夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

30 遠くから

トゥリカが衣装小部屋で一人佇んでいる時と同じ頃。

テオは空になった水盤に手をかざし、そののち、ため息ながらに手を引っ込めるという行為を、前日から何回も繰り返していた。

「まいったな……」

昨日の朝、フランツに台から落とされた際にわずかに歪んでしまったようだ。
目で見てもわからない程度の歪みで、水盤本来の用途には支障はない。しかし、術の行使となれば話しは別だ。
普段、テオは自分の魔力を同調させ、銀の振動を利用して張った水に遠くの景色を映している。そのためどんなに微量な歪みでも、振動に変化をもたらし同調の妨げになってしまう。また、術を馴染ませるためには一年近くかかるため、新しい物を取り寄せてすむことではなかった。
ついでに言えば、張ってあった水もテオが特別に術を施してある水で、井戸から汲んできて入れればいいというものではない。

そういった経緯で、テオは昨日から水盤の修復を試みているのだが、どうにもうまくいかない状態が続いていた。

「テーオー。お腹すいたー。夕飯はー?」

テオが水盤と睨み合っている最中、扉が開きそこからフランツがひょこりと顔を出した。
前日の剣幕はどこへやら、至って暢気な声のフランツに、テオは眉をしかめはしたものの無視はせずに答える。ただし視線は水盤に定めたまま。

「うるさいな。たまには自分でなんとかしたらどうだい? 一食くらい抜いたって死にはしないよ」
「一食くらいって……。あんたずっとこもりっぱなしだし。朝も昼も残りもんだけで、ろくに食ってないんだけど」
「へえ。どの口がそういうことを言うんだろうね? 大体、誰のせいでこうなったと思ってるの? ――くそっ!」

フランツと会話しながら、再び水盤に手をかざしていたテオだったが、ぱんっという音ともに手の平に衝撃を感じ、いつになく汚い言葉が口をついて出た。

「なにも食べてないわけじゃないんだ。一日くらい大丈夫だよ」

テオはため息をこぼし、フランツへと視線を移してそう言った。
目が合ったフランツがみるみるふてくされたような顔になる。
まるで子供だ。

テオは再び――今度は先ほどよりも長く息を吐き出すと、水盤の前を離れた。
フランツの元へ進みながら、ちらりと窓の外を窺うと濃い闇が広がっていた。

「――もう夜なんだね」
「そうだよ。いつもの夕飯の時刻なんてとっくに過ぎてるんだ。腹減りすぎて死にそう……。あっ、アレ食べたい。鶏肉焼いたやつに甘酸っぱいソースがかかってるやつ」

フランツが横ではしゃぐのをよそに、テオはトゥリカのことを考えていた。
今日も一日、無事に過ごせただろうか?
再び恋に傷ついて、一人で泣いてはいないだろうか?

「――知ったところで僕にはなにも出来ない、か」
「テオ?」

小さな呟きはフランツの耳には入らなかったようだ。
テオは普段通りの笑みを顔に貼り付ける。

「言っておくけど肉は切らしてるんだ。食べたいなら自分で狩ってきなよ。ああ、でも、燻製肉ならあったかな」

軽い口調で言いながら、テオはさっさと歩き出した。

「あのさ……」

慌てた様子で後ろについたフランツが言いにくそうに口を開いた気配が伝わってくる。けれど、テオは後ろを振り返りはしなかった。

「水盤のこと、悪かったよ。直りそうかな?」
「さあ、ね」
「トゥリカを諦めたんだし、今から魔力の核だけでも取り戻したらどうかな? そうしたら力倍増で水盤だって簡単に元通りに――」
「フランツ!」

きっとフランツは冗談半分で言ったのだろう。わかってはいたが、テオは思わず声を荒げてしまった。

「ごめん……」

フランツからの素直な謝罪の言葉が聞こえ、テオは力なく首を横に振った。

「水盤はもう諦めるよ。こうなってよかったのかもしれないしね」

きっと時が経てば、トゥリカの姿を見なくても気にならなくなるはずだ。
気持ちに折り合いをつける良い機会だ。
テオは自分にそう言い聞かせた。

* * *

空には細く青白い月がかかっている。
トゥリカは露台の大窓から、まるで自分を嘲笑うかのように弧を描く月を見つめていた。
部屋に閉じこめられてから数刻。宴はとっくに終わっているはずだが、未だにリタが現れないということは、朝まで部屋を出ることは叶わなそうだ。

(とにかく、まずはここを出なくちゃ)

トゥリカは視線を少し下げ、アーゼンの街並みを見た。
運良く宮殿を出たとしても、徒歩のみで都まで行き、そこからまた東の森まで行くには時間がかかりすぎてしまうだろう。それに、部屋の窓から見てもわかるほど、街の灯りはほとんど消えている。この深夜に開いているのは宿屋や酒場、あとはいかがわしい店くらいだ。日中に歩いていたときですら路地で悪漢たちに出くわした自分の土地勘では、とてもじゃないが森まで無事にたどり着けるとは思えない。
自分がいかに無謀なことをしようとしているのか、トゥリカは充分に理解していた。
それでも、

