時忘れの森

牛乳紅茶

第三十五話

グレティアは喉の奥で悲鳴を上げ、シャルヴァの腕を強く掴んだ。

「いいな? 頼むから逃げてくれ」

しかし、シャルヴァはそんなグレティアの手をそっとふりほどくと、ふらつきながらも立ち上がった。そして、そのままリバルトへと向かっていく。

「そんな身体でなにをしようっていうんだよ」

短剣を振り上げたシャルヴァの行動にリバルトが身構えた。

「シャルヴァ――!! もういいからっ! お願い、やめてっ!!」

ぼたぼたと音を立てて床に跡を残す、おびただしい血液にグレティアは泣きそうになって叫んだ。
目の前にいるリバルトや外にいる村人たちよりも――。自分がこれからされるかもしれないどんな仕打ちよりも、今、シャルヴァが動かなくなってしまうことがなによりも怖かった。
グレティアがシャルヴァの無事を願ってきつく手を組み合わせたそのとき、廊下の先から誰かが凄い勢いでリバルトの背後に突っ込んできた。
突然のことに目を見張ったグレティアだったが、次の瞬間、さらに驚くことが起きた。

「っ――!!」

リバルトが顔を歪ませ苦しげにうめき、その場に膝をついたのだ。

「――ヒケル先生っ!?」

床に崩れ落ちたリバルトの背後に見知った人物の姿を見つけグレティアは口元を両手で覆った。シャルヴァも同様になにが起きたのか一瞬理解できなかったのだろう、その場に呆然と立ちすくんでいる。

「グレティア。大丈夫だったか?」

肩を激しく上下させながら、ルステンは荒い息にのせてそう言った。その手にはリバルトが持っていたそれよりも大ぶりな剣が握られており、刀身はべっとりと血で汚れている。

「先生、どうして……?」

ルステンがなぜ実の息子を手にかけたのかグレティアにはわからなかった。
言葉を失ったグレティアをじっと見つめたまま、ルステンは握っていた剣を放した。高い金属音を立てて血に濡れた剣が床に落ちる。

「私がもっと早くリバルトを止めていればこんなことにはならなかったんだ。許してくれ、グレティア……」

そう言ったルステンがだらりとその場に座り込んだ。
グレティアは項垂れたルステンを視界にとどめながらも、シャルヴァのそばへと歩み寄った。青白い顔をしたシャルヴァをその場に座らせ、その手から短剣を抜き取る。そして、その短剣で自分のスカートを大きく引き裂いて幅広の紐状にし、それを使って肩の傷よりも上の位置をきつく締め上げて止血した。

「ここ、ちゃんと押さえていて」

そのあと、グレティアはシャルヴァの手を傷の上に持っていき、そう念を押した。
声を出すのもつらいのか、シャルヴァはグレティアの言葉に対して小さく頷くだけだった。

「――先生は知っていたんですか? リバルトが赤拷を使って人を襲っていたことを」

シャルヴァの安否を確認したあと、グレティアは改めてルステンへと視線を戻して問いかけた。先刻のルステンの言葉は、リバルトの凶行にずっと以前から気づいていたことが窺われるものだったからだ。

「……ああ。知らない商人と話している姿を何度か見ておかしいと思っていた。最初の赤拷の被害者が出たときも、私が頼んでいない連甘草をこの子は持ってきた。しかし、疑いながらも怖くて確かめることができなかったんだ」
「そんな……。ひどい……」
「君のお母さんをあんな目に合わせてしまって本当にすまなかった」

低く頭を下げるルステンを見つめたまま、グレティアは唇を噛んだ。
まさか、あんなにも母のことを気にかけてくれていたルステンが全てを知りつつ自分を偽っていたとは思いもしなかった。

「この子は母親を早くに亡くしてからずっと人の気を引こうとしてばかりだった。必死で人に褒めてもらおうとしていた。それが行き過ぎてしまったんだ」
「だからって――」
「わかってる。許されることじゃない。――本人は気づいていないかもしれないがリバルトは君に固執していた。同じように片親を失いながらも、他人の顔色を窺わずにまっすぐに相手の顔を見る君に憧れていたのかもしれない。だからこそ君に森の話をしたんだ。誰かを救うために懸命に動く君の姿を見ればなにかが変わると思った。しかし――」

事態は悪化しただけだった。
ルステンは吐き捨てるように呟き、どんと床に拳を叩きつけた。

「先生……」

グレティアはかける言葉が見つからず思わずルステンから視線をそらした。
リバルトやルステンの事情を聞いたところで、母にされた仕打ちを許す気持ちにはどうしてもなれない。少なくとも今は。

「ロレンツから君たちが村の皆に追われていると聞いて急いで来たんだ」

ルステンが震える腕を伸ばし、床に横たわったリバルトを抱き寄せた。
リバルトはか細いながらも浅い呼吸を繰り返しており、その口元は血で汚れていた。

「裏でロレンツが待っている。早く逃げなさい」

顔を上げたルステンがはっきりとした口調でそう言った。

「あとのことは私にまかせてくれ。生まれ育った村を追い出すような形になってしまったこと本当に申し訳ない」

きつくリバルトの身体を抱きしめるルステンの姿は、グレティアが見てきた医師の姿ではなかった。
実の息子を手にかけた哀れな父親の姿だ。
いつ見ても清潔感に溢れていた真っ白な襯衣も、今は血で汚れてしまっている。
グレティアは一度目を閉じたあと、再び目を開けゆっくりと立ち上がった。

「お母さんに状況を知らせてくるから。すぐに戻る」

シャルヴァにそう声をかけ、グレティアはルステンの横を通り抜けようとした。

「待っ――」

しかし、それまで動かなかったリバルトが急に手を伸ばしてきて、グレティアの足首を掴んだ。

背中を刺された人間とは思えぬ強い力にグレティアは身体を強ばらせる。しかし、咳き込みながら赤い飛沫を吐き出すリバルトを見たらその手をふりほどくことはできなくなった。
彼の死期は近い。
漠然とそう感じられた。

「行かないで……」

か細い、力を感じさせない声がグレティアの鼓膜を震わせる。

「僕、は……、ただ、尊敬されたかったんだ……。役立たずじゃない、って……言ってもらいたかった……。君、に……。みんなに……」

グレティアはきゅっと唇を引き結ぶと、リバルトの傍らに膝を折った。そして、足首に絡みついていた手の上に自分の手を重ねる。

「――こんなことしなくたって、みんなリバルトのことを慕っていたのよ」
「頼む、よ……。僕を独りにしないで……」

床に血溜まりがじわじわと広がっていく。
綻びたスカートの裾を汚すそれにグレティアは気づいていたが、リバルトの手を放しはしなかった。

「大丈夫。ここにいる。独りなんかじゃない。私も、ヒケル先生もちゃんといるから……」

リバルトのことは許せない。けれど、見捨てることもできない。
それは理屈では説明できないグレティアの本心だった。

――ひどいことして……ごめん……。

声は聞こえなかった。しかし、リバルトの唇の動きはそう言っているように見えた。
グレティアは彼の手を握る指先に力を込める。

「そろそろ行きなさい。外にいる皆が来る前に……」

ルステンが静かに言った言葉に従い、グレティアはそっと手を放すと立ち上がる。

「今、楽にしてやるからな……」

背後から聞こえたルステンの声にグレティアは思わず足を止めた。しかし、そのあとすぐに別の音が耳に届いたため振り返ることは出来なかった。

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