アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―
予兆 ー2018年ー
《マインド・ログ 2018.4.5-2019.11.12》
僕はとある化学機器メーカーの『味覚デバイス研究室』という部署に配属されることになった。
就職活動はあっさりしたもので、僕が面接を受けた会社はたったの10社だった。
リクルート会社のコーディネーターに僕の職業適性を判断してもらい、ピックアップされた10社を順番に回っただけだった。
そのうち2社から内定を貰い、初任給が高いほうの会社を選んで入社した。
かつて職業適性というものは、自分で調べて判断するものだったらしい。
自己分析と呼ばれる手法。いわゆる自分探し。少し考えれば、すぐにその不毛さがわかる手法だ。
よほどやりたいことが決まっている人でない限り、職業適性の判断は、多くのデータの蓄積とノウハウを持つプロに任せるべきだ。
たかだか20年と少ししか生きてない若輩者に、世間を見晴らすことなど、出来るはずもないのだから。
そんなわけで2018年当時、就職先というものは第三者の視点で決められることが主流になり始めていた。
僕は、いわば時代の最先端に無難に乗っかる形で、自分の一生を決めたのだった。
* * *
味覚デバイス研究室では、室長の新谷さんを中心として、味覚情報の伝達技術の研究が行われていた。
目下の課題は、大手電機メーカーが実用化に向けて開発をすすめている「五感テレビ」に向けた味覚情報システムの確立だった。
五感テレビとは、映像や音だけでなく、物に触れた感覚や、味覚、嗅覚の情報も同時に伝える映像装置のことだ。
物に触れた感覚、つまり触覚については、ほぼ実用化の目途が立っていた。
ユーザーは、リモコンに取り付けられた触力覚インターフェースを押したり動かしたりすることで、テレビ画面に表示されている対象に、直に触れているかのような感覚を楽しむことが出来た。
しかし、味覚と嗅覚については、依然、再現が難しかった。
完全な再現となると、もはや脳と情報機器の間で直接情報をやりとり、つまりブレイン・インターフェースの開発を待たなければならないと考えられていた。
味覚デバイス研は、そんな状況の中で、舌の上で擬似的な味の再現をすることを目指していた。
具大的な方法としては、複数の異なる味要素を詰め込んだカートリッジを用意し、それらを味覚再現情報を元に組み合わせることで、様々な味覚的表現を行うというものだった。
人の味覚を刺激する成分は、およそ40万種あると言われている。
その中から、特に重要な要素を30種ほど選定し、それらの配合によって多くの味覚を再現するのだ。
この手法によって、味覚デバイス研では、完全とはいえないが、大よその味覚再現には成功していた。
具体的には、チョコレートとココアの違いを再現することが出来た。また、レモンとオレンジの違いを再現することも出来た。
しかし、旨味成分については問題が多く、発酵調味料や肉の味などは、いまだ再現が難しかった。
また、味覚は嗅覚との関連性が強い感覚器官と言われている。
味のついていないガムを、オレンジの匂いを嗅ぎながら噛むと、そのガムにオレンジの味がついているように感じられる。
つまりはそういうことだ。
将来的に味覚デバイスは、嗅覚デバイスとの機能統合されることが検討されていた。味と匂いを同時に伝えることによって、さらに精巧な味覚の再現を目指すのだ。
嗅覚デバイスは、他社において開発が進められていた。
「味覚デバイスの最大の問題点はなんだと思う」
配属になって間もないころ、室長は僕にそう問いかけてきた。
新谷さんは38歳という若さで室長、つまりは課長クラスの地位についた、気鋭の技術系社員だ。
黒縁の眼鏡の奥に、常に野心的な光を滾らせている人だった。
「人の味覚が、実際はとても曖昧だということでしょうか」
僕はそう答えた。
すると新谷さんはニヤリと笑ってからこう言った。
「それもあるが違う。最大の問題はな、やはりペロペロしなきゃならんということだよ」
味覚を伝えるデバイスであるのだから、それを感じるためには実際に舌で舐めなければならない。
そして当時、この会社の経営部が支持していたのは、棒つきキャンディーのような形状をした味覚デバイスだった。
飴玉の部分に相当する先端部位に、味の要素を蒸着させるというものだ。
この方式は、そのままずばり、キャンディー方式と呼ばれていた。
「はっきり言って俺は、このキャンディー方式そのものがナンセンスだと思っている」
「はい」
「ちょっと想像すればわかることじゃないか。テレビの中のタレントがペロペロやってるやつと同じものを、テレビの前にいるみんなもペロペロする。そうやってテレビの中の有名人と感覚を共有して楽しむ。はっきり言って薄気味悪いだろ?」
「僕も、あまり流行っては欲しいとは思いませんね……」
