時忘れの森

牛乳紅茶

第三十六話

グレティアは母に手短に状況説明するとその手を引いて部屋を飛び出した。
途端、焦げ臭さを感じて思わず口元を押さえる。

「まさか……」

天井を見上げると、微かではあるが煙が漂っていた。
もしかしたらルステンが家に火をつけたのかもしれない。
外にいる村人達も事態に気づいたのだろう、口々になにか叫んでいるようだった。

「グレティア。どうしたらいいの?」
「大丈夫。裏にブラフィーさんがいるって言ってた。お母さんは先に行って。すぐに追いかけるから」
「本当に大丈夫なの?」
「絶対行くから。お願い。とにかく裏口から外に出てブラフィーさんに会ってね」

おろおろとする母を裏口へと促して、グレティアはシャルヴァの元へと走り出した。
部屋の前まで行くと、そこに先刻までいたルステンとリバルトの姿はなかった。かわりにおびただしい血溜まりと、それを引き摺った跡だけが廊下にくっきりと残っている。
グレティアはそれらから目を背けると、廊下の隅で、壁に背中を預けたままぐったりしているシャルヴァに駆け寄った。

「ごめんなさいっ。遅くなって。――つらいでしょうけど、あと少しだけ頑張って歩いてちょうだい」

シャルヴァの身体を背負うようにして持ち上げようとしたが、予想以上に逞しい身体を担いで運ぶことは難しかった。

「お願い。しっかりして!!」

もうもうと煙が立ちこめ始めている。このままでは村人たちに捕まる前に焼け死んでしまう。

「シャルヴァっ!!」

声を張り上げてその名を呼ぶと、ようやくシャルヴァが反応した。

「――……俺のことはいい。早く逃げろ」
「誰が置いてくもんですか! 一緒に逃げるのよ。ふざけたこと言える余裕があるなら歩いて。お願いだから。あとでいくらでもひどい女だって罵ってくれていいから」

シャルヴァの発言に心底腹を立て、グレティアは怒鳴った。

「活力でも感情でも記憶でもなんでもあげるから少しはやる気出して!」
「だから、怪我が治ったばかりの今のお前から奪える活力はな――」

疲れ果てた様子で視線だけ動かしたシャルヴァがそこで言葉を切る。

「なに?」
「――驚いたな。活力が戻ってる。なにをした?」
「なにもしてない。きっと私は人よりも生き意地汚いのよ。とにかく、戻ってるんなら取っていいから、早くっ!」

グレティアはすぐさまシャルヴァの胸ぐらを引っつかむと勢いに任せて口づけた。
雰囲気もなにもあったものではなかったが、今はそれどころではない。
今度こそ重なった唇から力を奪われていることが実感できた。
膝が震え、その場に崩れ落ちそうになる。
しかしグレティアが硬い床に転がることはなかった。
シャルヴァの腕がしっかりとした力強さでグレティアの腰を支えたからだ。
それは肩に怪我を負っていたはずの左腕だ。

(よかった……)

グレティアは心の中で呟き、ほっと安堵した。
そんなグレティアの心情が伝わったからなのか、シャルヴァが顔を離そうとする。

「まだよ。道をつなげられるくらい取って……」

しかし、グレティアはシャルヴァの背中に腕を回し、離れそうになる身体を引きとめた。

「おい――。そんなことしたら意識を保てなくなるぞ」
「私が気を失ってもあなたが連れて行ってくれるんでしょ?」
「それはそうだが……。一日二日じゃ目覚めないかもしれないぞ」
「それでもいいから早くして。外にお母さんとブラフィーさんがいるの。二人も一緒に村から遠く離れたところに連れて行って」

グレティアは新しい空気を吸い込むと、シャルヴァの赤く輝く瞳をじっと見つめた。

「ずっと思ってたことがあるの。――あなたの赤い瞳。とっても綺麗ね」

唇が触れ合うギリギリのところでそう囁くと、シャルヴァがほんの少しだけ笑ったように見えた。

それがグレティアが覚えている最後の映像だった。

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