アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
順境
味覚デバイス研究室では、他にも、食材から味覚データをサンプリングをする装置や、そのデータを解析する技術、そしてキャンディー体への味付けを行う蒸着装置の開発などが同時に進められていた。
サンプリング装置は、膜電位測定技術を応用した、人間の舌に似た形状の測定機器が作られていた。
この人工の舌が実用化されれば、例えば日本から遠く離れたフランスのレストランであっても、その場で料理の味を測定して、日本のお茶の間に届けることが出来る。
これこそが、今のところ想定されている、五感テレビにおける味覚再現の目標だった。
実はこの味覚再現装置。他社において、別方式の製品が研究されていた。
それは味の要素を使わず、人間の舌に直接電気パルスを送ることによって、味覚の再現を目指すというもので、そのまま電気パルス方式と名付けられていた。
味要素のカートリッジや蒸着装置を用いなくて良いことから、システムの簡略化が可能になる。つまり、低コストで提供できるというメリットがあった。
だが当時、肝心の味覚再現については、残念としか言いようのない結果しか出せていなかったようだ。
「昔のブラウン管テレビってのは、画面がしょっちゅう帯電してたもんだから、舐めると独特の味がしたんだそうだ」
新谷室長は、いつだったかそんなことを僕に話してきた。
「ブラウン管を舐めた人がいるんですか?」
「そうなんだろうな。ちなみに液晶テレビを舐めても大して味はしない」
「試したんですか……」
僕は少し呆れ気味に言った。
室長はニヤニヤしながら話を進める。
「他社さんでやってるのはそういう研究だ」
「画面を帯電させてペロペロ舐める?」
「そ、不思議な研究だろう? 実際に舐めるのはガラス板なんだけどな」
「酸味の再現は意外にうまくいっているとか」
「ああ、得意料理はピリッとした酸味の利いたわた飴なんだそうだ」
どうにも室長は、味覚デバイスの研究そのものに乗り気ではないようだった。
僕としては、酸っぱいわた飴などには負けたくなかったので、ともかく与えられた仕事に勤しむことにした。
* * *
「これ、本当に食べれたらいいんですけどね」
ある日、二葉さんが、バナナ味のキャンディー体を舐めながらそんなことを言ってきた。
ちょうど、お昼前の時間だった。
「あー、おなかすいた。お昼休みまだかなー」
「……はっ」
その一言が、僕にあるアイデアを閃かせた。
「そうか、食べられればいいんだ……」
「え? どうしたんですか?」
僕はポカンと口を開けたままの二葉さんをおいて、隣の実験室にある、味要素蒸着装置の所へと走って行った。
そして昼休み返上で、手近にあったオブラート紙に色んな味を蒸着させて、何度も味見を繰り返した。
「これはいけるんじゃ……」
僕は空腹であることすら忘れて、新しい味覚再現方式の試作を繰り返した。
そして、すぐに室長に報告した。
* * *
「なんで誰もこれに気付かなかった」
ペペロンチーノ味のオブラートを口に含みながら、新谷さんはそう僕に言ってきた。
「まさにコロンブスの卵だな」
「いけますでしょうか?」
「ああ、いける。ワインが飲みたくなってくるよ。これは世界の食卓事情をも変えるかもしれん」
そう言いつつ、二枚、三枚とオブラート紙を口に放り込んでいく室長。
そのたびに彼の眼鏡の奥の眼光が、その輝きを増していった。
「始めるぞ、今すぐに」
* * *
「私達が今までやってきたことはなんだったんですかねー?」
キャンディー体の味付け作業から解放された二葉さんが、まず僕に言ってきたことがそれだった。
「うん……気持ちはわかるけど。二葉さん達の作業がなかったら、このアイデアには辿り着けなかったと思うんだ」
「ものは言いようですよねー。まあいいですけど。こっちの作業の方が楽しいし」
キャンディー体の素材の研究は、全てまるごと放棄されていた。
味要素を蒸着させる素材が、オブラート紙に決定したためだ。
今は次の研究段階、味の再現性の試験に移っていた。
限られた味の要素を使って、元の料理の味を再現する。
この試験のために、これまで以上に大量の条件マトリクスが築かれた。
作業は繁忙を極めたが、この作業には一つ、大きなメリットがあった。
「私、今日のお昼はこれをいただきますね」
二葉さんは市販の冷凍ラザニアを溶かした溶液に、味覚サンプリング装置を突き刺しながら言った。
味覚再現性のテストには、当然ながら、本物の食材を使うのだ。
サンプリングされたデータは、そのまま味覚再現装置に送られ、ラザニア味のオブラート紙になって出力される。
その出力されたオブラート紙を、唾液の成分に似せて作った専用溶液に溶かし、サンプリング装置で再測定する。
元のデータと、再測定したデータを照合して、新規開発した味覚修正エンジンに放り込む。
そうして、味の修正を行っていくのだ。
試験は殆どその繰り返しで、その度に大量のサンプリング済みの食材が残される。それらはもちろん、最終的に社員の胃袋に納まることになるのだ。
二葉さんはそれを期待して、最近では社食の注文すらしなくなってしまった。
「あんまり毎日あてにされてもね」
と二葉さんに釘を刺しつつ、僕も自分の分のカレーライスをしっかりと確保した。
* * *
研究室の人員総出で、三ヶ月ほどかけて膨大な味覚データを収集した。
帰宅が深夜0時を回ることも度々だったが、苦痛は一切感じなかった。
自分の中に生じた閃きが、少しづつ実現に向かっている。
そのやり甲斐が、僕の頭の中から疲労という言葉を拭い去ってくれていた。
