夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

26 水盤の向こう側

水の表面に映し出された光景を見て、息を呑む。
ゆらゆらと揺れる水面にティルダの寝室の景色が広がっていた。
天蓋付きの寝台の帳の向こうで人影が動く。
ゆっくりと内側から、花の刺繍が施された帳が開けられ――。

「ティルダっ」

トゥリカは小さく叫んで、自分の口元を両手で覆った。
布帛の向こうから顔を出したのは紛れもなくティルダだった。
不思議そうに、戸惑った様子で辺りを見回すティルダの表情の一つ一つがはっきりと確認できて、トゥリカは目頭が熱くなるのを感じた。

「幻じゃないのね?」
「昨日あたりから彼女の身体から発せられる魔力が弱まってきていたからね。そろそろだと思ってたんだ。――早く帰って、その目で確かめてごらん」

トゥリカが水盤に見入っていると、テオはその場から少し離れたところにしゃがみ込んだ。
水盤越しにティルダが立ち上がったところまで見届けたトゥリカはテオへと視線を向ける。

「ずっとティルダのことを見ていてくれたの?」

テオの言葉が前からティルダを見ていなければ知り得ない内容だったので、トゥリカはそう訊ねた。

「…………贖罪のつもりでね」

テオが床に――都の路地裏で見たものに似ている――魔法陣を描きながら答えた。
トゥリカは贖罪という単語に首をひねるが、それ以上に自分を帰そうとしているテオの行動を悟って慌てた。
テオが立ち上がり、トゥリカの腕を引く。

「はい。ここに立って」

あまりにも急すぎて、トゥリカは咄嗟にテオのローブの裾を引っ張った。

「私、まだあなたに訊きたいことがあるわ」
「全部、話したよ」

テオはそう言って、ローブの裾からトゥリカの手をそっとほどいた。

「でも、移動の魔法はあなたが一緒でなければ迷ってしまうのでしょう? 見知らぬ土地にたどり着くのは嫌だわ。それに、スープの作り方を教えてもらったばかりだし。これではフランツにもお別れが言えないわ」

トゥリカは必死に帰らずに済みそうな理由を探し、次々に口にした。
しかし、トゥリカの心情をよそに、テオは平然と笑うだけだ。

「迷うと言ったのは下らない欲求からついた嘘だよ。ちゃんと宮殿にたどり着けるから大丈夫。スープも帰ってから挑戦すればいい。フランツには僕から伝えておく」
「いやよ! まだ帰らない!」
「妹姫に術をかけた本当の人物の危険性を気にしているなら大丈夫だ。君に与えた核の加護は有効だ。君に危険が及ぶことはないはずだから」
「違うわ。そんなことで帰らないって言ってるわけじゃない」
「なら、真犯人が知りたいの? 残念だけど、僕は知らな――」
「違うったら! 私はただ……帰りたくないだけなの」

テオの言葉を遮って、トゥリカは大きく叫んだ。
そこで、ティルダのこととは関係なく屋敷に残りたいと思っている自分の心を意識する。

「ずるいわ。自分の気持ちだけ言うだけ言って――急にそんなこと聞かされた私の気持ちはどうなるの? こんな風に帰すくらいだったら最初から最後まで嫌な人でいてくくればよかったのよ。変に親切になんてしないで欲しかった」

トゥリカはテオを見つめて訴えた。瞬間、テオが表情をわずかにこわばらせうつむく。
それを見たトゥリカは望みを抱いて、もう一度口を開こうとした。
しかし、次に顔を上げたテオは瞳に冷たいまなざしをたたえていた。

「君は夕べのことを忘れた? このまま屋敷に残るって言うなら本気であの先を教えてあげるよ。それでも君は――」
「あなたはそんなことしないわ。本気なら昨日のうちに出来たことだもの。私を脅すためにそう言っているだけよ」
「――僕を見くびるな。もう何度も夢の中で君を穢してきたんだ。次は遠慮なんてしない」
「嘘よっ!」
「わからずやだね。だったら今すぐ帰りたくなることを教えてあげる。僕はね、お姫様。薔薇園で会った時、君にある暗示をかけた。君の心を姑息な手段で手に入れるためにだ。核の影響で不完全にはなってしまったけどね」

テオの低い声にその場の空気がぴんと張り詰める。
一瞬だけテオはせつなげに眉を寄せたけれど、その表情はすぐに笑顔の中に隠れてしまった。

「待っ――! どういう意味なのっ?」

トゥリカは叫んだが、テオが再び下を向いてしまい、トゥリカにはわからない言葉を唱えた。
直後、足下に描かれた魔法陣がほのかな光を発し始める。

「宮殿に戻ったら、きっと君は僕に二度と会いたくないと思うはずだよ」

テオが最後にそう言って、トゥリカに手を伸ばしてきた。

「いや! お願い! 私を帰さないで!」
「さよなら。お姫様……」

あっという間の出来事だった。
テオがトゥリカの額に触れた瞬間、目の前がまばゆい光に包まれた。
あまりの眩しさにトゥリカは目を開けていることも出来なかった。
最後に見えたのは、光の中で、眉を寄せて笑うテオの姿だった。

* * *

最初に、むせ返るような薔薇の香りが鼻先をかすめた。
霞む視界の中に、テオのとても優しい笑顔があった。
若草色の双眸を、トゥリカはぼんやりと見つめる。

『君の憂いを取り除いてあげるよ。少しの間、僕に会ったことは忘れておくんだ』

心地良いテオの声が鼓膜を震わせた。
まぶたが重くなる。
トゥリカは朦朧とする意識の中、テオの声だけに耳を傾けていた。

『僕が君の名を口にしたとき、眠らせた僕の記憶は甦り、君の心に深く刻まれる』

テオの言葉に、トゥリカは小さく頷いた。

『君の瞳は僕だけを見つめ、心は僕だけに捧げられる。彼への想いを消してしまえば、君はもう悲しまなくてすむよ』

テオの声が次第に遠くなっていく。

トゥリカは何か答えようと口を開く。

「――っ!」

直後、トゥリカの意識は覚醒した。

「夜をまとう魔術師」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く