アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
少女
この病院は、ちょうどアルファベットの「H」の形をしていて、正門の反対側の空間が巨大な温室になっている。
そこには綺麗に刈り込まれた芝生があり、大きな樹が植えられていて、色とりどりの花が咲いている。
ガラス壁のすぐ近くに生えている一本の樹は、近年開発された新種の光発電性植物で、夜になると蛍光を放つ性質をもっている。
暗闇の中で、うっすらとした緑色の光を放つその樹は、クリスマスが近づくと電飾が施され、多くの患者達の目を楽しませることになる。
温室の扉を押して中に入る。
暖かく湿度の高い空気が顔の皮膚にまとわりつき、濃い緑の香りが鼻をくすぐる。
温室用のスリッパに履き替えて、土の感触を足の裏で確かめながらゆっくりと辺りを散策してまわる。
温室の端まで行ったところで、鮮やかな紫色が目に飛び込んできた。
ラワンデュラ・エレクフォス。
ラベンダーを品種改良して作られた発光植物。
僕がかつて栽培していたエレノアと同じく、根の部分に電流発生菌を保持する性質をもった植物なのだが、ラワンデュラ・エレクフォスは電流生成菌が生み出した電子を用いて花弁や葉の表面にカソード・ルミネッセンスを引き起こし、自らを発光させてしまう。
発電に用いるには効率が不足しているので、光発電性植物とは似て非なるものだ。
遺伝子工学は、こんな植物までも生み出してしまった。
花を光らせるということに、一体どれだけの意味があるのか僕にはわからないけど、これも一つの付加価値なのだろう。
人は、自分達の限りある時間を豊かにするためなら、恐らくはどんなことでもやってのけてしまう生物なのだ。
スリッパとを脱いで芝生に上がる。
こうして肌足で芝の上を歩くことは、とても脳に良いことなのだとドクターも行っていた。
だから僕はこうして一日二回この温室を訪れて、額に汗がにじむまで芝の上を歩いて回る。
時おり植樹の前で立ち止まって、その硬い樹の肌の感触を、手で触って確かめたりする。
とても落ち着くひと時だ。かつて草原に住んでいた時のことを思い出す。
そうしてしばし、温室の中を歩き回っていると、ふと、白い何かが視界の隅を横切った。
「ん……?」
僕は目をしばしばとさせた。辺りを見渡してみても何も見えない。
でも今さっき、確実に何か白いものが通り過ぎていった。
「ふむ……」
何らかの脳機能上の問題かもしれない。
僕は首にぶら下げてある院内端末を手に取り、僕自身のバイタルデータを確かめてみた。
僕の頭の中には無数の分子機械と、それを制御するための電子装置が埋め込まれている。電子装置は無線LANで院内回線と繋がっていて、リアルタイムに測定された僕の脳内状況のデータが、いつでもこの院内端末で確認できるようになっている。
脳波、頭蓋内圧、神経軸策の架橋係数、精神活動自然度――どの数値にも異常はない。
グリア細胞の異常化速度にも急激な変化はなく、推定精神余命も85日のままだ。
気のせいか。
そう僕は思いつつ、院内端末から手を離した。そして再び散策を続ける。
10分ほど歩き回って、ほどよく息があがってきたので、僕は温室を出ることにした。
「む……?」
その時だった。
僕の視界の真ん中に、その姿が映っていた。
白いワンピースを着た、長い黒髪の少女が、温室の扉近くの樹の根元で、すやすやと眠っている。
僕は思わず目を見張った。いったいいつの間にそこにいたのか?
さっきから視界の隅にちらついては消えていたあの白い影は、この女の子だったのか?
いやしかし、いくら僕の視力が老いているとはいえ、あんな幻を見るみたいに子供の動きを捉えてしまうことが、果たしてあるのだろうか?
