夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

29 王女の望み

第一印象とは違い、暖かみのある笑顔であったが、トゥリカの心はその笑顔とは裏腹に底冷えしていく。

「フェリクス殿下のご助力により、勝利はより強固なものとなった。決戦は明日。今宵は娘たちの無事を祝う宴でもあり、勝利の前祝いでもある。存分に楽しみ、皆明日に備えてもらいたい!」

トゥリカを無視してダグマルは皆を鼓舞する言葉を紡ぎ出す。口を挟む隙がないことを悟り、トゥリカは力なく腰を落とした。

「トゥリカ王女。あなたはきっと覚えておいでではないでしょうが、私は以前あなたにお会いしたことがあるのですよ。ほんの子供の頃のことですが。あれはティルダ王女殿下の六回目のお誕生祝いの日でした。初めてのご招待に緊張しきっていた私に、あなたはとても優しく頬笑んで励ましてくださった。その日以来、お慕いしておりました。今回の話しをロワナ国王陛下に申し出てみて本当によかったと思ってます。あなたと私で両国に平穏をもたらしましょう」

フェリクスがそう言って、トゥリカの肩にそっと手を置いた。
普段ならば愛想笑いでかわせるはずのことが今のトゥリカには無理だった。
ぞんざいに立ち上がり、フェリクスと対峙する。

「あなたは私と結婚するというお粗末な理由のために魔術師討伐に協力すると言うの?」

「いえ、元々は婚儀のお申し入れだけでした。ですが、その折りに魔術師討伐のお話を耳にしましたので、是非ともご協力したいと思ったのです。奴は私の兄の仇でもあります。兄の命を奪った魔術師が憎い。兄は明るく優しい方でした。腹違いとはいえ、私にも良くしてくださいました。それをあの魔術師は……」

フェリクスの顔が苦しげに歪む。
トゥリカはコルトヌーク国の一の王子が二ヶ月前に失踪したという話しを思い出した。
しかし、フェリクスの口ぶりから推測すると失踪ではなかったようだ。
もしもこのとき、テオに会っていなかったら、トゥリカはフェリクスの言葉をそのまま受け取り、憤りを覚えていただろう。
けれど、トゥリカはテオに会い、短い間ではあったがともに過ごしていた。
ほんの数日の間で見てきた彼の印象は、トゥリカが耳にしていた噂とは食い違っていた。
意外とわかりやすい性格をしているところだったり、真面目に料理に取り組む姿だったり――飄々としていてつかみ所がない部分もあったけれど、こちらを見るときだけはいつも優しい目をしていた。
そして、フランツは言っていた。

彼は命の恩人なんだ、と。

「違う……」

トゥリカは無意識のうちにそう呟いていた。

「違う、とはいったい?」
「あの人はなんの理由もなく人を殺めるような人ではないわ」
「――あの人というのは、まさか魔術師のことですか?」

フェリクスがいぶかしげに顔をしかめた。
トゥリカは大きく頷く。

「そうよ。彼は――」
「トゥリカ王女。奴は報酬さえあればどんなことでも請け負うという魔術師ですよ。あなたが魔術師に囚われていたというお話は伺っております。あなたはお優しいからお気づきにならなかったんでしょう。騙されているんですよ」

トゥリカの声を遮って、言外に揶揄するような響きでフェリクスが言った。

「そんなことないわっ!」

トゥリカは思わず叫んでいた。
笑い声や、明日への闘志をみなぎらせる声で賑わっていた宴の席が途端にしんと静まりかえる。人々の視線がトゥリカとフェリクスに注がれた。

「確かに最初は得体が知れなくて怖かったわ。だけど、近くにいてわかったのよ。彼はそんなひどいことをするような人じゃない」

今ならばわかる。ティルダの快復と引き替えに身体を捧げるという取引をした時、なぜあんなに悲しくなったのか。気持ちを無視した欲求を満たすだけの取引をためらいなく承諾されたことが悲しかったのだ。そこに伴う感情を物のように扱われたくなかったのだ。

