アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
暗雲
《マインド・ログ 2019.11.13》
味覚プリントシステムの開発が始まってしばらくたった日の事だった。
「上からストップがかかった」
月の定例ミーティングの時だった。
この日の新谷室長は荒れに荒れていた。
「まったく、人をバカにしているよ」
開発にストップがかかった理由は二つあった。
一つはコストの問題。
そしてもう一つは、消費者はそれほど再現性能にはこだわらないだろうという、経営上の判断だった。
「酸っぱいわた飴でも、綺麗な映像を見ながら舐めれば美味しくなるのだという話だよ」
そう言ってドンと机を叩く。
「日本中の、いや、世界中の人々の舌を、そんなお粗末なものに塗り替えようとしているんだ、あいつらは。本当に人を舐めている。あんなのが世の中を動かそうとしているなんて、考えただけで虫唾が走る!」
新谷さんは次々と悪罵を吐いていく。
会議室の中は、重い空気で満たされていた。
「価格を下げることばかり考えて、肝心の消費文化の創造なんて、まるで頭に無いんだ。価格が下がれば表現力も下がる、表現力の下がった商品を使い続ければ、使う者の感性だったどんどん下がっていくぞ。そのうち俺たちの舌は、電気味のパンで満足できるようになる!」
とうとう室長は座っていられなくなり、立ち上がって会議室をうろつき始めた。
「そのくせ、妙な理想を抱いてやがる。年寄り連中はこんなことも言っていた。『あと20年もすればブレイン・インターフェースの実用化が見えてくる、味覚デバイスはそれまでの繋ぎで良い』ってな。なあお前たち、この発言どう思う?」
室長はそうして僕達に話をふってくる。だが口を開く者は誰もいない。
「腹の足しにもならないことのために、わざわざ脳みそに電極突っ込む人間がどこにいるんだ! 20年先とは一体どれだけ先の話なんだ!」
椅子を蹴っ飛ばす。
壁に当たって跳ね返ってきた椅子が、床の上でゴロゴロと転がった。
そうして新谷室長は、一時間近く不平不満を撒き散らした。
僕達はだれもその行為を止めようとはしなかった。
みんなわかっていた。室長が、自分の言っていることがただの八つ当たりにすぎないと理解していることを。
コスト削減は、何ものにも優先して取り組まなければならない課題だ。
高品質を売りに出来る市場は限られているし、結局のところ、売れないものに意味はない。
加えて僕は、味覚デバイスが不採用になった理由は他にもあるのではないかと考えていた。
味要素を用いた味覚再現は、嗅覚情報までも部分的に再現してしまう。それはきっと、他社で開発が進められている嗅覚デバイスと競合してしまうのだろう。
味覚プリント方式は、システム構築の仕方次第では、すでに味と匂いの一体表現が可能なのだ。
ならば――と僕は思う。
いっそ、味覚デバイスそのものを自社製品として売り出してしまえどうかと。
なにも五感テレビへの採用にこだわる必要はないのだから。
だが、そこまで僕達の思考が進んだことを見計らったかのように、室長はこう切り出してきた。
「自社製品への技術転用は、向こう10年間凍結しなければならないそうだ」
会議室にいた全員が顔をあげた。
「五感テレビと市場を奪い合うような状況にはしたくない、というのがその理由だ。どうやら我々が知らない場所で協定が結ばれたらしい。破れば、あの大手メーカーとは、二度と取引できなくなる」
会議室のあちこちでため息が漏れた。
「本当にひどい話だ。働く意欲が根こそぎ持っていかれたようだよ……。今日はここまでだ。もうみんな、さっさと帰ってしまっていいぞ」
* * *
さっさと帰れとは言われたものの、派遣の人を残して帰るわけにはいかない。
僕は二葉さん達が作業をしている部屋へと向かった。
「あっ」
二葉さん達は僕の顔を見ると「しまった」と言うような顔をした。
実験室の机の上には、サンプリングに使った桜餅と、お茶の入ったマグカップが置いてあったのだ。
「す、すみませんっ」
「ああ、いや、いいんだよ」
仕事が極端に減ったので、二葉さん達はお茶会を開いて暇を潰していたのだ。
「暇にさせてしまって申し訳ない」
「いえいえこちらこそ。こんなに至れり尽くせりで良いのかなって思ってますから……」
そう言って、二葉さん達は申し訳なさそうな表情をする。
仕事を用意できない僕の方も、なんだか申し訳ない気持ちだ。
「何か、別の仕事がないか探してみるよ」
「最近景気悪いんですか?」
「うん……まあ、ちょっとね。もしかすると、またあのキャンディー体の試験をやってもらうことになるかも」
今の開発作業がストップしてしまった以上は、他に出来ることはないような気がした。
「……ん?」
そこで僕は、あるものに気づいた。
二葉さん達がお茶会を開いているテーブルの上には、桜餅に並んで小皿が一つ置いてあるのだ。
その小皿には、まだら模様の寒天のようなものがのっていた。
「それは?」
「あ、これですか? 作りすぎたプリントシートを重ねて作ったんです」
どうやら、味要素をプリントしたオブラートを、水に濡らして積層したもののようだ。
いったいどんな味がするのかは、想像もできない。
「けっこういけますよ? 良ければおひとつどうぞ」
言われて小皿に手を伸ばす。
指の先ほどの小さな物体。
なにかの和菓子のようにも見える。
「これは……」
どうやら、プリンの味をベースにして、いちごやレモンなどの果物、それに桜餅の味がミックスされているようだった。
わけのわからない味だが、甘酸っぱくて美味しいことは確かだ。
「意外といける……」
「ですよねっ」
それは、子供の頃に食べた駄菓子のような、どこか懐かしい味だった。
