喜怒哀楽の学び方
悲しみとは
三月が終わる頃、綺麗な夕焼けが心に染みる景色を眺めながら、その真下に目をやると、川が夕焼けの色を反射して不思議な色を光らせていた。
俺は川の見える堤防の上にある椅子に座り、一人の女性の話を聞いていた。
その話の内容は父親が亡くなってしまったという話だ。
「未春にこんな話してごめんね、思い…出しちゃう…よね」
そう言って、申し訳なさそうに見つめてくる。
「気にしないで良いよ、…続けて」
こくりと頷いて、彼女は話を続けた。
けれど話を聞いていて、不思議に思うことがあった。
父親が亡くなった話をしているのに、彼女は妙に冷静だった。
淡々と話しているとしか思えない。ただ、これが勘違いなら場違いもいい所だ。失礼の極みと言っても過言では無い。
それでも俺は、質問せずには要られなかった。
もしかしたら本当に何かあるんじゃないかと思って心配した俺は彼女に質問した。
「どうして父親が死んだのに全く悲しんで無いんだ?」
親が亡くなれば、虐待などをされてない限り悲しくなるものだ。それは、自分を育てたのは親であり、親無しでは自分は居ないと言っても過言では無いからだ。
それでも彼女は違った。
「それは、私が聞きたいよ…」
ぼそっとそんなことを言いながら、彼女は苦笑を浮かべ、困った表情をした。
やはり図星だった。予想は当たってしまった。
いつからだろうか?彼女が変わってしまったのは。誰に対しても優しく、人思いな彼女が変わってしまったのは何故だろうか?いいや、理由は何となく知っている。恐らく自分と一緒の原因であろう。
彼女が変わったのは『感情』だろう。持っていた感情の一部が機能していないのだと思う。これは良くあることと言えば嘘になるけど、経験がある人は多い。
例えば、自分の笑い方が相手にとっては気持ち悪く、笑うと睨まれたりする。こんな状況が続けば誰だって笑うことを躊躇うようになる。
人間、直そうと思っても直せないことは山ほどある。それを知らないで行動する人間はこの世には少なくない。彼女もきっと何かがあって直せなくなっているのだと思う。
それに関しては自分も一緒だ。
もしそうなら、俺が支えてあげなきゃ。きっと自分の症状に苦しんでいるはず…。お互いに助け合えば、LEを治す事が出来るかも知れない。
苦笑を浮かべる彼女の座っているベンチの隣に腰を下ろして、彼女の肩を優しく叩いた。
「きっと大丈夫だよ妃奈(ひな)、俺も一緒だから。妃奈がどんな人か俺は知ってるつもりだよ?」
「うん、ありがと。そう言ってくれると少し楽になる」
妃奈の苦笑を浮かべてた顔が段々和らぎ、少し安堵のため息を吐いた。
「それは良かった」
「それにしても何だろう。私の感情が変わったのかな?うぅ、やっぱ分からない」
自分に何が起きてるのか分からない妃奈は、
頭の上にクエスチョンマークを浮かべ、悩んでいた。
「その簡単な理由としては哀が無くってるんだと思うよ」
「あい?」
俺の顔を見ながら首を少し傾げて聞いてくる。
「そう、哀」
「喜怒哀楽の哀。きっとストレスとか、何かあった時に無くなったんだと思うよ。実は俺もあることがきっかけで全く人を怒れなくなってるからさ」
人間には必ず存在する、主感情となる喜怒哀楽。この一部が俺達には無くなってしまっている。それはちょっとしたきっかけに過ぎず、それでも無くなった事には変わりない。
哀が無くなる訳無いじゃんと言われれば否定は出来ない。哀とは悲しみだ。彼女は要するに悲しめなくなってしまったのだ。
この現象の事の発端はトラウマが多いが、彼女に聞かない限り謎は彷徨う事になる。
「まぁ、俺の話はさておき」
手を軽く叩き、次の話を進める。
「今、妃奈は泣きたくても泣けない、そんな感じだよね?」
そう聞くと、少し驚きながら頷いた。
「でも、何で分かったの?」
「それは、さっきも言った通りだけど、俺は妃奈と同じで怒れない状態にある………原因は内緒。」
「何でよ!気になるじゃん!」
まるで美味しい話に食い付いた人のような目で見てくる。さっきの苦笑が嘘のようだ。
「いつか絶対に話すからその時で良いか?」
「うーん、分かった!未春(みはる)が言うなら待つよ!あんまり遅いと怒るからね!」
そう言えば怒るってどういう感覚だっけ?考えれば考えるほど分からなくなり憂鬱になる。
思い出せそうで出て来ない、テストの時もこの現象がたまにあるが、それとはまた別の感覚。
「怒るとは?(哲学)」
「はいはい、分かりましたよー!一緒に学びましょうねー」
呆れたような顔を一瞬したが、いつも通りに絶えない笑顔で笑った彼女を見て、自分の感情が戻るのか不安だったけど、その不安が雲が遠ざかるかのように無くなっていった。
妃奈は知らないであろう。俺自身、妃奈に救われていることを。そして、一部の感情を取り戻すには妃奈が居るか居ないかでは劇的に変わってくるだろう。
そんな妃奈に感謝をしなければいけないと思い、礼をした。
「妃奈、ありがとな」
そう言うと、一瞬驚いた顔をしたけど、また笑って「どういたしまして」と言った。
「でも、悲しめないのは辛いよな、それは共感」
この言葉に違和感を覚えたのか、妃奈が瞬きしながら聞いてくる。
「哀しいとは?(哲学)」
やっぱりか!何となく察してはいたが、もはや俺達には失った感情がどうであったか分からないらしい。
「妃奈もかよ」
「え?何が?」
本当に何も分かってないようかのように聞いてくる。
もうこれはあれだ、一種の病気だ。認知症とかそんな甘いものでは無く、極端な記憶喪失とも言える。
「うーん、それにしてもこまっ……痛っ!」
唐突に、おでこに軽い痛みが走った。
妃奈の方へ顔を向けるとくすくすと笑っている。
「ごめんねー未春、何か考え事してたから、デコピンを披露しちゃった!」
誰のせいで考え事をしていたと思ってるんだと言いたい気持ちをグッとこらえた。しかし、これもまた妃奈の優しさでもある。
「披露し無くて良いからねヒナさん。まぁ、ポジティブに言えば眠気覚ましにはなったよな。サンキュー妃奈」
妃奈に親指を出すと、つまらなかったのか、そっぽを向いてしまった。
「あれー妃奈さん?俺、何か変な事しました?」
そっぽ向きの妃奈さんは、俺の言葉を遮るかのように立ち上がり、「もう帰ろうよ」と言ってきた。今思えば、辺りが暗くなってき始めていた。最近世の中物騒だからな、早く帰る事は大切だ。
妃奈の発言を受け入れるように、俺も立ち上がりそのまま家に帰った。
俺はこの時から甘く見てたのかも知れない。むしろ、怒る事は大切だろうか?と思ってしまった。
それが俺達の関係をいずれ崩すとも知らずに…………。
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