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アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

隣人

 ベッドの上で一眠りして、目を覚ますと昼食の時間だった。
 献立は五目そうめん、牛肉のしぐれ煮、わかめとシラスの酢味噌和え、フルーツジュース。
 珍しく本物の牛肉が出たが、量は少なく、妙に乳臭い味がする。
 おそらくは廃用になった乳牛の肉だろう。


 しっかりと噛み締めながらいただく。
 適度な動物性蛋白と脂肪は、健康維持に効果的なものなので、こうしてたまに食事として出てくる。
 ただし、世の中には本物の肉が苦手な人もいる。


「ちょっといいですかい?」


 お隣の葵庭あおいばさんが声をかけてきた。僕はコントロールパネルを操作して、パーテーションの窓を開く。
 頭に保護ネットを被った赤ら顔。葵庭さんは現在72歳。脳出血を起し、血栓除去の手術を受けている。右半身に軽度の麻痺があり、現在は薬剤の投与とリハビリテーションを受けている。


「肉、食ってくれませんかなー」


 そんな葵庭さんは、本物の肉が苦手で、よく僕に渡してくるのだった。


「ええ、喜んで」
「いつも助かりますわ、ちょっとー、ボットさーん」


 葵庭さんは、M-278を呼び寄せると、しぐれ煮の入った小鉢を渡した。
 忠実な患者の世話人であるケアボットは、すぐに小鉢を持って僕のパーテーションに入ってくる。


《失礼します》


 と言って、僕の食台の上に小鉢を置くと、くるりと回れ右をして所定の位置に戻っていった。
 葵庭さんは、ケアボットを見送った後、僕の方を見てきた。


「今日は真理さんに車イスを押してもらったんですなー」


 と言って、その赤く腫れたような顔をニヤニヤとさせる。


「はい、処置室からここまで」
「くあーっ、いいなぁー。今日はあの人、バラの香水だったでしょ? いやー、ほんとたまらんですなー」
「とても良い匂いでした。それにまたお腹が大きくなってましたね。6人目のお子さん」
「え? さわったんですかい?」
「さわったというか、触れてしまったというか、車イスを回すときに、僕の頭にちょっと」
「おおお、まことに羨ましいですなあ、どーして俺にはそんなチャンスが巡ってきませんかね?」


 どこか悔しそうに言いながら、葵庭さんはずるずると音をたててそうめんをすすった。


「あの人がリハビリ手伝ってくれたいいのになぁ……」
「リハビリ室には女の人はいないんですか?」
「残念ながら若い人はいなくてねぇ、あとはケアボットばかりですわ」
「ケアボットだって可愛いじゃないですか」
「んー、まあ、そうですけどね。もうちょっと色っぽく作ってくれても良かったんじゃないですかねっ」


 と言って葵庭さんはケラケラと笑う。
 僕はしぐれ煮を口に入れて、よく咀嚼する。この通り葵庭さんは、いかにも血圧が高くなりそうな人なのだった。


「ところで昼から暇じゃないですかな? よかったこれ、やりません?」


 葵庭さんは、フォークを持っていない方の手で、雀牌をかき混ぜる仕草をする。
 あまり良いことではないのだが、彼はしばしば、病室でオンライン麻雀をするのだ。僕もしばしば誘われてご一緒する。


 僕はこの歳になってから、随分と人と話すようになった。
 子供の頃から会話は苦手だったし、農地発電をやっていた時は数ヶ月以上も誰とも話さないこともざらだった。
 しかし何故だか今になって、人と会話することが苦ではなくなったのだ。
 死期が近づいているからなのかもしないし、僕が老いたことで周囲の見方が変わったからかもしれない。
 もしかすると、長い時の流れが、僕の中から罪を取り除いてくれたのかもしれない。


 なんにしろ、僕は周囲の人に対してなんでも包み隠さず、心のままに話せるようになっていた。かつて一人の男を殺害し、刑に服していたことでさえ、僕は正直に打ち明けることが出来ていた。
 それは僕の担当医も知っているし、真理さんも知っているし、葵庭さんも知っている。
 さらに言えば、僕は僕の個人履歴を、ソーシャルウェブで公表しているから、その気になれば誰だって僕の過去を知ることができるのだ。


 いま僕は、一切の個人情報を隠していない。今までやってきたこと全てを公開している。
 隠し事をしたままこの世を去っていくことが嫌だったし、それに、どんどんと記憶を失っていく自分の代わりに、誰かに僕のことを覚えておいて欲しかった。


 過去の記憶を脳波スキャニングで引き起こし、マインド・ログとしてまとめているのも、そのためだ。
 ただし、僕の脳細胞はその多くが損なわれていて、断片的にしか引き出せないのだけど。


 * * *


《おはようございます。起床の時間です。洗面所にご案内します》


 翌朝。
 ケアボット、M-278が朝の日課を促してくる。僕は医療端末を確認し、そして棚から洗面道具を取り出した。
 僕の精神余命は57日となっていた。


 今日もまた、車イスを押して病院の温室に向かう。
 入院してから半年あまり、欠かさず続けてきた日課だ。
 真冬でも何かしらの花が生けられている温室。入院したての頃には藤色のクリスマスローズが咲いていた。


 続いてアネモネが咲き、ゼラニウムが咲き、アヤメ、アルストロエメリア、カーネションと、訪れる入院患者の目を飽きさせないよう、次々と季節の花が植えられてきた。
 そして今はアジサイが咲き、ダリアが咲き、そして温室の奥にひっそりと、光るラベンダーが咲いている。
 僕はいつものように靴を脱ぎ、足裏の感触を確かめるようにして、ゆっくりと芝生の上を歩いていく。時おり周囲を見渡して、昨日のあの、白い服の少女が居ないかどうかを確かめる。


 今日はあの子はいないようだった。
 僕の頭の中に住んでいるらしい、幻想の少女。


 今日は薄ぐもりで、温室のガラス天井からは、灰色に濁った光が差し込んできていた。
 風の吹かない温室の中にあって、樹の枝葉はひっそりとした沈黙を守り続けている。
 僕はその樹の根本に寝転がってみる。


「うーん……」


 僕はしわがれた両手を天に突き出して背伸びをする。芝生の感触が腿の裏から伝わってきて、ひどく懐かしく、感傷的な気分が込み上げてくる。
 以前であれば、草を刈り始めなければならない季節だった。
 5月の半ばから6月初頭にかけて、野山の草は狂ったかのように成長を始める。くるぶしほどの長さだった草原の草が、あっというまに膝丈にまで伸びるのだ。
 ごく短いうちから刈り始めないと、最後には花粉が飛んで黄色く枯れ始めている草を刈ることになる。


 以前は草刈機を握っていたこの手が、どこかウズウズとするのを僕は感じた。
 綺麗に刈り取った草原に寝そべり、青空を流れる雲を眺めることが、あの時は何よりの楽しみだった。
 僕はあの時生きていた。確実に自然と世界と一体になって、生きるということの不思議を実感していたのだ。
 ひどく孤独だったが、それでも言葉にできない充実感があった。


 目を閉じてあの時の光景を思い起こす。草の香りも、地のぬくもりも、耳を囀る風の声も、みんなみんな覚えている。
 脳の組織を3割以上も失った今でも、それは変わることなく僕の魂の中に刻まれている。
 僕はしばしそのまま、淡い感傷に浸った。







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