夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

23 浅い眠り

昨日、なるべく歩み寄ってちゃんと話をしようと決意したばかりなのに、今日は朝から肝心のテオに会えず、トゥリカは焦っていた。
昨日も、何度かそれとなくティルダの話題を振ってはみたが、そのたびに体よくかわされてばかりだった。

屋敷に来て三日目。しかももう夕暮れ刻だ。
このままでは永遠にティルダに関する話し合いは進展しないのではなかろうか。
そんな不安がよぎったが、トゥリカは今日こそは、と屋敷の中をうろうろとさまよい歩いていた。
調理場を覗いたところでフランツを発見する。

「フランツ。魔術師がどこにいるか知ってる?」
「っ! ――さ、さあ? 知らないよ」

トゥリカが後ろからそっと声をかけると、フランツは明らかに驚いた様子で振り返り、そのあと、わざとらしく頭を傾けた。
フランツの態度にトゥリカはむっと眉を寄せる。
テオの居場所を知っているのでは?
最初はそう直感したが、フランツが必死な様子で調理台を背に隠そうとしているのを見て、考えを改める。

「なにをしていたの?」

トゥリカはずい、と前に進んでフランツの背後を覗き込もうとする。

「うわ、ちょっ! だめだよ。これは――」

フランツが慌てて両手でトゥリカを押しとどめようとしたが、トゥリカはかまわずに首を伸ばす。その拍子にトゥリカを制そうとしたフランツの肘が台の上にあった小さな硝子瓶に当たった。

あ、と思ったときには、瓶はまっすぐ床に落ちていた。硝子の割れる音が響き渡り、同時にふわり、と爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。

「やっちゃった……」

フランツが両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。

「この香り……」

トゥリカは、床に粉々に砕けて散っている、ほんの少し前までは小さな瓶であった物をじっと見つめた。破片と一緒に薄い紅色をした液体が小さな水たまりになっている。
液体から立ちのぼる香りには覚えがある。
寝台に入るときにほんのりと漂う香りと似ているのだ。

「フランツ。これと似た香りを部屋でも嗅いだわ」
「あーっと……。う、ん。君がよく眠れるようにって枕元に垂らしてあるんだ。特別調合の精油らしくて、この香りで朝までぐっすりなんだって。俺、最近夢見が悪いから、ちょっと拝借しようと思ったんだけど」

トゥリカの問いに、フランツはその場にしゃがみ込み、破片を拾いながら頷いた。
その答えに、トゥリカは眉を寄せる。

「どうして、隠そうとしたの? 別に見られて困る物じゃないでしょ?」
「うん、まあ。でも、君用のだから俺が勝手に持ち出したってばれるとテオに怒られるだろうから、つい、ね」

そう言ってフランツが苦笑した。
トゥリカはフランツの隣に膝を折り、自分も手伝おうと手を伸ばしたが、すぐにフランツに止められる。

「いいよいいよ。怪我するといけないし」
「じゃあ、箒かなにか持ってくるわ。どこに置いてあるの?」
「大丈夫だって。この程度ならひとりで出来るから」

頑なに首を縦には振らないフランツを見て、トゥリカは手伝うことは諦めることにした。だからといってその場を去ることも出来ず、壁を背にして腰を下ろし、立てた膝の間に顎を乗せ、綺麗に磨かれた大理石の床をじっと見つめていた。

「トゥリカはさ、テオのことどう思ってる?」
「え? どうって?」
「だから、好きとかちょっといいな、とか」

あらかたの破片を拾い終え、フランツは近くの物入れから箒を出してきてそう言った。

「大嫌い……だったわ」
「だった?」
「今は、少しわからなくなってる。妹にひどいことをした人だもの憎いはずなのに。大体、おかしいのよ。彼にとっても私は邪魔な存在のはずなのに、食事やドレス、この精油だって……なんのためにしてるのかわからないわ」
「邪魔ってことはないと思うけどなー。テオは君のことを――んーと、信用してるしさ。この精油も、俺が寝首をかかれたら困るから用意したんじゃないのかって言ったら、テオははっきりと彼女はそんなことしないって言ったし。純粋に君の身体を気遣ってのことだったよ」