「そうだろう? だいたい、この手の商品はどんなに業界ぐるみでプッシュしたって、一時のブームで終わっちまうもんだ」
そう言うと、新谷さんはやれやれと首を振った。
「しかし上の指示とあればやらなきゃならん。会社勤めの辛いところだな」
僕に任されていた仕事は、味の要素を蒸着させる素材の開発だった。
様々な高分子、磁器、金属、それらの素材に、数十種の食味をつけて官能試験にかける。
耐久性や抗菌性、繰り返し使った場合の味の沈着程度など、考えられる全ての条件について調べる必要があったので、その実験項目のマトリクスは果てしなく増えていった。
僕一人では当然手が足りないので、同じ研究室の派遣社員の女性二人の手を借りながら試験を進めていった。
イオン化装置でプラスの電荷を帯びさせた味覚成分を、マイナスに負荷したキャンディー体に蒸着させる。この作業をひたすら繰り返して、幾つものサンプルを作っていく。
単に味覚成分を蒸着させたもの。
洗浄と再蒸着を5回繰り返したもの。
10回繰り返したもの。
50回繰り返したもの。
200回繰り返したもの。
それらのサンプルを、味の要素のコンビネーションを変えながら、さらに様々な素材ごとに行っていく。
全ての組み合わせについて試していたら、それこそ無限の時間がかかってしまうので、そこを僕の判断で選別する。
その選別の際に、僕が大学で学んできた分子工学や生物化学の知識が役に立った。
派遣の人には、ひたすら実験室で味の蒸着と洗浄を繰り返してもらう。
僕は出来上がったサンプルを随時、官能試験員に渡して、味の評価をしてもらう。
時々、試験を終えたサンプルの表面を電子顕微鏡で観察し、分析機器にかけて、味の要素の沈着具合や表面の磨耗を調べる。
そうして黙々とデータを積み上げていく。
たまに、自分達で実際に味見をしてみたりする。
「前の味がすごい残っちゃってます」
あるサンプルの味見をした二葉さんという派遣の人が、僕にそう報告してきた。
チョコレートの味を5回乗せて洗浄した後に、イチゴの味を乗せたサンプルだった。
「イチゴチョコレートになっちゃってますよ」
「うん、そうだね」
僕はチョコレートの味を10回乗せた、別のサンプルの味を見ていた。
「僕のは殆どチョコの味しかしない」
「この素材はダメですね」
「うん、もうこの素材の試験はやめて良いね」
僕がそう言うと、二葉さんは「わー」と両手を上げて喜んだ。
単純に、仕事が減ったことを喜んでいるのだ。
少し、子供っぽいところのある人だった。
僕はとある化学機器メーカーの『味覚デバイス研究室』という部署に配属されることになった。
就職活動はあっさりしたもので、僕が面接を受けた会社はたったの10社だった。
リクルート会社のコーディネーターに僕の職業適性を判断してもらい、ピックアップされた10社を順番に回っただけだった。
そのうち2社から内定を貰い、初任給が高いほうの会社を選んで入社した。
かつて職業適性というものは、自分で調べて判断するものだったらしい。
自己分析と呼ばれる手法。いわゆる自分探し。少し考えれば、すぐにその不毛さがわかる手法だ。
よほどやりたいことが決まっている人でない限り、職業適性の判断は、多くのデータの蓄積とノウハウを持つプロに任せるべきだ。
たかだか20年と少ししか生きてない若輩者に、世間を見晴らすことなど、出来るはずもないのだから。
そんなわけで2018年当時、就職先というものは第三者の視点で決められることが主流になり始めていた。
僕は、いわば時代の最先端に無難に乗っかる形で、自分の一生を決めたのだった。
* * *
味覚デバイス研究室では、室長の新谷さんを中心として、味覚情報の伝達技術の研究が行われていた。
目下の課題は、大手電機メーカーが実用化に向けて開発をすすめている「五感テレビ」に向けた味覚情報システムの確立だった。
五感テレビとは、映像や音だけでなく、物に触れた感覚や、味覚、嗅覚の情報も同時に伝える映像装置のことだ。
物に触れた感覚、つまり触覚については、ほぼ実用化の目途が立っていた。
ユーザーは、リモコンに取り付けられた触力覚インターフェースを押したり動かしたりすることで、テレビ画面に表示されている対象に、直に触れているかのような感覚を楽しむことが出来た。
しかし、味覚と嗅覚については、依然、再現が難しかった。
完全な再現となると、もはや脳と情報機器の間で直接情報をやりとり、つまりブレイン・インターフェースの開発を待たなければならないと考えられていた。
味覚デバイス研は、そんな状況の中で、舌の上で擬似的な味の再現をすることを目指していた。
具大的な方法としては、複数の異なる味要素を詰め込んだカートリッジを用意し、それらを味覚再現情報を元に組み合わせることで、様々な味覚的表現を行うというものだった。
人の味覚を刺激する成分は、およそ40万種あると言われている。
