕はどうしたらいいんだろう」
問いかけてみるも、答えてくれる者は誰もいない。ケアボットを同伴させるようになってから、僕はあの白い服の少女を見なくなった。
やはり僕の幻覚は、孤独によって生み出されるものなのだろう。
15分ほど温室の中を歩いてから、病棟に戻る。
エレベータに乗って5階に上がっていると、2階のところで真理さんが入ってきた。
僕は内心とても驚いたが、幸いなことに表情にはでなかった。
「こんにちは」
一呼吸おいてから挨拶をする。真理さんは僕の目を見て、それからゆっくりとお辞儀をしてきた。
エレベーターが5階に上がるまでの間、僕と真理さんはただ黙って扉の方を向いていた。
とても存在感のある女性だと改めて思った。
彼女が側にいるだけで、体の温度が2℃くらい上がったように感じられる。まるで、ベランダから差し込む暖かな日差しのようだ。
僕はずっと彼女に、隣にいて欲しいと思った。
しかし5階につくと、真理さんは僕を置いてさっさと出て行ってしまった。
僕にはきちんとケアボットがついていたし、わざわざ真理さんが何かしなければならない理由はなかったのだけど、僕にはその素っ気無い態度がかなり堪えてしまった。
彼女との心の隔たりが、ありのままに表れたように思われたのだ。
だが次の瞬間、思いもよらぬことが起きた。
「うっ……」
真理さんはお腹を押さえて立ち止まったのだ。僕は咄嗟に声をかけた。
「どうしました?」
「いえ」
彼女はそのまま壁際にもたれて、妊娠六ヶ月になるそのお腹をさすった。
「最近よく蹴るんです」
「ああ」
どうやら、お腹の中の赤ちゃんが元気過ぎたようだ。通常なら産休に入っていても良い頃なのだろうが、真理さんは休むことなくずっと職場に出ている。
聞いた話では、看護師の勤務をしている間に産気づき、病院の処置室で出産して、一休みしてすぐに職務に復帰した、なんてことまであったらしい。
そんな無茶が可能なほどタフな女性なのだろうが、しかし僕としては一言いわずにはいられなかった。
「無理はなさらず、 お休みを取られては?」
「ありがとうございます。でも、少し驚いただけなので。大丈夫です」
と言って真理さんは、何事もなかったかのような顔をして僕の方を振り向いてきた。
「本当に?」
僕が改めてそう問い直すと、真理さんは「はい」と言って、微かに口角を上げてきた。
よくよく注意しなければわからないほどの動きだったが、確かに真理さんは、僕に笑顔を向けたのだった。
「ご心配をおかけしました」
と言って会釈をすると、真理さんは再びツカツカと通路に音をたてて、足早に去っていった。
その動きはいつにもましてきびきびとしているように僕には見えた。
そして僕はその後姿に、気持ちを吸い込まれていくような感覚を抱いた。
彼女は間もなくナースステーションの中に入っていった。
「ううむ……」
初めて真理さんがはっきり笑うところを見た。
僕はしばらく、その笑顔が意味するところについて考えたが、やはりよくわからなかった。
何かしらの意味を、彼女はその笑顔の中に込めているように僕には思えた。
単に僕自身の思い込みと期待であったかもしれないけれど、彼女の笑顔には、僕の気持ちを不必要にくすぐるようなところがあったのだった。
《いかがいたしますか?》
そうていつまでも通路の真ん中でぼんやりとしていると、ケアボットが僕に催促の言葉をかけてきた。
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