夜をまとう魔術師

牛乳紅茶

3 薔薇の園

トゥリカは薔薇園の前まで来ると、立ち止まり、ぎゅっと握りしめていたドレスの裾を放した。
蔓薔薇が巻き付いたアーチをくぐり抜けると、むせ返るほどの薔薇の香りが鼻腔をついた。
トゥリカは荒くなった呼吸を整えるため大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。
そのまま、深呼吸を何度か繰り返すうちに、せわしなかった鼓動は次第に落ち着いていった。
しん、と静まりかえった薔薇園にはトゥリカ以外誰もいないようだ。
歩を進める度、ドレスの裾が芝生を擦る音が耳にやけに大きく届いた。

「ティルダだったら、あんなおぞましいこと考えたりしないわ」

そう小さく呟き、トゥリカは薔薇園の中程で歩みをとめる。
暦は四の月になったばかり。花の節と呼ばれるだけあって、色鮮やかな薔薇がそこかしこに咲きこぼれている。葉や花弁についた朝露が、明るい光に反射して小さな宝石のように煌めいていた。
物言わぬ花たちは、トゥリカの言葉に答えは返さない。
ごく近くにある赤い薔薇に手を伸ばし、柔らかな花弁の縁に沿って指を滑らせる。

「好きになってもらえなくて当然ね」

こぼれ落ちた自虐的な言葉に唇が震える。
途端、急速に鼻の奥がつんと痛み、嗚咽がこみ上げた。視界は涙でにじみ、目の前の薔薇が歪んで見える。

「――見事な薔薇だね」
「っ!」

唐突に、背後から男の声が聞こえた。
トゥリカは身体をこわばらせ、慌てて自分のまなじりを指で拭う。幸い涙はこぼれるほどではなかったので、数回瞬きをしてから後ろを振り返った。

薔薇園の入り口にあたるアーチの下に男が一人立っていた。
今し方の声は彼が発したものだろう。けれど、男の視線はトゥリカにではなく、咲き誇る薔薇へと向けられている。
トゥリカは目が合わないのををいいことに、ぶしつけと思いつつも男をじっと観察した。
十七、八歳くらいだろうか。自分とそう変わらない年頃の青年だ。

青みがかった闇色の髪はうなじを隠す毛先にいくほど青色が強く出ていて、まるで星々が瞬く夜空を思わせる神秘的な色合いである。トゥリカの位置からでは見えにくいが、その顔立ちは横顔だけでも端正な造りだとわかった。
そうしてトゥリカが見つめていると、青年はゆっくりとこちらへ向き直った。
青年の顔を正面から見た瞬間、トゥリカははっと息を呑んだ。
少し長めの前髪に隠された優美な弧を描く眉。萌え出たばかりの新緑のような色をした双眸。すっと通った鼻筋。思わず笑みを請いたくなる形の良い唇。

どれもが完璧だ。
視線を動かされただけで、魅惑されてしまいそうになる美貌であった。

「おはよう。いい朝だね」

トゥリカが見惚れていると、青年はそう言ってにっこりと微笑んだ。

「ここの薔薇は素晴らしいね。一輪手折ってもかまわないかな?」
「……ええ」

トゥリカは答えながらも、青年をいぶかしく思いわずかに眉根を寄せた。

自分は、王女だからといって相手に高圧的な態度をとるつもりはない。けれど、青年の口調は初対面の相手と話すにしては少々遠慮がなさ過ぎるように感じる。

「あの、失礼ですがあなたは?」

もしかしたら、ティルダの式に招待されたさる高貴な家の方かもしれない。トゥリカは思って恐る恐る訊ねた。

「ああ、そっか。まだ言ってなかったね」
「……?」
「僕はテオ。ティルダ王女の結婚が決まったそうだね」

青年――テオは口元を穏やかな笑みの形にし、薔薇の方へと向いた。

「では式にいらっしゃったのですね。ティルダもきっと喜びますわ。ありが――」

テオの答えにトゥリカは笑顔を作った。しかし、テオの随分と上等な身なりが目に入った途端、違和感を覚え表情をこわばらせる。
金糸の刺繍が施された上衣や肩章、彼が傍らに抱えているローブらしきものなど、どれも一級品に見える。しかし、一国の王子や貴族の子息の衣服や装身具に必ずあるものがない。家を示す紋章だ。
ぞくり、とトゥリカの背中を悪寒が走った。
テオが近くの赤い薔薇へと手を伸ばすのを見つめたまま、トゥリカは一歩後じさった。

