夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

16 魔術師の手

「血を見せるのは気が引けるからね。彼女に感謝しなよ? この程度で済んだことをさ」

いったいなにが起きたのか。
トゥリカは目の前に立つテオの背中を見つめた。
まるで一陣の風が味方したような光景に言葉を失ってしまったのだ。
テオは小柄ではないけれど、体格が良いというわけではない。それに、オルフに対峙したときのように魔法を使ったようにも見えなかった。この目で見ても、彼が大男を一瞬で蹴散らしたなどとても信じられなかった。いったい、この身体のどこにそんな力があったのだろうか。

「やあ、お姫様。大丈夫?」
「っ!」

あまりにも真剣に観察していたせいで、テオが近づいてきたことに気づくのが遅れた。
真正面にしゃがみ込んだテオが、ごく間近で顔を覗き込んでくる。
ベール越しにとはいえ、今にも触れ合いそうな至近距離。トゥリカの胸はどくんと脈打った。
生まれてから一度も、異性の顔がこんな近くにあったことはない。反射的にそっぽを向く。

「こんなところで会うなんて偶然だね」

トゥリカの態度に少しも動じない様子で、テオはそう言った。
その言葉にトゥリカは眉根を寄せる。
なんて白々しい男なんだ。この再会はたまたま居合わせただけではない。きっとなにかの魔術で自分の行動を探ったに違いない。
トゥリカは言い返してやろうと、様々な言葉を思い浮かべたが、そのどれも声に乗せることはできなかった。
カタカタと身体が震え、口がうまく動かなかったからだ。

「あー、そうだね。怖かったよね。まったく無茶なことをするね君は。でも、よく頑張ったよ」

ぽんぽん、とテオの手がトゥリカの頭に触れた。
ベールの上から撫でてくる手の平はとても優しく、トゥリカはその心地よさに思わず流されそうになる。
しかしすぐに我に返りテオの手を払いのけた。

「やめて。私はあなたと馴れ合うために来たのではないわ」
「でも、僕に会うために来てくれたんだよね?」
「そ、それは……。あ、当たり前でしょう! ティルダにかけた術を今すぐ解いてちょうだい」

トゥリカが声高に言うと、テオは困ったように眉を寄せて首を横に振った。

「色気がないね。こういうときは泣いてすがるくらいしてもいいと思うんだけどな――」

テオが言葉の途中で表情をこわばらせた。
トゥリカは不思議に思ってテオの顔色を窺う。彼はうつむき加減で黙りこんだままだった。

「なに?」
「これ、どうしたの? こいつらにやられたの?」
「え?」

テオの言葉に、トゥリカは彼の視線の先を追った。
すると、そこには自分の右手があった。
中指に巻いた手布にはうっすらと赤い染みが出来ている。痛みはもうほとんどなかったから、巻いたときについた血だろう。

「ちょっと爪を引っかけてしまっただけよ。あなたが気にするようなことじゃないでしょう」

じっと見られているのは落ち着かず、トゥリカは右手を隠しながら答えた。どんな些細な弱みも、この男には見せてはいけない気がしたのだ。
しかし、テオはトゥリカの腕を取り、巻いてある手布を強引にほどいた。
その拍子に浮いた爪が動き、トゥリカは指先に走った痛みに顔をしかめる。

「全然ちょっとじゃない。爪、はがれかけてるよ」
「平気よ。眠ったままのティルダの苦しみに比べたら大したことないわ」
「妹姫を想うのは良いことだけど、だからって怪我をそのままにしていいわけじゃない。我慢をすることと強いことは別物だよ。君は王女様とはいえひとりの女の子なんだからね」

諭すように言ったテオに、トゥリカはむっとする。

「ほらほら、そんな怖い顔しないで。まずは移動しようか?」

テオはトゥリカの視線に気づいたのか、そう言ってくすくすと笑った。そして、立ち上がると、トゥリカに手を差し出してくる。

「自分で立てるわ」

トゥリカはそう短く言い捨て、テオの手は取らずに自力で立ち上がった。
そこで気づく。
いつの間にか、身体の震えが止まっていることに。

(もしかして、さっき……)

トゥリカはちらりとテオを見た。
先刻、頭を撫でたときになにかの術をかけてくれたのかもしれない。

(なに考えてるの、私ったら……。そんなことされたってありがたいなんて思わないわ)

蝋燭の炎が灯るように胸の内に浮かんだ感情を、慌てて否定した。
そこで、自分はテオに悪漢から救ってもらったことの礼を言っていないことを思い出す。

(でも、相手はティルダをあんな目に遭わせた男なのよ)

礼儀として言うべきものなのだとわかってはいたが、言葉は素直に出ては来なかった。

「この人たちをそのままにしておくの?」

トゥリカは礼の代わりに、辺りに倒れている男たちの安否を訊ねた。すると、テオは不思議そうに目を丸くする。

「君に害をなそうとした奴らの心配なんてする必要ないと思うけど?」
「でも、そこまでひどい人たちではないと思うわ。最初に会った時は注意もしてくれたし」

トゥリカはそう言って、腰元に下げた小袋を握った。
この事態は、きっと自分の不用意な行動が招いたのだ。金貨を出したのは無意識だった。純粋に礼のつもりだったのだが、その行為がかえって男たちの欲を呼び起こしてしまったのだろう。危機感が足りなかったのだ。
トゥリカは反省してしゅんとうなだれた。
と、そこへ、

「こいつらは大丈夫だよ。致命傷になる怪我はしてないし、そのうち勝手に目覚めるはずさ。安心した? なら――僕の手を掴んで」

テオが手を伸ばしてきた。トゥリカは警戒をあらわに、身体を少し引く。

「ダメだよ。ちゃんと掴んでいてくれないとはぐれちゃうからね」

そう言って、テオが家屋の壁を示した。
促されるまま視線を動かすと、壁の表面に文字と線で構成された絵のようなものが描かれていた。ティルダの居室で見たものと似ているものだ。

(魔法陣ってやつかしら?)

ティルダの居室ではあまり意識して見ていなかったのだが、今回はしげしげと魔法陣を観察した。
いったいなにを使って描いたのか、文字や線はほんのりと淡い光を放っていた。

「なにをする気?」
「移動するだけだよ。早くしないと道が歪んじゃうから、ほら、おいで」

拒む間もなく、トゥリカは腕を掴まれた。

「ちょっ――」
「大丈夫。僕は絶対離さないから」

テオの声が聞こえたのとほぼ同時、掴まれた腕の先からぞわりと何かが這い上がってくるような感覚に襲われ、咄嗟に目をつむった。
空を歩けたとしたらこんな感覚なのだろうか。腕を引かれるまま足を進めても、そこに地面はない。ふわふわとした浮遊感の中で、トゥリカは怖くてずっと目が開けられなかった。

「もうすぐだよ」

すぐ近くでテオの声が聞こえ、トゥリカは恐る恐るまぶたを上げた。
しかし、視界は真っ白な光に覆われ、その眩しさから再び瞳を閉じざるを得なくなってしまった。

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