テオの言葉を聞き流しかけたトゥリカだったが、ある単語が鼓膜にこびりついたように響いた。

(寝首……)

心の中で呟いた直後、トゥリカは勢いよく立ち上がる。

魔術師とはいえ一日中起きているわけではないだろう。普通に考えれば、朝起きて夜には寝る。どんな人物だって、寝ているときはある程度無防備になっているはずだ。

(そうだわ。話を聞いてくれないなら、聞かせればいいのよ)

胸の前で両手を握りしめ、トゥリカはそっと頷いた。
そんな様子を不思議に思ったのだろう、フランツが小首をかしげる。

「トゥリカ、どうかした?」
「いいえ、なんでもないわ。あの、私、部屋に戻るわね」
「うん……」

トゥリカは決意を胸に秘め、フランツに告げるとそそくさとその場をあとにした。



その夜、トゥリカは寝台ではなく長椅子の上で身体を丸めて眠ることにした。
眠りを誘う精油にどの程度の範囲まで効き目があるのか確かめるためだ。
香りがないことに加え体勢が安定しない場所だからか、トゥリカはその晩寝付きが悪く、夜中に何度も目を覚ますことになった。

* * *

滞在四日目の深夜、トゥリカは調理場から拝借してきた調理用ナイフを手に、二階へと続く階段を昇っていた。早まる鼓動を意識しながら、一段、二段と足を進めていく。しんと静まった屋敷の中で、自分の鼓動の音ばかりが響いているような気さえしていた。
明かりとりの天窓から差し込む月明かりに照らされ、短い直刀の両刃が冷たい輝きを放っている。

階段を昇り終え以前教えられたテオの部屋の前まで来ると、トゥリカは汗ばむ手でナイフの柄を握り直し、目の前の扉を見据えた。そして、一度まぶたを閉じ決意を固めて扉の取っ手に手をかけた。

自分が通れるだけ扉を開けて、物音を立てぬよう中に忍び込む。なにかあった場合、すぐに逃げられるよう扉は閉めないまま、一歩前へと進んだ。

部屋の中は真っ暗だ。窓掛けは全て閉まっていて月明かりの差し込む隙もなく、蝋燭一本の明かりもない。

トゥリカは闇の中、息を殺してじっとしていた。
次第に目が暗闇に慣れてくると、部屋の中の様子がおぼろげにわかってきた。テオの部屋は調度品が少なく、よく言えば機能的、悪く言えば質素であった。
部屋の奥の壁際に寝台を見つけ、足音を忍ばせて近づく。

天蓋がついているわけでもない飾り気のない寝台。ごく間近まで行くと、白っぽい上掛けが人の形に盛り上がっている。
トゥリカは意識的に唇を引き締めて、寝台の上の人物の顔を覗き込んだ。
テオが長いまつげを伏せ静かな寝息を立てている。目を覚ます気配はなさそうだ。
ふと、魔術師を討てば術が解けるかもしれない――とオルフが言っていたことを思い出した。

(今なら――)

見る限りテオは完全に寝入っている。そして、今の自分には相手を死に至らしめることが出来るのだ。今ならば説得にこだわらずともティルダを助けることが可能なのだ。
トゥリカはナイフをテオの喉元に狙いを定めて振り上げるが、カタカタと音を立てそうなほど手が震えた。
この腕を振り下ろしさえすれば一瞬で終わる。

トゥリカは震えを堪えるために息を詰めた。

(私はもともとティルダを助けるためにここに来たのよ)

そう何度も自分に言い聞かせたが、トゥリカはそれ以上先に進むことは出来なかった。
腕をおろし、その場に立ちすくむ。

(無理だわ。出来ない……)

生まれてから一度として他者の命を奪ったことなどない。それに加えてトゥリカを引き留めたのはフランツの言葉。そして、トゥリカを信用している風に語ったというテオの言葉だった。

『テオは君のこと信用してるしさ』
『彼女はそんなことしない』

そんな風に言われてしまったら、この場にいることにすら罪悪感を覚えてしまう。
ティルダを助けると口ばかりで結局なにもしていない。

(最低ね……)

小さくため息を吐き出したあと、トゥリカは自分用にあてがわれた部屋に戻ろうときびすを返した。そこで、誰かにナイフを持つ腕を掴まれる。
喉の奥から悲鳴を上げかけるが、この場に自分とテオ以外誰もいないことを理解し、後ろを振り返った。