視界の中で、テオがいささか乱暴にも見える仕草で薔薇の花を手折りこちらを向いた。
再び目が合い、トゥリカは逃げ出したい衝動に駆られた。
彼の双眸に暗い輝きを見た気がしたのだ。

どん、と背中が薔薇の茂みにぶつかる。逃げ場がないことを悟り、身体が無意識に震えた。目の前にいる美貌の青年がいったい何者なのかはわからなかったが、だからこそ、その得体の知れなさに恐怖を覚える。

「急に黙ってしまったけど、どうかした?」

テオは手折った赤い薔薇を指先でくるりと回し、トゥリカに一歩二歩と近づいた。

「あ、あなた、何者なの? 人を呼ぶわよ」

懸命に声を振り絞り、テオに訊ねる。
しかし、テオは答えるそぶりは見せず、トゥリカに薔薇の花を差し出した。

「ねえ、君は妹姫を憎んでる?」
「なっ!」
「好きなんだよね? 妹姫の結婚相手」
「ふ、ふざけたことを言わないで」

トゥリカはテオから視線を外しそう言い放った。

「ふざけてないよ。僕なら君の願いを叶えてあげられる。薔薇の花には人の心を操る力があるんだ。この薔薇園に咲いているような良い薔薇には特にね」
「だからなんだというの。私にはあなたがなにを言ってるのかわからないわ」
「さっき僕が何者かと訊いたよね」

テオが微笑する。
口元だけは笑みの形になっていたが、若草色のその瞳は笑っていない。冷たく、鋭い視線にトゥリカは我知らず呼吸を止めた。

「僕は人々から〝塔の魔術師〟と呼ばれてる」

テオの言葉を耳にした瞬間、トゥリカは目の前が暗くなる錯覚に陥った。

「なにを、言っているの?」
「この国に住んでいれば必ず耳にする噂の主だ。君も知っているよね?」
「やめてっ!」

トゥリカは必死に足下を意識し声高に叫んだ。そうでもしなければその場に立っているのがやっとだったのだ。負けるものかとテオをしっかりと見据える。

「あなたが魔術師ですって? 信じられないわ。だってあの塔の話はもうずっと昔から噂されているのよ。あなたでは若すぎる」

正直、今更貴族だと名乗られる方が信じられなかった。むしろ魔術師だと告げられた方が真実味がある。しかし、信じたくない、という気持ちからトゥリカは強がってそう口にした。
すると、トゥリカの反論が意外だったのか、テオはきょとんと目を見開いたあと、いかにも無害そうにくすりと笑みをこぼした。

「なるほど。そうだね。僕の見た目は君とそう変わらない。信じてもらえないのも仕方ないか」

テオがそれまで差し出していた薔薇を引っ込め、優雅な仕草で腕を組む。

「それじゃあ、もしもってことにしよう。もし僕が本当に塔の魔術師だったとしたら、君はなにを願う?」

軽く小首をかしげて訊ねてきたテオに、トゥリカは一瞬だけ言葉を詰まらせた。

「わ、私はなにも願ったりしないわ」

はっきりと告げたつもりだったが、わずかに声が震えた。

「彼の心が欲しいって、ほんの少しも考えなかった?」
「そんなこと考えるわけがないでしょう!」
「ふぅん……。本当に? 想いが報われないと知っても毎日毎日恋い焦がれていたのに? 今だって、独りで泣くほど諦められないのに?」
「っ!」

トゥリカが言葉を失うのとほぼ同時。周囲の薔薇の芳香が急激に強くなった気がした。
直後、トゥリカの視界は白く霞み、くらりと眩暈がした。

何かされたのだ、と直感的に思う。

テオを睨もうとしたトゥリカだったが、足下がぐにゃりと沈んだような気がして、その場に膝をついてしまった。

「おっと。大丈夫?」

すぐにテオが手を差し伸べてきて、トゥリカの肩を抱いた。
トゥリカは嫌悪感をあらわにその手を振り払おうとしたが、思うように身体が動かない。
目の前があっという間に白い光に包まれる。

「やめて……ティルダには幸せに……」
「君の憂いを取り除いてあげるよ。少しの間、僕に会ったことは忘れておくんだ――」

耳元でひどく優しげな声が聞こえた。
内容まで理解できなかったトゥリカだが、懸命に自分の気持ちをテオに訴えた。

「おやすみ。お姫様」

薄れる意識の中に誰かの声が溶け込むように消えた。
トゥリカは眠りの渦に落ちていった。

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