アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
陰影
《マインド・ログ 2019.11.15》
「実は、独立しようかと考えているんだ」
「えっ?」
ある日、室長に呼び出された僕は、そんな思いもよらぬ事を打ち明けられた。
「味覚プリント方式の特許は、まだ俺の名義で取れる余地がある。この特許技術を元にして、新しい会社を立ち上げようと思う。そして出来れば、君にも参加して欲しいんだ」
開いた口が塞がらなかった。
そんな途方も無いことを考えていたとは、想像もしなかった。
「どうだろう、乗る気はないか? このままこの会社に勤め続けても、たぶん良いことはないぞ」
脇の下に変な汗が滲んでくるのを僕は感じていた。
そして何故か、そんな室長の提案を聞いたすぐ後に、二葉さんの顔が脳裏に浮かんだ。
室長が会社を出れば、恐らく味覚デバイス研は、別の部署に吸収されるだろう。そうなったら、二葉さん達は果たしてどうなるのか。
契約更新の打ち切りということで、今の職を失ってしまうのだろうか。
「もちろん、急にというわけではない。十分に時間をかけて準備を進める。どうだ、やはり怖いか?」
「いえ……魅力的な話だとは思いますが……」
自分達の作った特許技術を、自分達の手で世に売り出せるのだから、これ以上やりがいのある仕事はない。ただ、あまりにも突然だったので、何も答えようがなかった。
《マインド・ログ 2020.2.23》
新谷さんの誘いに対する答えを出せないまま年が明け、さらに二ヶ月が経過した。
味覚デバイス研に異変が生じたのは、この時だった。
「どうしたのだろう、二葉君は」
「はい、もう三日も無断で休んでいます」
突如、二葉さんが会社に来なくなってしまったのだ。
「なにか心当たりはないのか?」
「いえ、さっぱり……」
室長に問われても、僕は答えようがなかった。
このところは、またあのキャンディー体の試験を再開していて、退屈でつまらない作業が続いていた。
それでも、無断欠勤をしてしまうほど大変な作業ではなかったはずだ。
しばらくして派遣会社の担当から、「体調不良でしばらくお休みを頂く」との連絡があったのだけど、二葉さん本人の口からそれを聞くことは、ついぞなかったのだ。
《マインド・ログ 2020.2.30》
研究所には、各階ごとに休憩所があり、コーヒーサーバーと自動販売機が置いてある。
窓際に立ちテーブルがいくつか並んでいて、多くの社員が、ここでぼんやり外を眺めながら小休憩をとっていく。
2階と4階の休憩所には、喫煙所も併設されている。
その日僕は、4階の休憩所でコーヒーを飲みながら一服していた。
来なくなってしまった二葉さんのこと、遅々として進まない試験作業のこと。
あれこれ思い悩みながら、窓に向かってため息をはく。
「おや?」
すると、見知らぬスーツ姿の男が二人、喫煙所から出てきた。
そのうちの一人は、僕の顔を見て笑っていた。
その男は、男性ファッション紙のグラビアにとか写っていそうな、やけに足が長いハンサムな男だった。
「……なにか?」
僕はコーヒーの入った紙コップをテーブルに置くと、その人に向き直る。
「ああ、いや。別に何でもないんだ……ふふ」
「随分とのんびりしているんだね」
もう一人の、中肉中背でラフな髪型をした男がどこか皮肉っぽく言ってきたので、僕は思わず肩をすくめてしまった。妙な威圧感を放つ人達だった。
その時僕は、二人は本社の人なのではないかと思った。日頃から多忙な生活を送っている人なのだと。
研究所の仕事だってそれなりに忙しいのだけど、外から見れば随分静かで、退屈な場所に見えるであろうことは間違いなかったから。
「くく、失礼」
そして、不敵な笑みを浮かべつつ去っていく二人。
心のどこかがざわつくのを感じつつ、僕は彼らの後ろ姿を見送った。
* * *
不審な出来事はさらに続いた。
二葉さんの他に二人居た派遣の人が、突然、契約更新を打ち切ってきたのだ。
かなり残っていたであろう有休の殆ど放棄してまで、早々と職場を去っていってしまった。
まるで、この職場から逃げ出そうとしているようだった。
室長はここ最近、留守にすることが多かった。
独立のことで経営部と揉めているのは間違いなかったし、たまに職場に戻ってきても、ひっきりなしに電話に向かって怒鳴っているという有様だった。
僕は、二葉さんの身の回りに何かあったのではないかと、派遣元に問い合わせてみた。
だが体調が思わしくないの一言で、それ以上は取り合ってもらえなかった。
どこか得体の知れぬ不安に取り付かれたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
そしてついに、室長の口から恐るべき事実が告げられた。
「二葉さんのご両親が、会社を告訴してきた」
「えっ……!」
その言葉とともに、僕の人生は坂道を下り始める。