僕はしばし、その少女の姿を見つめた。
7つか、8つか、まだ小学校の低学年くらいの年齢に見える。どうみても健康そうで、なんらかの治療や検査のために病院に来ているとは思えない。
だとすれば、家族の誰かがご病気で、それに一緒についてきたということなのだろうか。
僕は一度温室を出て、辺りを見渡してみる。
保護者と思しき人影はない。
温室の中に目をむければ、やはり少女は心地良さそうに樹の根元で眠っているのだった。
「ふむ……」
僕は車椅子に腰を下ろした。放っておいても大事はないだろうが、念のため、保護者の方がいらっしゃるまで見守ることにした。
少女はいつまでもすやすやと眠っていた。その姿を眺めているだけで、僕の胸のうちに暖かな気持ちが湧いてくるようだった。
もし孫がいたなら、こんな感じだったのかもしれない。
「お疲れになりましたか?」
ふと、横から声をかけられて僕はそちらを振り向く。そこには看護師の真理さんが立っていた。
どうやら手術室の方から歩いてきたらしい。
背が高く、グラマラスな体型で、オオカミのように力強い瞳を持った女性。
すれ違う者全てが振り返る美貌の持ち主で、おそらくは、この病院でもっとも人気のある職員だ。
「ええ、少し」
「病室に戻るのでしたら押しますが。私も今から向かうところですので」
「ああ、そうですか……」
多忙を極める看護師の中でも、とりわけ優秀で仕事量の多い真理さん。彼女に車イスを押してもらえるというのは、おとなりの葵庭さんに言わせれば『僥倖』という他ないことなのだろうが、今の僕には、樹の下で眠る少女を見守るという役目があった。
「でも、せっかくだけど、もう少しここに居たいので」
と言って無碍に断ってしまった。
「わかりました。では、失礼いたします」
真理さんは顔色を変えずにそう言うと、軽く会釈をして僕の前を通りすぎていった。
僕は温室の方に目を戻す、そして。
「あっ」
と、驚きの声を上げてしまった。真理さんも何事かと振り返ってくる。
そして、その瞳を職人気質に光らせて、まさに刺すようにして僕の方を見てきた。
「いかがされました?」
「いやぁ、うーん……」
温室の中の樹の下で、さっきまで眠っていたはずの少女が、いつの間にか居なくなってしまったのだ。
そこには綺麗に刈り込まれた芝生があり、大きな樹が植えられていて、色とりどりの花が咲いている。
ガラス壁のすぐ近くに生えている一本の樹は、近年開発された新種の光発電性植物で、夜になると蛍光を放つ性質をもっている。
暗闇の中で、うっすらとした緑色の光を放つその樹は、クリスマスが近づくと電飾が施され、多くの患者達の目を楽しませることになる。
温室の扉を押して中に入る。
暖かく湿度の高い空気が顔の皮膚にまとわりつき、濃い緑の香りが鼻をくすぐる。
温室用のスリッパに履き替えて、土の感触を足の裏で確かめながらゆっくりと辺りを散策してまわる。
温室の端まで行ったところで、鮮やかな紫色が目に飛び込んできた。
ラワンデュラ・エレクフォス。
ラベンダーを品種改良して作られた発光植物。
僕がかつて栽培していたエレノアと同じく、根の部分に電流発生菌を保持する性質をもった植物なのだが、ラワンデュラ・エレクフォスは電流生成菌が生み出した電子を用いて花弁や葉の表面にカソード・ルミネッセンスを引き起こし、自らを発光させてしまう。
発電に用いるには効率が不足しているので、光発電性植物とは似て非なるものだ。
遺伝子工学は、こんな植物までも生み出してしまった。
花を光らせるということに、一体どれだけの意味があるのか僕にはわからないけど、これも一つの付加価値なのだろう。
人は、自分達の限りある時間を豊かにするためなら、恐らくはどんなことでもやってのけてしまう生物なのだ。
スリッパとを脱いで芝生に上がる。
こうして肌足で芝の上を歩くことは、とても脳に良いことなのだとドクターも行っていた。
だから僕はこうして一日二回この温室を訪れて、額に汗がにじむまで芝の上を歩いて回る。
時おり植樹の前で立ち止まって、その硬い樹の肌の感触を、手で触って確かめたりする。
とても落ち着くひと時だ。かつて草原に住んでいた時のことを思い出す。