振り返れば僕の人生において、最も働く喜びを感じられていた時期だったと思う。
サンプリング装置は、膜電位測定技術を応用した、人間の舌に似た形状の測定機器が作られていた。
この人工の舌が実用化されれば、例えば日本から遠く離れたフランスのレストランであっても、その場で料理の味を測定して、日本のお茶の間に届けることが出来る。
これこそが、今のところ想定されている、五感テレビにおける味覚再現の目標だった。
実はこの味覚再現装置。他社において、別方式の製品が研究されていた。
それは味の要素を使わず、人間の舌に直接電気パルスを送ることによって、味覚の再現を目指すというもので、そのまま電気パルス方式と名付けられていた。
味要素のカートリッジや蒸着装置を用いなくて良いことから、システムの簡略化が可能になる。つまり、低コストで提供できるというメリットがあった。
だが当時、肝心の味覚再現については、残念としか言いようのない結果しか出せていなかったようだ。
「昔のブラウン管テレビってのは、画面がしょっちゅう帯電してたもんだから、舐めると独特の味がしたんだそうだ」
新谷室長は、いつだったかそんなことを僕に話してきた。
「ブラウン管を舐めた人がいるんですか?」
「そうなんだろうな。ちなみに液晶テレビを舐めても大して味はしない」
「試したんですか……」
僕は少し呆れ気味に言った。
室長はニヤニヤしながら話を進める。
「他社さんでやってるのはそういう研究だ」
「画面を帯電させてペロペロ舐める?」
「そ、不思議な研究だろう? 実際に舐めるのはガラス板なんだけどな」
「酸味の再現は意外にうまくいっているとか」
「ああ、得意料理はピリッとした酸味の利いたわた飴なんだそうだ」
どうにも室長は、味覚デバイスの研究そのものに乗り気ではないようだった。
僕としては、酸っぱいわた飴などには負けたくなかったので、ともかく与えられた仕事に勤しむことにした。
* * *
「これ、本当に食べれたらいいんですけどね」
ある日、二葉さんが、バナナ味のキャンディー体を舐めながらそんなことを言ってきた。
ちょうど、お昼前の時間だった。
「あー、おなかすいた。お昼休みまだかなー」
「……はっ」
その一言が、僕にあるアイデアを閃かせた。
「そうか、食べられればいいんだ……」
「え? どうしたんですか?」
僕はポカンと口を開けたままの二葉さんをおいて、隣の実験室にある、味要素蒸着装置の所へと走って行った。
そして昼休み返上で、手近にあったオブラート紙に色んな味を蒸着させて、何度も味見を繰り返した。
「これはいけるんじゃ……」
僕は空腹であることすら忘れて、新しい味覚再現方式の試作を繰り返した。
そして、すぐに室長に報告した。
* * *
「なんで誰もこれに気付かなかった」
ペペロンチーノ味のオブラートを口に含みながら、新谷さんはそう僕に言ってきた。
「まさにコロンブスの卵だな」
「いけますでしょうか?」
「ああ、いける。ワインが飲みたくなってくるよ。これは世界の食卓事情をも変えるかもしれん」
そう言いつつ、二枚、三枚とオブラート紙を口に放り込んでいく室長。
そのたびに彼の眼鏡の奥の眼光が、その輝きを増していった。
「始めるぞ、今すぐに」
* * *
「私達が今までやってきたことはなんだったんですかねー?」
キャンディー体の味付け作業から解放された二葉さんが、まず僕に言ってきたことがそれだった。
「うん……気持ちはわかるけど。二葉さん達の作業がなかったら、このアイデアには辿り着けなかったと思うんだ」
「ものは言いようですよねー。まあいいですけど。こっちの作業の方が楽しいし」
キャンディー体の素材の研究は、全てまるごと放棄されていた。
味要素を蒸着させる素材が、オブラート紙に決定したためだ。
今は次の研究段階、味の再現性の試験に移っていた。
限られた味の要素を使って、元の料理の味を再現する。
この試験のために、これまで以上に大量の条件マトリクスが築かれた。
作業は繁忙を極めたが、この作業には一つ、大きなメリットがあった。
「私、今日のお昼はこれをいただきますね」
二葉さんは市販の冷凍ラザニアを溶かした溶液に、味覚サンプリング装置を突き刺しながら言った。
味覚再現性のテストには、当然ながら、本物の食材を使うのだ。
サンプリングされたデータは、そのまま味覚再現装置に送られ、ラザニア味のオブラート紙になって出力される。
その出力されたオブラート紙を、唾液の成分に似せて作った専用溶液に溶かし、サンプリング装置で再測定する。
元のデータと、再測定したデータを照合して、新規開発した味覚修正エンジンに放り込む。
そうして、味の修正を行っていくのだ。
試験は殆どその繰り返しで、その度に大量のサンプリング済みの食材が残される。それらはもちろん、最終的に社員の胃袋に納まることになるのだ。
二葉さんはそれを期待して、最近では社食の注文すらしなくなってしまった。
「あんまり毎日あてにされてもね」
と二葉さんに釘を刺しつつ、僕も自分の分のカレーライスをしっかりと確保した。
* * *
研究室の人員総出で、三ヶ月ほどかけて膨大な味覚データを収集した。
帰宅が深夜0時を回ることも度々だったが、苦痛は一切感じなかった。
自分の中に生じた閃きが、少しづつ実現に向かっている。
そのやり甲斐が、僕の頭の中から疲労という言葉を拭い去ってくれていた。
振り返れば僕の人生において、最も働く喜びを感じられていた時期だったと思う。
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