* * *
訴えの内容は次の通り。
『作業者の人格を無視した反復的な作業の継続で、娘は心身に支障をきたした』
よって損害賠償を求める、というものだった。
「そんなバカな……」
あんなに楽しそうに仕事をしていた二葉さんが。
それは絶対にありえないことだと思った。
確かに、最近の仕事はいくらかつまらなかったかもしれないけど……。
「これは、何かあるな」
室長は表情を暗くしつつ言う。
「間違いなく、俺を攻撃するために何か仕掛けたんだ。俺達に責任を押し付けて、独立のための動きを取りづらくするつもりなのかもしれん」
そして僕の方を見て言う。
「どうやら、二葉さんには悪いことをしてしまったようだ。何らかの干渉があったと考えるのが妥当だろう。あいつら……ここまでやるなんて、いったいどういうつもりなんだ……」
プリント方式の特許は、たしかに旨みのある話なのかもしれない。
それでも、こんな犯罪めいたことまでして、守らなければならないことなのだろうか。
僕は、どこか僕達の知らない場所で巨大な陰謀が働いているのではないかと、邪推せずにはいられなかった。
「……はっ」
その時、僕の脳裏に、以前、僕の顔を見て笑ってきた二人の男の姿が浮かびあがってきた。
「あの、室長……」
「ん?」
僕はその二人のことを、すぐに新谷さんに話した。
「なんてことだ……」
すると新谷さんは、今まで見たこともないような青白い顔をして、デスクの上で頭を抱えてしまった。
「あいつらか……あいつらが動いているのか!」
その二人は、仕事の成績こそ極めて優秀だが、女癖の悪さで知られる人物とのことだった。
彼らの手にかかった女性社員が、何人もこの会社をやめているのだという。
それでいて、まったくのお咎め無し。それどころか、つい最近になって中途で入社してきた社員であるにもかかわらず、すでに大口の仕事を任されているのだという。
どうやら、ただ優秀なだけではないようだ。
社外のあちこちに有力なコネクションを持っていて、この会社では、いわば経営者達の懐刀として動いているのかもしれなかった。
「これは難しいかもしれん。ともすれば、我々は既に詰んでいるぞ……」
新谷さんが一気に老けこんでしまったように見えた。
あの剛気を絵に書いたような室長をこんなに憔悴させるとは――。
「くっ……」
僕はただ、腹の底から沸き上がってくる絶望感に耐えるのみだった。
「実は、独立しようかと考えているんだ」
「えっ?」
ある日、室長に呼び出された僕は、そんな思いもよらぬ事を打ち明けられた。
「味覚プリント方式の特許は、まだ俺の名義で取れる余地がある。この特許技術を元にして、新しい会社を立ち上げようと思う。そして出来れば、君にも参加して欲しいんだ」
開いた口が塞がらなかった。
そんな途方も無いことを考えていたとは、想像もしなかった。
「どうだろう、乗る気はないか? このままこの会社に勤め続けても、たぶん良いことはないぞ」
脇の下に変な汗が滲んでくるのを僕は感じていた。
そして何故か、そんな室長の提案を聞いたすぐ後に、二葉さんの顔が脳裏に浮かんだ。
室長が会社を出れば、恐らく味覚デバイス研は、別の部署に吸収されるだろう。そうなったら、二葉さん達は果たしてどうなるのか。
契約更新の打ち切りということで、今の職を失ってしまうのだろうか。
「もちろん、急にというわけではない。十分に時間をかけて準備を進める。どうだ、やはり怖いか?」
「いえ……魅力的な話だとは思いますが……」
自分達の作った特許技術を、自分達の手で世に売り出せるのだから、これ以上やりがいのある仕事はない。ただ、あまりにも突然だったので、何も答えようがなかった。
《マインド・ログ 2020.2.23》
新谷さんの誘いに対する答えを出せないまま年が明け、さらに二ヶ月が経過した。
味覚デバイス研に異変が生じたのは、この時だった。
「どうしたのだろう、二葉君は」
「はい、もう三日も無断で休んでいます」
突如、二葉さんが会社に来なくなってしまったのだ。
「なにか心当たりはないのか?」
「いえ、さっぱり……」
室長に問われても、僕は答えようがなかった。
このところは、またあのキャンディー体の試験を再開していて、退屈でつまらない作業が続いていた。
それでも、無断欠勤をしてしまうほど大変な作業ではなかったはずだ。
しばらくして派遣会社の担当から、「体調不良でしばらくお休みを頂く」との連絡があったのだけど、二葉さん本人の口からそれを聞くことは、ついぞなかったのだ。
《マインド・ログ 2020.2.30》
研究所には、各階ごとに休憩所があり、コーヒーサーバーと自動販売機が置いてある。
窓際に立ちテーブルがいくつか並んでいて、多くの社員が、ここでぼんやり外を眺めながら小休憩をとっていく。
2階と4階の休憩所には、喫煙所も併設されている。
その日僕は、4階の休憩所でコーヒーを飲みながら一服していた。