寝台の上で上体を起こしたテオと目が合う。空いた片手で気怠げに前髪をかきあげながら、観察するようなまなざしを向けてくるテオの瞳は、闇の中だからかいつもの若草色よりも暗い色合いに見えた。
トゥリカは口内が乾く感覚を味わいながら言い訳の言葉を探した。
しかし、

「こんな時間にご訪問とは珍しいね」
「――っ!」

テオが淡々とした口調でそう言い、トゥリカの腕を掴む指先を握りしめる。
痛みを感じるほど大げさなものではなかったけれど、手首に与えられた圧迫にトゥリカは顔をしかめた。その拍子に手にしていたナイフが床に落ち、金属音が闇に包まれた室内に吸い込まれるように響いて消えた。

「は、はなして!」

テオの腕をふりほどこうともがくも拘束は緩まない。それどころか、テオが軽く腕を引っ張ったものだから、体勢を崩しその場に膝をついてしまった。

「お姫様ともあろう者が夜這い? はしたないね」
「違うわっ! 私は――」

寝台の上に片膝を立てこちらを見下ろしてくるテオの言葉に、トゥリカは声を荒げ、そのままテオを睨みつける。

「そうだね、違うよね。だけど、せっかくの機会だったのにどうしてなにもしなかったの? ここを一突きするだけのことだよ……」

テオはそう言いながら、空いた手で顎から喉の辺りを指でなぞる。
その態度から、トゥリカはテオが今まで眠ってなどいなかったことを理解した。

「ちょっと特殊な商売をしてるからね。侵入者には敏感なんだ。さて、頼みのナイフはもうないよ。こんな状態になってさっき手を下しておけば良かったって後悔してる? それとも計画を変える? ――僕を陥落させるだけなら刃物なんて必要ない。君の身体一つあれば出来ることだよ?」

そう言ったテオは夜の静寂を思わせる穏やかな笑みを浮かべ、掴んでいたトゥリカの腕をさらに引き寄せ、その指先に唇を寄せる。
包帯がとれたばかりの右手の中指に口づけが落とされ、トゥリカはテオの所作一つ一つから目が離せなくなった。

柔らかそうな彼の髪は今は青みがかって見えずわずかに乱れ頬にかかっている。普段、襟元まで詰まったローブ姿ばかり見ているせいか、黒い夜着の胸元に覗く浮いた鎖骨がやたらと目についた。顔だけ見ると中世的な雰囲気であるが、顎から首筋にかけての線は女性のような円みを帯びたものではなく、はっきりと男を認識させる造形だ。ぞくりとする戦慄めいた色気すら感じさせる。

瞬間、トゥリカはテオの言葉の意味を漠然と悟り身をよじった。すると、予想外にあっさりとテオが手を放す。
トゥリカはすぐさま立ち上がると扉に向かって走り出す。時間にすれば数度瞬きをする程度の短い時間だというのに、ひどく長く感じられた。

「妹を助けたいって言っている割りには覚悟が足りないんだね」

トゥリカが扉にたどり着いたところで、テオの声が空気を震わせた。
悔しさで唇を噛みしめ、トゥリカは後ろを振り返る。
テオは変わらず寝台の上に座ったまま、微笑を浮かべていた。

言われた通りだ。
手を汚すことも、身を挺すことも出来ない。
我知らず身体が震える。

「あなたなんて、やっぱり大嫌いだわ!」

トゥリカは言い返す言葉が見つからず、やけくそになってそう叫んだ。

「君はもう王宮に帰った方がいいよ――ここにいても無駄だ」

きびすを返したトゥリカの耳にテオの声は届いたけれど、トゥリカはもう振り向きはせず、足早にその場をあとにした。

トゥリカの心はテオの仕打ちによって痛手を負っていた。本音を言えば、二度と顔を合わせたくないというところだ。
部屋に閉じこもることや言われたとおり逃げ帰ることも考えた。しかし、それを実際に行動に移してしまったら本当の意味でなにもかも終わってしまうこともわかっている。だからトゥリカは部屋に戻ってから朝まで悩み続けた。

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