味覚プリントシステムの開発が始まってしばらくたった日の事だった。
「上からストップがかかった」
月の定例ミーティングの時だった。
この日の新谷室長は荒れに荒れていた。
「まったく、人をバカにしているよ」
開発にストップがかかった理由は二つあった。
一つはコストの問題。
そしてもう一つは、消費者はそれほど再現性能にはこだわらないだろうという、経営上の判断だった。
「酸っぱいわた飴でも、綺麗な映像を見ながら舐めれば美味しくなるのだという話だよ」
そう言ってドンと机を叩く。
「日本中の、いや、世界中の人々の舌を、そんなお粗末なものに塗り替えようとしているんだ、あいつらは。本当に人を舐めている。あんなのが世の中を動かそうとしているなんて、考えただけで虫唾が走る!」
新谷さんは次々と悪罵を吐いていく。
会議室の中は、重い空気で満たされていた。
「価格を下げることばかり考えて、肝心の消費文化の創造なんて、まるで頭に無いんだ。価格が下がれば表現力も下がる、表現力の下がった商品を使い続ければ、使う者の感性だったどんどん下がっていくぞ。そのうち俺たちの舌は、電気味のパンで満足できるようになる!」
とうとう室長は座っていられなくなり、立ち上がって会議室をうろつき始めた。
「そのくせ、妙な理想を抱いてやがる。年寄り連中はこんなことも言っていた。『あと20年もすればブレイン・インターフェースの実用化が見えてくる、味覚デバイスはそれまでの繋ぎで良い』ってな。なあお前たち、この発言どう思う?」
室長はそうして僕達に話をふってくる。だが口を開く者は誰もいない。
「腹の足しにもならないことのために、わざわざ脳みそに電極突っ込む人間がどこにいるんだ! 20年先とは一体どれだけ先の話なんだ!」
椅子を蹴っ飛ばす。
壁に当たって跳ね返ってきた椅子が、床の上でゴロゴロと転がった。
そうして新谷室長は、一時間近く不平不満を撒き散らした。
僕達はだれもその行為を止めようとはしなかった。
みんなわかっていた。室長が、自分の言っていることがただの八つ当たりにすぎないと理解していることを。
コスト削減は、何ものにも優先して取り組まなければならない課題だ。
高品質を売りに出来る市場は限られているし、結局のところ、売れないものに意味はない。
加えて僕は、味覚デバイスが不採用になった理由は他にもあるのではないかと考えていた。
味要素を用いた味覚再現は、嗅覚情報までも部分的に再現してしまう。それはきっと、他社で開発が進められている嗅覚デバイスと競合してしまうのだろう。
味覚プリント方式は、システム構築の仕方次第では、すでに味と匂いの一体表現が可能なのだ。
ならば――と僕は思う。
いっそ、味覚デバイスそのものを自社製品として売り出してしまえどうかと。
なにも五感テレビへの採用にこだわる必要はないのだから。
だが、そこまで僕達の思考が進んだことを見計らったかのように、室長はこう切り出してきた。
「自社製品への技術転用は、向こう10年間凍結しなければならないそうだ」
会議室にいた全員が顔をあげた。
「五感テレビと市場を奪い合うような状況にはしたくない、というのがその理由だ。どうやら我々が知らない場所で協定が結ばれたらしい。破れば、あの大手メーカーとは、二度と取引できなくなる」
会議室のあちこちでため息が漏れた。
「本当にひどい話だ。働く意欲が根こそぎ持っていかれたようだよ……。今日はここまでだ。もうみんな、さっさと帰ってしまっていいぞ」
* * *
さっさと帰れとは言われたものの、派遣の人を残して帰るわけにはいかない。
僕は二葉さん達が作業をしている部屋へと向かった。
「あっ」
二葉さん達は僕の顔を見ると「しまった」と言うような顔をした。
実験室の机の上には、サンプリングに使った桜餅と、お茶の入ったマグカップが置いてあったのだ。
「す、すみませんっ」
「ああ、いや、いいんだよ」
仕事が極端に減ったので、二葉さん達はお茶会を開いて暇を潰していたのだ。
「暇にさせてしまって申し訳ない」
「いえいえこちらこそ。こんなに至れり尽くせりで良いのかなって思ってますから……」
そう言って、二葉さん達は申し訳なさそうな表情をする。
仕事を用意できない僕の方も、なんだか申し訳ない気持ちだ。
「何か、別の仕事がないか探してみるよ」
「最近景気悪いんですか?」
「うん……まあ、ちょっとね。もしかすると、またあのキャンディー体の試験をやってもらうことになるかも」
今の開発作業がストップしてしまった以上は、他に出来ることはないような気がした。
「……ん?」
そこで僕は、あるものに気づいた。
二葉さん達がお茶会を開いているテーブルの上には、桜餅に並んで小皿が一つ置いてあるのだ。
その小皿には、まだら模様の寒天のようなものがのっていた。
「それは?」
「あ、これですか? 作りすぎたプリントシートを重ねて作ったんです」
どうやら、味要素をプリントしたオブラートを、水に濡らして積層したもののようだ。
いったいどんな味がするのかは、想像もできない。
「けっこういけますよ? 良ければおひとつどうぞ」
言われて小皿に手を伸ばす。
指の先ほどの小さな物体。
なにかの和菓子のようにも見える。
「これは……」
どうやら、プリンの味をベースにして、いちごやレモンなどの果物、それに桜餅の味がミックスされているようだった。
わけのわからない味だが、甘酸っぱくて美味しいことは確かだ。
「意外といける……」
「ですよねっ」
それは、子供の頃に食べた駄菓子のような、どこか懐かしい味だった。
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