時忘れの森

牛乳紅茶

第二十九話

翌日、グレティアは少し早めに起きると、シャルヴァに声はかけずにそっと家を出た。
どうしても二人きりにはなりたくなかったためだ。それに、表向きシャルヴァは宿の客ということになっているため、連日、ネリーゼの見舞いに行くというのはさすがに不自然だ。

「グレティア。ちょっと、いいかしら?」

診療所に向かう途中、グレティアは三人の少女に呼び止められた。
それぞれ何度か話したことがある程度の関係の少女たちだ。

「おはよう。どうしたの?」

きっとシャルヴァについてのことだろう。
なにを訊かれるのか大体察しはついたが、グレティアはとぼけて小首を傾げた。

「あのね。昨日、あなたと一緒にいた方のことだけど……」

金の髪を揺らしながら少女の一人がおずおずと前に出た。

「彼はうちのお客さん――」
「じゃあ、どうして一緒に診療所から出てきたの?」
「すごく素敵な方だったけど、王都からいらした方なの?」
「リバルトさんと並んだらきっと絵になるでしょうね」

グレティアの返事を最後まで聞かずに、少女たちが好き勝手にしゃべり始める。

「詳しいことはあまり聞いてないから知らないの。ごめんね。私、お母さんのところに行くから」

グレティアは少女たちの迫力に圧倒されつつも、そう言いその場をあとにしようとした。しかし、その手を少女に掴まれる。

「まあ残念ね。なにかわかったら教えてもらえる? たとえば、いつ頃まで滞在している予定なのかとか。それにしても、お母様はお気の毒だったわね」
「この村に赤拷が出るなんて、何度あっても信じられないわ」
「だけど、さすがリバルトさんよね。勇敢にも赤拷を退治して、治療までしてしまうんですもの。本当に治ってよかったわ」

あっという間に少女たちに囲まれてしまい、グレティアは乾いた笑みを顔に貼り付けた。心の中だけで母を助けてくれたのはリバルトではなくシャルヴァだと訴える。

「毎日、診療所に通ってるの?」
「不謹慎だけど羨ましいわ。リバルトさんに毎日会えるんでしょう」
「ねえ。リバルトさんか宿のお客さん。どちらでもかまわないから今度紹介してもらえない?」

少女たちに悪気がないのがわかるからこそ無下にも出来ず、彼女たちの話に相づちを打つ。しかし、母の元に早く行きたいというのが正直な気持ちだ。

「え、と……」

どうキリをつけて抜けだそうかとグレティアが考えあぐねているときだった。

「グレティア」

少女たちの向こうから名を呼ばれ、グレティアは首を伸ばした。
同じように少女たちも背後を振り返る。そして、彼女たちはきゃあと黄色い声を上げた。

「話しているとこごめん。ネリーゼさんのことでちょっと話があるんだけど来てもらってもいいかな」

そう言って軽く手を挙げたのはリバルトだ。
少女たちは先刻までの勢いはどこへやら急にしおらしくなり、ひそひそと密談を交わし始めた。
グレティアはその隙をついて、少女の輪の中から抜け出す。

「ごめんね。続きはまた」
「ええ。また今度」

グレティアは少女たちに断りを入れ、リバルトの近くへと駆け寄った。

「お母さんのことで話って? もしかして前に訊いた犯人の手がかりがわかったの?」
「――……や。なんか困ってる感じだったから嘘ついたんだ。期待させてごめん。その件はこれといって参考になるようなことはなかったよ」

苦笑混じりに頭を掻くリバルトを見て、グレティアはしゅんと肩を落とすが、そのあと助けてもらったことを理解してありがとうと慌てて告げた。

「話があるっていうのは嘘じゃないんだけどさ」
「え……?」

急にリバルトの声が真剣なものに変わったものだから、グレティアは驚いて顔を上げた。

「君のところにいる男のこと」
「――彼がどうかした?」

リバルトが言っているのはシャルヴァのことだと言うのはあきらかだ。
グレティアはそっと拳を握りしめて、リバルトの次の言葉を待った。

「とりあえず歩きながら話そうか。父の仕事の手伝いをしてるから、ここと王都を行き来してる商人と話す機会が多くて、昨日もそれで話したんだけど……。王都の貴族の中に、あの年頃のシャルヴァって子息がいる家はない。それに、やっぱりおかしいと思うんだ。宿の主人のお見舞いにまでくる客なんてさ」

リバルトの話に、グレティアの背中を冷たい汗が伝っていく。

「そ、それは、その人が知らなかっただけじゃなくて?」
「いや。君の信じたい気持ちはわかるけど、その人は貴族関係の専属医とも契約しているから、ほぼ間違いはないと思う」
「でも……」
「ネリーゼさんが治ったのだってもしかしたらあいつがなにかしたからなのかもしれない」
「治ったんだからいいんじゃないの? リバルトはお母さんがあのままだった方がよかった?」

