アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

DNA

 その日の夜は、なかなか寝付けなかった。
 隣の葵庭さんのイビキが凄いというのもあったけれど、やはりドクターから直接伝えられた余命宣告が、僕の心の中でわだかまっていたのだ。


 医療端末で精神余命を確認することとは、その重みが違う。端末に表示される日数が、どこか現実離れした空想のように感じられるのに対し、医師から告げられる言葉には血肉のこもったリアリティがあった。


 僕の精神は、あと一月か二月の間にこの世界を離れる。そして僕はこの世の者ではなくなる。
 いわゆる脳死の状態になるので、その後に残された僕の生きた肉体を可能な限り活用してもらえるよう、ドナー登録も済ませてある。
 財産の引き取り先も決めてある。言うならば、死ぬ準備も心構えも、とっくの昔に出来ていた。
 それでもなお、僕の胸中には、ある一つの事柄が引っかかって、離れないのだった。


――あなたはあの女の人が好き


 あの少女の言葉が、幻聴のようにして耳に響く。目を閉じれば真理さんのナース服姿が浮かぶ。
 年甲斐もなく生じてしまったこの恋心に、なんらかのけりをつけなければ、確かにこの世への未練となりそうだった。


 人間、死ぬ気になればなんだって出来るのか? 僕はそう自分に問いかけてみる。
 女性と付き合ったことはおろか、一緒に出歩いたことすらないこの僕に、あの高嶺の花に手を届かせることは出来るのか。


 * * *


 翌日、僕は僕のDNA情報を、遺伝子マッチングシステムに登録した。
 ウェブで登録手続きを済ませ、ケアボットに採血をしてもらって、遺伝子バンクに送付する。
 これで明日には、僕の遺伝子情報はマッチングシステムのリストに載り、希望者があれば誰でも利用できるようになる。


 DNAを遺伝子バンクに登録することはある種の社会貢献であると遺伝子主義者の間では言われている。
 遺伝子マッチングシステムを使って、理想とする子供を産もうとしたとき、必要になる配偶者DNAの持ち主は、必ずしも優秀な一握りの人間とは限らないのだ。
 ごく一般的な市民が、その対象になることも十分にありえる。
 つまり、より多くのDNA登録があったほうが、マッチングシステムの利便性は上がることになるわけだ。


 DNAに直接メスを入れるわけではないので、倫理的な抵抗感も比較的薄い。
 一部の倫理団体からは「人間のブリーディングである」との批判も上がっているが、このサービスの利用者は一貫して増え続けている。


 真理さんも、このサービスを利用して3人の子供を産んでおり、現在も妊娠中だ。
 そのせいか、僕が真理さんについて何かを思うとき、この遺伝子マッチングシステムという言葉が、どうしてもついてまわるのだった。


 * * *


 夕方、特に用も無いのに病棟の通路を歩き回った。
 洗面所で髪に整髪料を振り、くしで整えてみたりする。長年の農作業によって、紫外線をたっぷりと浴びた僕の顔はシミだらけだった。
 最新の美容外科処置を受ければ、これでも元通りになるらしい。皮膚そのものを幹細胞から培養して移植する。そういった最大限のアンチエイジング処置をうければ、一生涯にわたって20代後半の容姿を保つことも可能だそうだ。


 だが、僕としては今さらといったところだった。
 今になって自分の顔をいじって何になるのか。それはむしろ、僕自身の生涯を、自ら否定することだとさえ思える。僕は、僕に出来る限りの人生を送り、そうしてこの顔になった。そのことを、僕は否定したくなかった。


 髪型を整えると、僕はナースステーションに向かって歩いていった。
 数名の看護師が働いていたが、その中に真理さんの姿はなかった。それだけでどこか、僕の気持ちは落ち込んでしまった。いたからといって、特に話すことなど無いにも関わらず。


 僕はそのまま通路を曲がり、談話室へと入っていった。一面ガラス造りになっている窓際まで行き、人間工学に基づいてデザインされた、画期的な形状の椅子に座る。
 そして窓の向こうに目を向ける。病棟の5階からは、温室の透明な屋根が見下ろすことができた。その中に生えている樹木や、芝生の緑が見えた。ところどころ、花が咲いているのもわかった。


