夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

27 帰還

目覚めると、そこはとても居心地の良い寝台の中だった。
トゥリカは視線だけ動かして、自分のいる場所を確認する。
間違いない。
ここは自分の寝室だ。
天蓋から垂れた白い布帛に懐かしさを感じながら、トゥリカは上体を起こした。

(今の夢……)

おぼろげな記憶の中でテオが言っていた言葉を思い出す。

「暗示って……」

トゥリカは小さく呟くと、帳を開け寝台から降りた。
部屋の中は明るい。
自分を見下ろすと、屋敷にいたときと同じ格好をしていることに気がついた。どうやら移動の魔法の送り先はトゥリカの寝室だったようだ。

(夜が明けてる)

トゥリカは窓のそばまで歩み寄り、遠くに見える塔に瞳を細めた。
実際の塔や屋敷、テオを知ってしまったからか、以前ほど気味の悪さを感じない。

(姑息な手段でってそういう意味だったのね)

今し方見ていた夢は、たぶん実際に過去に起こった出来事のはずだ。
別れ際、テオはトゥリカに触れた。きっとそのときに思い出すように細工をしたのだろう。

(だけど……)

トゥリカは拳をきつく握りしめた。

「だったらなぜ、その暗示を使って私の心を手に入れなかったの?」

朝日に照らされる塔を見つめ、トゥリカは誰にでもなく問いかけた。

「そういえば、あの人が私の名を呼んだことってなかったわね」

トゥリカは呟いて、小さく肩を落とした。
そこで、はっとする。
自分が思っていた以上に落胆していることに気がついてしまったからだ。

(もっとちゃんと話がしたかった)

トゥリカは窓から見える塔から目をそらした。
と、そのときだ。
カタン、と音を立てて居室へと続く扉が開けられる。

「っ! 姫様!」

部屋の中に、リタの悲鳴に近い声が響き渡った。

「姫様、ご無事ですかっ!」

足音も高らかに走り寄ってくるリタに、トゥリカは少しだけ笑んで頷いた。

「本当に姫様なんですね? よかった……」
「たくさん心配かけてしまったわよね。ごめんなさい」

リタが涙ぐむのを見て、トゥリカは申し訳ない気持ちで頭を下げた。

「まあ! お顔をお上げになってくださいませ。姫様はなにも悪くはございません。悪いのはあの魔術師なのですから」
「え?」

リタの口から飛び出した思わぬ言葉にトゥリカは戸惑った。

「姫様が消えてしまった日の夕刻。魔術師が宮殿に現れて、姫様は預かった。無事に帰して欲しくば塔には干渉するな、と」
「魔術師本人がそう言ったの?」

言葉を続けたリタに、トゥリカは詰め寄って訊ねる。すると、リタは不思議がるような顔をして頷いた。

「いえ、わたくしが直接聞いたわけではないので詳しいことはわかりかねますが、アヒム様が魔術師に会ったとおっしゃっておりました」
「違うわ。私は自ら塔に行ったのよ。手紙だって置いていったわ」
「手紙、ですか?」
「それに、衣装小部屋の窓だって……」
「姫様?」

小首をかしげるリタの様子を見る限り、嘘をついているようには見えなかった。

手紙を隠したり衣装小部屋の窓を元通りにしたりとそこまでテオがやったのだろうか? そんな疑問が浮かんだが、テオが悪役を買って出たから屋敷で何事もなく過ごせていたとも考えられる。
不可解な現状にトゥリカは頭を悩ませた。

「本当に姫様がお戻りになられてよかった……。昨晩、ティルダ様もお目覚めになられたんですよ」

トゥリカが考え込んでいる横でリタがそう言い、トゥリカはあっと顔を上げる。

「ティルダは本当に目覚めたのね?」
「はい。お身体に不調もなく。――姫様さえよろしければ今から会いに行かれますか?」
「ええ。もちろんよ」
「かしこまりました。では、少々お待ちくださいませ。まずは陛下に姫様が帰られたことをご報告して参ります」

リタはそう言って深々と頭を下げた。
楚々として部屋を出て行くリタを見送り、トゥリカは大きく息を吐き出した。

「本当に、私は帰ってきてしまったのね」

あれほど望んでいたティルダの目覚めが実現し、自分も無事に宮殿に帰ってきたというのに、トゥリカの心は暗く、薄い雲に覆われているようだった。

* * *

トゥリカを帰らせた翌朝。テオはいつものように水盤の前に立っていた。
慣れた手つきで水の表面に指を滑らせる。

「やっぱりこっちの方が僕の性には合ってるんだな」

水面に浮かんだトゥリカの姿を見て、テオは小さく呟いた。
ちょうど、そこへ部屋の扉を叩く音が響く。
トゥリカがいない今、この部屋を訪れるのはフランツただ一人だ。
テオは空中で円を描くように指先を回した。すると、扉がひとりでに開く。

「なにか用?」
「あのさー、トゥリカがいないんだけど――……って、帰したの?」

勢いよく部屋の中に入ってきたフランツは、テオを見て、そのあと水盤を見て瞳を一杯に見開いた。

「なんで? 仲良くしてたんじゃないの?」

フランツが水盤を挟んだ向こう側に立って、こちらを睨みつけてきた。
しかし、その表情は怒りというよりも寂しげに歪んでいた。
テオはこれみよがしにため息をついたあと、水面に指を滑らせて映っていたものを消す。

「水盤越しじゃない本物の近くにいてわかったんだよ。彼女のそばは居心地が良すぎる。長く一緒にいればその分手放せなくなっちゃうからね。彼女にはもっと相応しい相手がいるはずさ。悪い噂しかない魔術師よりも、ね」

テオはそう言って、フランツから視線を外した。

「まさかとは思うけど、俺が前に釣り合いがどうこうって言ったこと気にしてんの?」
「違うよ。暗示を使って彼女の気持ちをこちらに向かせても虚しいだけだって気づいたんだ」

テオがそう答えた直後、部屋の中にやかましい金属音と水がこぼれる音が響き渡る。
フランツが水盤を台の上から払い落としたのだ。

「だったら自力で振り向かせりゃいいだろ!」

フランツの怒鳴り声を耳にしながら、テオは床に転がった水盤を拾い上げた。
そして、フランツと真っ直ぐ目を合わせる。
フランツはきつく眉を寄せ、微かに肩を震わせていた。

「――あんたは結局自分の心が一番大事なんだな。術を使わない状態で拒まれるのは怖いんだろ? あんたの気まぐれに振り回されたトゥリカがかわいそうだ」

フランツがそう言って、きびすを返した。
部屋を出て行くフランツの背中を束の間見つめ、テオは密かにため息をついた。

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