来なくなってしまった二葉さんのこと、遅々として進まない試験作業のこと。
あれこれ思い悩みながら、窓に向かってため息をはく。
「おや?」
すると、見知らぬスーツ姿の男が二人、喫煙所から出てきた。
そのうちの一人は、僕の顔を見て笑っていた。
その男は、男性ファッション紙のグラビアにとか写っていそうな、やけに足が長いハンサムな男だった。
「……なにか?」
僕はコーヒーの入った紙コップをテーブルに置くと、その人に向き直る。
「ああ、いや。別に何でもないんだ……ふふ」
「随分とのんびりしているんだね」
もう一人の、中肉中背でラフな髪型をした男がどこか皮肉っぽく言ってきたので、僕は思わず肩をすくめてしまった。妙な威圧感を放つ人達だった。
その時僕は、二人は本社の人なのではないかと思った。日頃から多忙な生活を送っている人なのだと。
研究所の仕事だってそれなりに忙しいのだけど、外から見れば随分静かで、退屈な場所に見えるであろうことは間違いなかったから。
「くく、失礼」
そして、不敵な笑みを浮かべつつ去っていく二人。
心のどこかがざわつくのを感じつつ、僕は彼らの後ろ姿を見送った。
* * *
不審な出来事はさらに続いた。
二葉さんの他に二人居た派遣の人が、突然、契約更新を打ち切ってきたのだ。
かなり残っていたであろう有休の殆ど放棄してまで、早々と職場を去っていってしまった。
まるで、この職場から逃げ出そうとしているようだった。
室長はここ最近、留守にすることが多かった。
独立のことで経営部と揉めているのは間違いなかったし、たまに職場に戻ってきても、ひっきりなしに電話に向かって怒鳴っているという有様だった。
僕は、二葉さんの身の回りに何かあったのではないかと、派遣元に問い合わせてみた。
だが体調が思わしくないの一言で、それ以上は取り合ってもらえなかった。
どこか得体の知れぬ不安に取り付かれたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
そしてついに、室長の口から恐るべき事実が告げられた。
「二葉さんのご両親が、会社を告訴してきた」
「えっ……!」
その言葉とともに、僕の人生は坂道を下り始める。
* * *
訴えの内容は次の通り。
『作業者の人格を無視した反復的な作業の継続で、娘は心身に支障をきたした』
よって損害賠償を求める、というものだった。
「そんなバカな……」
あんなに楽しそうに仕事をしていた二葉さんが。
それは絶対にありえないことだと思った。
確かに、最近の仕事はいくらかつまらなかったかもしれないけど……。
「これは、何かあるな」
室長は表情を暗くしつつ言う。
「間違いなく、俺を攻撃するために何か仕掛けたんだ。俺達に責任を押し付けて、独立のための動きを取りづらくするつもりなのかもしれん」
そして僕の方を見て言う。
「どうやら、二葉さんには悪いことをしてしまったようだ。何らかの干渉があったと考えるのが妥当だろう。あいつら……ここまでやるなんて、いったいどういうつもりなんだ……」
プリント方式の特許は、たしかに旨みのある話なのかもしれない。
それでも、こんな犯罪めいたことまでして、守らなければならないことなのだろうか。
僕は、どこか僕達の知らない場所で巨大な陰謀が働いているのではないかと、邪推せずにはいられなかった。
「……はっ」
その時、僕の脳裏に、以前、僕の顔を見て笑ってきた二人の男の姿が浮かびあがってきた。
「あの、室長……」
「ん?」
僕はその二人のことを、すぐに新谷さんに話した。
「なんてことだ……」
すると新谷さんは、今まで見たこともないような青白い顔をして、デスクの上で頭を抱えてしまった。
「あいつらか……あいつらが動いているのか!」
その二人は、仕事の成績こそ極めて優秀だが、女癖の悪さで知られる人物とのことだった。
彼らの手にかかった女性社員が、何人もこの会社をやめているのだという。
それでいて、まったくのお咎め無し。それどころか、つい最近になって中途で入社してきた社員であるにもかかわらず、すでに大口の仕事を任されているのだという。
どうやら、ただ優秀なだけではないようだ。
社外のあちこちに有力なコネクションを持っていて、この会社では、いわば経営者達の懐刀として動いているのかもしれなかった。
「これは難しいかもしれん。ともすれば、我々は既に詰んでいるぞ……」
新谷さんが一気に老けこんでしまったように見えた。
あの剛気を絵に書いたような室長をこんなに憔悴させるとは――。
「くっ……」
僕はただ、腹の底から沸き上がってくる絶望感に耐えるのみだった。
「現代ドラマ」の人気作品
-
-
361
-
266
-
-
207
-
139
-
-
159
-
142
-
-
139
-
71
-
-
137
-
123
-
-
111
-
9
-
-
38
-
13
-
-
28
-
42
-
-
28
-
8
コメント