アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

 目を閉じれば、そこには草原が広がっている。
 ずっと草原ばかり見て暮らしているから、その光景が網膜に焼き付いてしまって離れない。
 今では目を閉じただけで、草原のどこにどんな生物が暮らしているのか、隅々まで精細に思い浮かべることが出来る。
 小さな虫、枯草の絨毯、どこからともなく飛んできたタンポポの綿毛。
 どんな写真よりも精彩な景色が、瞳を閉じた先には広がっている。
 まるで僕の脳そのものが、草原の一部になってしまったかのように。


 僕は頭の中の草原でも、ブラッシュカッターを手に草の刈り込みをしていた。
 寝ても冷めても草を刈る日々。この作業は、飽きるという次元をずっと以前に通り越してしまっていて、もはや僕の魂そのものになっていた。
 草を刈り、雑草を見つければ根ごと引き抜いて捨て、裸地があればエレノアの根茎が侵入していきやすいよう、スコップで耕してやる。


 いつだったか、保坂さんが僕に話してくれたことを思い出す。
 どんな荒地でも、牛を放しておくと二年ほどでイネ科主体の草原に変わるのだという。
 蹄耕法といって、昔はそうやって原野を草地に変えたのだそうだ。


 そこになんらかの生物がいると、その生物が生きやすいように自然の方から変化する。
 人が住んでいれば、人が暮らしやすいように。
 牛が住んでいれば、牛が暮らしやすいように。
 生態系は、その場に存在する全ての生命の互恵関係で成り立っている。
 これは僕が保坂さんから教えてもらった中で、最も重要な教訓であったように思う。


 道路を挟んだ向こう側に広がるエレノア畑は、開墾してから10年以上が経過しているが、今でもびっしりとエレノアの草が生え揃っている。
 一時は雑草の侵食率が4割を超えていたのだけど、僕が自分の手で刈り込みを入れるようになってから、著しく回復した。
 これはまさに、僕とエレノアの間に築かれた互恵関係と言えるだろう。


 町の人達は、僕が業者も頼まず、一人草原でブラッシュカッターを振るっているのを見て、気がおかしくなったと思っているようだ。一度だけ三春さんが訪ねてきて、酷く落胆した表情を浮かべながらそのことを僕に伝えてきた。
 僕は別に正常だし、やりたいようにやっているだけだと僕は答えた。
 そして何度も念を押すように、僕は大丈夫だからと伝えた。


 発電量は今までにないほどに増加した。
 雪が積もってからも土中の電流発生菌が活動を続けて、年明け近くまで発電が持続するほどだった。
 僕はそれを、死んだ保坂さんの魂が与えてくれた恵みなのではないかと思った。
 オカルトとしか言いようない考え方だが、どこかそう思わざるを得ない気持ちだったのだ。


 僕はこの手で草を枯れるという事実が、ある時点から楽しくて楽しくてたまらなくなった。
 刈り込むほどに密度を増す草原を見るのは、喜び以外の何ものでもなかったのだ。
 人が自然を征服することは永遠に無い。
 人はただ、自然の恩恵の中に生きながらえる。
 そして僕は今この大地に愛されて、こうしてともに生きているのだと。


 * * *


 ある嵐の夜のことだった。
 日本列島を舐めるように北上してきた台風が、ここ北の大地にも大雨をもたらしていた。
 強い風に山が鳴り、その女の悲鳴に似た音が僕の耳をひどく苛んだ。


 まるで野山が泣いているかのようだった。
 いたたまれなくなった僕は、レインコートを羽織って外にでた。
 野菜畑とビニールハウスの様子が心配だ。


 雨風は叩きつけるように吹いてきて、風に向き合うと目も開けられないほどだった。
 強風に煽られてトウモロコシの茎が大きくしなっていた。実が付き始めた頃で、ひどく残念なことだが、いくつかはダメになってしまうだろうと思った。


 今更ながら補強作業をすることにした。小屋からロープを持ってきて、地面に打ち付けてある杭に撒きつけ、野菜畑を囲っていく。
 ビニールハウスも同じようにして補強し、下着の中までずぶ濡れになりながら作業を続けた。
 そうするうちに、風はさらに強さを増していった。どこかで木の枝がバキバキと音を鳴らしてへし折れた。どこからとも無くビニール袋が飛んできて僕の顔に張り付いた。


 野菜畑の補強を終えた僕は、道路を挟んだ向こう側に広がるエレノア草原の様子を見に行った。
 草原は嵐の日の海のように波打っていった。
 シバムギの突然変異体であるエレノアは倒伏しやすい。すでに畑のあちこちが、巨人の足に踏み潰されたようになっていた。エレノアが倒れて地面にへばりついている。


 山鳴りの音は、なおも女の金きり声のように、いたたまれなく鳴り響いていた。
 僕は草原へと足を踏み入れた。雨に濡れた草原は真冬の海のように冷たく、長靴の中があっというまに水浸しになった。
 僕のために育ってくれた草原が嵐になぎ倒されていく。そして僕は、その光景をただ黙って見ているしかなかった。


 こうした嵐に遭うことはこれまでに何度もあった。しかしこの時は何かが違っていた。
 胸騒ぎがしたのだ。
 ただごとではない何かが起こっていると、この全身が感じとっていた。


 草原の声が聞こえていた。
 そして、僕に聞こえるように叫んでいた。


 助けて――。


 山は鳴り、風は吹きすさび、草原は嘆き、そして僕はただ一人で、無力で、ちっぽけだった。
 僕はその場にうずくまり、今にも倒れそうなエレノアの草束を抱えた。
 その下には、僕に踏み潰されたエレノアの草がある。
 矛盾する行為だということはわかっていた。それでも僕は草原を抱かずにはいられなかった。


 僕を生かしてくれるこの草原のために。
 僕をここまで導いてくれた全ての意志のために。
 僕はただ一抱えの草を守るために、ひたすら地に這いつくばった。


 草原は嘆く――早く助けて。


 草原のいたるところから悲鳴はあがる。
 僕一人では到底抱えきれない無数の命が、僕の助けを欲していた。


「あああ……」


 そしてこの時、僕はようやく悟った。
 自分は狂っているのだと。









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