そうしてしばし、温室の中を歩き回っていると、ふと、白い何かが視界の隅を横切った。
「ん……?」
僕は目をしばしばとさせた。辺りを見渡してみても何も見えない。
でも今さっき、確実に何か白いものが通り過ぎていった。
「ふむ……」
何らかの脳機能上の問題かもしれない。
僕は首にぶら下げてある院内端末を手に取り、僕自身のバイタルデータを確かめてみた。
僕の頭の中には無数の分子機械と、それを制御するための電子装置が埋め込まれている。電子装置は無線LANで院内回線と繋がっていて、リアルタイムに測定された僕の脳内状況のデータが、いつでもこの院内端末で確認できるようになっている。
脳波、頭蓋内圧、神経軸策の架橋係数、精神活動自然度――どの数値にも異常はない。
グリア細胞の異常化速度にも急激な変化はなく、推定精神余命も85日のままだ。
気のせいか。
そう僕は思いつつ、院内端末から手を離した。そして再び散策を続ける。
10分ほど歩き回って、ほどよく息があがってきたので、僕は温室を出ることにした。
「む……?」
その時だった。
僕の視界の真ん中に、その姿が映っていた。
白いワンピースを着た、長い黒髪の少女が、温室の扉近くの樹の根元で、すやすやと眠っている。
僕は思わず目を見張った。いったいいつの間にそこにいたのか?
さっきから視界の隅にちらついては消えていたあの白い影は、この女の子だったのか?
いやしかし、いくら僕の視力が老いているとはいえ、あんな幻を見るみたいに子供の動きを捉えてしまうことが、果たしてあるのだろうか?
僕はしばし、その少女の姿を見つめた。
7つか、8つか、まだ小学校の低学年くらいの年齢に見える。どうみても健康そうで、なんらかの治療や検査のために病院に来ているとは思えない。
だとすれば、家族の誰かがご病気で、それに一緒についてきたということなのだろうか。
僕は一度温室を出て、辺りを見渡してみる。
保護者と思しき人影はない。
温室の中に目をむければ、やはり少女は心地良さそうに樹の根元で眠っているのだった。
「ふむ……」
僕は車椅子に腰を下ろした。放っておいても大事はないだろうが、念のため、保護者の方がいらっしゃるまで見守ることにした。
少女はいつまでもすやすやと眠っていた。その姿を眺めているだけで、僕の胸のうちに暖かな気持ちが湧いてくるようだった。
もし孫がいたなら、こんな感じだったのかもしれない。
「お疲れになりましたか?」
ふと、横から声をかけられて僕はそちらを振り向く。そこには看護師の真理さんが立っていた。
どうやら手術室の方から歩いてきたらしい。
背が高く、グラマラスな体型で、オオカミのように力強い瞳を持った女性。
すれ違う者全てが振り返る美貌の持ち主で、おそらくは、この病院でもっとも人気のある職員だ。
「ええ、少し」
「病室に戻るのでしたら押しますが。私も今から向かうところですので」
「ああ、そうですか……」
多忙を極める看護師の中でも、とりわけ優秀で仕事量の多い真理さん。彼女に車イスを押してもらえるというのは、おとなりの葵庭さんに言わせれば『僥倖』という他ないことなのだろうが、今の僕には、樹の下で眠る少女を見守るという役目があった。
「でも、せっかくだけど、もう少しここに居たいので」
と言って無碍に断ってしまった。
「わかりました。では、失礼いたします」
真理さんは顔色を変えずにそう言うと、軽く会釈をして僕の前を通りすぎていった。
僕は温室の方に目を戻す、そして。
「あっ」
と、驚きの声を上げてしまった。真理さんも何事かと振り返ってくる。
そして、その瞳を職人気質に光らせて、まさに刺すようにして僕の方を見てきた。
「いかがされました?」
「いやぁ、うーん……」
温室の中の樹の下で、さっきまで眠っていたはずの少女が、いつの間にか居なくなってしまったのだ。
「現代ドラマ」の人気作品
-
-
361
-
266
-
-
207
-
139
-
-
159
-
142
-
-
139
-
71
-
-
137
-
123
-
-
111
-
9
-
-
38
-
13
-
-
28
-
42
-
-
28
-
8
コメント