(黙って見ているだけなんてごめんだわ)

トゥリカは唇を引き結ぶと、真っ直ぐ寝室に向かった。
そして、寝台のシーツをはがし、天蓋から垂れる布帛も力一杯引っ張る。
前にもしたように、それらを結んで衣装小部屋の窓から抜け出そうと思ったのだ。

トゥリカがそうして布と格闘しているときだ。

「なにをしているの?」

凛とした女性の声に、トゥリカはぴたりと身体の動きを止めた。

振り返ると、怒っているような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべた母――イルゼが立っていた。
帳をはずすことに集中していたため、イルゼの入室に気づかなかったのだ。

「お母様。これは……その……」

トゥリカは今更遅いとは思ったが、後ろめたさから手にしていたシーツを背中に隠し、イルゼの顔色を窺う。
イルゼは高い位置に結い上げた金髪を手の平で撫でつけ小さく息を吐き出した。

「まったく、あなたって子は……」

叱られるだろうかとびくついていたトゥリカだったが、イルゼから発せられた声はとても穏やかなものだった。
トゥリカはほんの少し安堵しながらも、汗ばむ手を握りしめる。

「お母様。お願いがあります」

トゥリカがそう言うと、イルゼは一歩二歩と足を進めトゥリカの正面に立った。イルゼの手がそっと伸びトゥリカの頬に触れる。

「なにかしら?」

紅を引いた形のいい唇から発せられた声は、まるで寝しなに唄ってもらった子守歌を思い起こさせるような優しい響きを持っていた。
トゥリカは自分とあまり背丈の変わらない母親の栗色の瞳を真っ直ぐ見つめ、口を開く。

「魔術師を罪に問うことだけはどうかやめてください」
「ティルダの命を脅かし、あなたを拐かした塔の魔術師を許せ、と?」
「何度も言ったように私は自ら塔に向かいました。都で危機に陥った私を助けてくれたのは魔術師です。食事も、寝る場所も、着る物も、彼は屋敷でとても良くしてくれたんです。ティルダのことだって、術をかけたのは別の者だと言っていました」

トゥリカはそう言ってうつむいた。
テオが自分にかけた暗示のことは口には出さないことにした。包み隠さず全て話して、テオの立場を不利にすることは避けたかったからだ。

「だから……。どうかお願いします。塔に攻め込むことをやめるよう、私と一緒にお父様を説得してください」

トゥリカは懇願し、深く頭を下げた。
しかし、

「コルトヌーク国が関わってしまった以上、出陣の取りやめを求めても徒労と終わるでしょうね」

イルゼからの返事は、トゥリカの希望を叶えるものではなかった。
それでも、トゥリカは食い下がる。

「では、彼に危機が迫っていることを知らせに行く許可をください!」

トゥリカはそう訴えたが、イルゼはなにも答えないまま背中を返した。
イルゼの態度を拒絶と取ったトゥリカは、イルゼの腕にすがりつく。

「許可してくださらなくても私は塔に行きます」

そう言ってイルゼの顔を見たトゥリカは一瞬息を呑んだ。
間近で見た母の顔がひどくやつれて見えたからだ。

「この数日、私たちがどれほどつらかったか、あなたにわかりますか?」

イルゼの呟きに、トゥリカはイルゼを引き留めていた手を思わず放した。
年を重ねても美しく、いつもしっかりと背筋を伸ばし、毅然とした姿を保っていた母――その母が弱々しくうなだれている。
そうさせてしまったのは、自分の浅はかな行動が原因なのだ。
今もまた、感情にまかせた言葉で母を苦しめてる。

「――ごめんなさい」

トゥリカは小さく謝り、母の前にまわるとその細い指を両手で包んだ。

「無茶なことを言っているのはわかってます。お母様を困らせるだけだということもわかってます。――だけど、私は彼に死んで欲しくないんです」
「あなたにとって、魔術師はそこまでして助けるに値する人物?」
「はい。私にとってはかけがえのない人です」

トゥリカはイルゼの問いに迷わず頷いた。すると、イルゼが悲しそうに眉尻を下げた。

「そう……。そんなにもあなたの意志は強いのね。けれど、私は王妃としてあなたの申し出に全て笑顔で頷くことなんて出来ないんですよ? あなたは昔からわがまま一つ言わない子だった。そのあなたからの初めてのお願いがこんな形になるなんて……」

イルゼがそう言って、トゥリカの手を優しくふりほどいた。

「お母様、待って! お願いっ!」

扉に向かって歩き出すイルゼの背にトゥリカは叫ぶ。
扉の一歩手前で立ち止まったイルゼがゆっくりと振り返った。

「ついていらっしゃい」

イルゼがそう短く告げてきたため、トゥリカは一瞬困惑した。けれど、すぐに気持ちを切り替えてイルゼの近くに駆け寄った。
なぜなら、イルゼが慈しむようなまなざしをたたえ、本当に微かではあったが頬笑んでいたからだ。

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