その中から、特に重要な要素を30種ほど選定し、それらの配合によって多くの味覚を再現するのだ。
この手法によって、味覚デバイス研では、完全とはいえないが、大よその味覚再現には成功していた。
具体的には、チョコレートとココアの違いを再現することが出来た。また、レモンとオレンジの違いを再現することも出来た。
しかし、旨味成分については問題が多く、発酵調味料や肉の味などは、いまだ再現が難しかった。
また、味覚は嗅覚との関連性が強い感覚器官と言われている。
味のついていないガムを、オレンジの匂いを嗅ぎながら噛むと、そのガムにオレンジの味がついているように感じられる。
つまりはそういうことだ。
将来的に味覚デバイスは、嗅覚デバイスとの機能統合されることが検討されていた。味と匂いを同時に伝えることによって、さらに精巧な味覚の再現を目指すのだ。
嗅覚デバイスは、他社において開発が進められていた。
「味覚デバイスの最大の問題点はなんだと思う」
配属になって間もないころ、室長は僕にそう問いかけてきた。
新谷さんは38歳という若さで室長、つまりは課長クラスの地位についた、気鋭の技術系社員だ。
黒縁の眼鏡の奥に、常に野心的な光を滾らせている人だった。
「人の味覚が、実際はとても曖昧だということでしょうか」
僕はそう答えた。
すると新谷さんはニヤリと笑ってからこう言った。
「それもあるが違う。最大の問題はな、やはりペロペロしなきゃならんということだよ」
味覚を伝えるデバイスであるのだから、それを感じるためには実際に舌で舐めなければならない。
そして当時、この会社の経営部が支持していたのは、棒つきキャンディーのような形状をした味覚デバイスだった。
飴玉の部分に相当する先端部位に、味の要素を蒸着させるというものだ。
この方式は、そのままずばり、キャンディー方式と呼ばれていた。
「はっきり言って俺は、このキャンディー方式そのものがナンセンスだと思っている」
「はい」
「ちょっと想像すればわかることじゃないか。テレビの中のタレントがペロペロやってるやつと同じものを、テレビの前にいるみんなもペロペロする。そうやってテレビの中の有名人と感覚を共有して楽しむ。はっきり言って薄気味悪いだろ?」
「僕も、あまり流行っては欲しいとは思いませんね……」
「そうだろう? だいたい、この手の商品はどんなに業界ぐるみでプッシュしたって、一時のブームで終わっちまうもんだ」
そう言うと、新谷さんはやれやれと首を振った。
「しかし上の指示とあればやらなきゃならん。会社勤めの辛いところだな」
僕に任されていた仕事は、味の要素を蒸着させる素材の開発だった。
様々な高分子、磁器、金属、それらの素材に、数十種の食味をつけて官能試験にかける。
耐久性や抗菌性、繰り返し使った場合の味の沈着程度など、考えられる全ての条件について調べる必要があったので、その実験項目のマトリクスは果てしなく増えていった。
僕一人では当然手が足りないので、同じ研究室の派遣社員の女性二人の手を借りながら試験を進めていった。
イオン化装置でプラスの電荷を帯びさせた味覚成分を、マイナスに負荷したキャンディー体に蒸着させる。この作業をひたすら繰り返して、幾つものサンプルを作っていく。
単に味覚成分を蒸着させたもの。
洗浄と再蒸着を5回繰り返したもの。
10回繰り返したもの。
50回繰り返したもの。
200回繰り返したもの。
それらのサンプルを、味の要素のコンビネーションを変えながら、さらに様々な素材ごとに行っていく。
全ての組み合わせについて試していたら、それこそ無限の時間がかかってしまうので、そこを僕の判断で選別する。
その選別の際に、僕が大学で学んできた分子工学や生物化学の知識が役に立った。
派遣の人には、ひたすら実験室で味の蒸着と洗浄を繰り返してもらう。
僕は出来上がったサンプルを随時、官能試験員に渡して、味の評価をしてもらう。
時々、試験を終えたサンプルの表面を電子顕微鏡で観察し、分析機器にかけて、味の要素の沈着具合や表面の磨耗を調べる。
そうして黙々とデータを積み上げていく。
たまに、自分達で実際に味見をしてみたりする。
「前の味がすごい残っちゃってます」
あるサンプルの味見をした二葉さんという派遣の人が、僕にそう報告してきた。
チョコレートの味を5回乗せて洗浄した後に、イチゴの味を乗せたサンプルだった。
「イチゴチョコレートになっちゃってますよ」
「うん、そうだね」
僕はチョコレートの味を10回乗せた、別のサンプルの味を見ていた。
「僕のは殆どチョコの味しかしない」
「この素材はダメですね」
「うん、もうこの素材の試験はやめて良いね」
僕がそう言うと、二葉さんは「わー」と両手を上げて喜んだ。
単純に、仕事が減ったことを喜んでいるのだ。
少し、子供っぽいところのある人だった。
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