「それが騙されているというのですよ」

トゥリカの訴えは、フェリクスのきっぱりとした声音に切り返された。
これ以上なにを言っても無駄だ、とトゥリカは悔しさで唇を噛んだ。

そこへすかさず入ったのはダグマルの声だった。

「トゥリカ。フェリクス殿下に失礼を詫びなさい。お前の連れ添いとなるお方だぞ。多少の喧嘩は必要だとは思うが、今のはお前が悪い。フェリクス殿下のお心を汲むという気持ちがお前にはないのか?」

ダグマルの言動にトゥリカは怒りと悲しみを同時に感じた。

「お父様! どうして私の話を一つも聞いてくれないの? 私は世継ぎとして今日まで自分なりに努めてきたつもりです。それを急に他国へ嫁げだなんて……」

「この国のことを案ずるお前の気持ちもわかるが、ロワナ国はティルダに任せる。しばらくはアヒムに宰相としてついてもらうつもりだ。それに、オルフという頼もしい王配もいる。お前はしっかりしているし、一人でも大丈夫だろう? だからこそ、フェリクス殿下からお前を妻にというお話をいただいても頷くことが出来たんだ」

「――私は納得できません。それに、悪いことをしたとも思ってません。失礼します」

トゥリカはそう言って、ダグマルとフェリクスにおざなりに頭を下げ、背中を返した。

「トゥリカっ!」
「陛下。トゥリカ王女は塔からの帰還でお疲れの上、突然のことに戸惑っておいでのようです。今はそっとしておいてあげてください。私は気にしておりませんので」
「殿下がそうおっしゃられるのでしたら。――リタ。トゥリカの部屋に外から鍵をかけておくんだ。しばらく頭を冷やすよう言っておいてくれ」
「…………は、い」

ダグマルたちの会話の内容が聞こえ、トゥリカはますすま表情を険しくした。
騒然とする宴の席を無言で進んでいく。
その場の人々がトゥリカを気遣うような声を上げていたが、トゥリカは前だけを見据えて足を進めた。

* * *

「姫様。陛下の仰せですので、申し訳ございません」

リタがそう言って、深々と頭を下げたあと部屋を出て行った。
扉が閉まった直後、がちゃん、と施錠される音が冷たく響いた。

居室に一人残されたトゥリカは、憂いを含んだ息を吐き出しながら、暗紅色の天鵞絨が張られた長椅子に腰をおろした。誰もいないのをいいことに、礼法を無視して足を投げ出し、柔らかな背もたれに身体全体を預け天井を仰ぎ見る。身体は脱力し、心はひどい虚無感で覆われていた。

「あの人が夫になる……?」

大広間で会ったフェリクスを思い出すのと同時、テオの姿が脳裏をよぎり、治ったはずの右手の中指がじんじんと痛んでいる気がした。
トゥリカはがばりと上体を起こすと、自分の膝を引き寄せ抱きかかえる。

「いやよ……。絶対にいや。だって私がそばにいたいと思ったのは――」

自分の感情に気づいて膝を抱える腕に自然力がこもった。
束の間の逡巡ののち、すっくと立ち上がり衣装小部屋へと向かう。そして、衣装棚の奥にそっとしまっておいた淡い萌黄色のドレスを引っ張り出す。テオの屋敷から着の身着のままで持ってきてしまった物だ。

アヒムやゲルトにおかしな術がかかっているかもしれないと処分を促されていたのだが、トゥリカはどうしてもそんな気にはなれず、リタに懇願してとっておいてもらった。
最初は受け取るのを拒んだ代物だというのに、今は屋敷で過ごした数日をつなぎ止める唯一の物のように思える。

「彼らにお父様たちのことを知らせなくては――」

心の中で激しい突風が吹き荒れている。居ても立っても居られない心境だ。

オルフへの自分の想いに気づいたときだってこんな気持ちになったりしなかった。もっと穏やかで、オルフの姿を見るたびにじんわりと心が温かくなる、そんな程度だったのだ。
今は世継ぎという立場を投げ打つことになっても諦めたくない。

「ああ、違うわ。もう世継ぎではないのよね……」

トゥリカは独りごちて、ドレスを抱きしめた。
ふわり、と鼻先をかすめたのは、変に懐かしさを感じるテオとよく似た匂いだった。

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