 陽は、丁度真横から差し込んできていた。殆ど白に近い夕日の色に、ガラスに映った僕自身の顔が重なった。病棟内の風景も、古き日のコンピューターグラフィクスのようにして、うっすらとそこに重なっていた。


「……はあ」


 ため息が出てしまった。この年になって、こんなセンチメンタルな気持ちになるとは思っても見なかった。
 若い頃のことを思い出す。僕は学生時代、一度だけ女性に告白されて、そして振ったことがある。
 あの時は、僕自身のなかにその気がなかったという、ただそれだけの理由のために、無下に断ってしまった。あの若い女学生の思いはきっと、老いた今の僕の気持ちなどよりもっと強く情熱的で、今僕が感じている哀愁などとは比べ物にならないものだったに違いない。


 悪いことをしたと思う。
 あの人は僕よりも若かったし、いまや90歳を超えている日本人女性の平均寿命からも考えて、きっとまだ生きているのだろう。
 誰か良い人と結ばれて、良い人生送っていることを、僕は切に願った。そして可能ならば会ってみたいとも思った。


 会って、一言謝りたかった。謝ってどうにかなるものではもうないけど、それは僕自身の慰めにさえならないことはわかっているけど、今この歳になって恋の苦しみを味わっている僕は、どうしてもそんなことばかり考えてしまうのだった。


「ん……?」


 その時、窓ガラスに映っている病棟の景色の中を、一つの人影が通り過ぎた。
 紺のスーツを身に纏った長身の女性。
 それは昼勤を追えて帰路につこうとしている真理さんだった。僕はすぐに振り返った。


 背筋をピンと伸ばし、白いエナメル質のバックを肩にかけ、エレベーターホールに向かって颯爽と歩いていく。
 仕事の間はアップでまとめられていた髪の毛は真っ直ぐに解かれて、艶やかな濡羽色に輝いている。
 僕は彼女の姿をじっと見つめていた。目が離せなくなっていた。あの姿を胸の内にしっかりと刻み付けて、あの世の向こうに持って行こうとさえ思った。


 真理さんは、真っ直ぐ前方に視線を向けながら通り抜けていった。
 だが、その姿が通路の向こうに消える直前になってこちらを振り向いてきた。僕の視線に気付いたのだろうか。


「…………」
「…………」


 僕が会釈をすると、真理さんは一度たちどまって、やや深めに頭を下げてきた。
 そしてしばしこちらを見つめ、表情を変化させることなくしばし佇むと、もう一度小さく会釈をしてから通り過ぎていった。


 彼女には気付かれなかったと思うが、僕の心臓は確実に高鳴っていた。
 真理さんは何故、僕の姿をしばし見つめてきたのだろうか?
 僕はそのことをあれこれと邪推しながら、また再び窓の外に目を向けて、暮れ行く空を見つめた。


 彼女は患者としての僕の容態を気にかけたのだろうか。それとも、珍しく談話室などで佇んでいるものだから、何か不審なものを感じたのだろうか。
 いずれにしろ、仕事外の彼女が、何かしらの注意を僕に向けてくれたことがとても嬉しかった。


「あっ……」


 そして僕は、彼女は僕が声をかけてくることを待っていたのではないかという、なんとも不埒な推測に至ってしまった。
 確かに、何か個人的な話をするとすれば、この上ないチャンスではあった。手招きでもすれば、彼女は僕の側まで歩いてきてくれたかもしれない。そうすれば、例えば温室に咲いている花のことや、今まさに暮れようとしている夕日について、何かしらの話が出来たかもしれない。


 僕は髪の毛だけではあるけど、一応は身なりを整えていた。
 彼女はそのことにも注意を向けたのかもしれなかった。
 僕が真理さんに好意を持ってしまっていることを、おそらく彼女は知っているだろう。
 僕の脳波を解析して得られた情報は、すでに真理さんの手元にも渡っているのだから。









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