グレティアは思わず立ち止まり、リバルトをじっと見つめた。

「そういう意味で言ったんじゃないよ。ただ、ひどい症状を無理矢理抑えるために強い薬を使っていたとしたら危険だから……」

真実を知っているグレティアには、リバルトの言い分が歯がゆくてたまらなかった。
危険はない。完治したことを一緒に喜んで欲しい。
グレティアはそう思いながらリバルトの顔色を窺った。
リバルトだけになら本当のことを伝えておいてもいいのかもしれない。
そんな誘惑が鎌首をもたげる。

「あのね、リバルト。誰にも言わないって約束してくれる?」
「君がそう言うなら他言はしない。内容がなんであれ、ね」
「実は……」

グレティアはきつく拳を握りしめて決意を固めると口を開いた。

◆ ◆ ◆

「グレティア……」

いつもならとっくに来ている時間だというのに、いつまで経ってもグレティアは姿を現さなかった。
仕方なくシャルヴァはグレティアの部屋の前までやって来た。
何度か扉を叩いてみたが中から返事がないため、そっと扉を開けてみる。

「……どこに行ったんだ?」

扉の向こう側の小さな部屋には、最低限の家具があるだけでグレティアの姿はなかった。

「勝手に出るなとは言われてるが……。断りもなく俺を独りにしたあいつが悪い」

シャルヴァはそう独り言のように呟き、グレティアの部屋の扉を閉めた。

そうして宿をあとにしたシャルヴァはまっすぐ診療所を目指した。

途中、見知らぬ少女の集団に囲まれたが、シャルヴァの耳に彼女たちの声は届かなかった。あからさまに無視して歩くシャルヴァの態度に少女たちは反感を抱いたようで、一人減り二人減りと、診療所に着く頃には周囲には誰もいなくなっていた。

診療所の扉を叩くと、すぐに中からリバルトが出てきた。

「ああ。あなたか。ご用はなんですか? 今日は父が留守なので診察はできませんよ」
「グレティアはいるか?」
「……先ほど帰りました」

そう言ってリバルトがにっこりと微笑んだ。
リバルトの表情は優しいものだったが、シャルヴァは彼の灰紫色の瞳に目には見えない闇を見いだしていた。

「行き違いになってしまったようですね」
「そのようだな」

暗い影を含む瞳から目をそらし、シャルヴァは自分が来た道を顧みた。
ここに来るまでグレティアらしき人物の姿は見かけなかった。

(昨日のあの男のところにでも行ったか……?)

村はずれに住むロレンツのことを思い浮かべ、シャルヴァはその場をあとにしようとした。
グレティアがいないのならばここにいる必要はない。

「そういえば――」

歩き出そうとしたシャルヴァの背にリバルトの声がかかる。
面倒だと思いながらも、シャルヴァは頭だけ動かしてリバルトを見た。
直後、シャルヴァの視界で銀色の光が煌めく。

「――物騒だな。嫌われているのは知っていたがそれほどとは思わなかった」

リバルトがその手に短剣を握りしめシャルヴァへと突きつけてきたのだ。
顎下に向けられたそれを一瞥したあと、シャルヴァはリバルトと改めて目を合わせた。

「グレティアから全て聞いた。今すぐ村を出て行けば手荒なことはしない」

リバルトが短剣の位置はそのままに静かに言った。
その言葉を受けたシャルヴァは口元に緩い笑みを浮かべる。

「全て、か。では、俺とグレティアが交わした約束のことも聞いたということだな」
「ああ」
「村を出て行けというのはグレティアの意思か?」
「そうだ。彼女は自分では言えないから僕に助けを求めてきたんだ」

そうはっきりと頷いたリバルトに対し、シャルヴァはそっと瞳を細めた。

グレティアが本当にそんなことをするだろうか? 心の中でそう問いかけ、すぐにかぶりを振った。

「信用できないな。グレティアから直接言われたのなら考えるが、お前ではだめだ」
「時忘れの魔物め。さっさと村から出て行け。グレティアもそう望んでる」

感情を押し殺したような声にシャルヴァは笑みを深くする。

「それが本性か。自分が正義だと言わんばかりの顔をして平気で偽りを口にする。魔物よりもずっと魔物らしいな。――そういえば、グレティアの母親の傷は赤拷に咬まれた傷とは少し違うな。咬まれたときにそばにいたのはお前だけらしいが気がつかなかったのか? それとも、この村ではあれが赤拷の咬み痕ということになっているのか?」
「このっ――!」

リバルトが短剣を振り上げる。

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