時忘れの森

牛乳紅茶

第二十四話

「これでよし」

家と井戸を三往復して水瓶いっぱいまで水をため、グレティアは額の汗を拭った。
もともとこの村に立ち寄る旅人は少ないが、いつなんどき誰が来てもいいように水は新鮮なものを用意しておきたい。

「あとは――。夕食の下準備をして……。今夜は活力を奪われる前に食事にしてもらおう」

木桶をいつも置く場所に戻し、グレティアはそっとお腹をさすった。
昨夜は活力を分けて、そのまま意識を失ってしまったためなにも食べずじまいだ。軽めの朝食は口にしたがまだ物足りなさの方が大きい。

「あっ! お母さんのとこに行く前にブラフィーさんのとこ寄ってかなきゃ」

グレティアは前掛けをはずしながら、足早に家の中に戻った。
やはり好きになれそうにない人物ではあるが、彼が心から母親のことを心配していた気持ちは本物だ。母が助かると知ればきっと喜ぶことだろう。
蒸留酒の瓶を片手に、嬉しそうに笑うロレンツが予想できて、グレティアは無意識に微笑んでいた。

帰りが遅くなることを考慮して、グレティアは簡単に夕食の下準備を済ませると、シャルヴァを呼びに行った。
前日と違い、シャルヴァはすぐに部屋を出てきた。

「――お母さんのところに行く前に寄りたいところがあるんだけどいい?」
「かまわないが、どこに行くんだ?」
「色々とお世話になった人がいて、お母さんのこともすごく気にかけてくれていたから、ひとこと言っておこうと思って」

シャルヴァにそう告げると、グレティアは軽い足取りで歩き出した。

◆ ◆ ◆

シャルヴァを伴って村はずれまで行くと、ロレンツは外でカディガーロの毛並みの手入れをしているところだった。
グレティアが足早に近づくと、まず最初にカディガーロが気づいたようでぶるりと一度身体をふるってじっとグレティアを見つめてきた。
馬の様子をロレンツも感じ取ったのだろう、ゆっくりと振り返り、グレティアと目を合わせた。

「こんにちは……」
「あ、ああ……。今日はいったいどうしたんだ?」

カディガーロの首筋を撫でながらそう言ったロレンツの瞳からは活気が感じられない。きっと、それだけネリーゼのことを案じているのだろう。

「今日はお知らせしたいことがあって――」

ロレンツの近くまで行き母親のことを伝えようとしたグレティアだったが、そこで言葉を切った。不思議なことに、これまで会う度に感じていた酒の匂いがほとんどしなかったからだ。

「――お酒……」
「あ……。少し控えてるんだ。飲む気にもなれなくてな」

グレティアの呟きから大体のことを察したのだろう、ロレンツはそう答えて苦笑を浮かべた。
酒瓶を持っていないときなどほぼなかったロレンツが酒から遠ざかるなど、グレティアは信じられなかった。しかし、同時にそれだけロレンツにとって母の存在は大きかったのだと理解する。

「それで……? 知らせたいことっていったいなんだ? ネリーゼさんになにかあったのか?」

ロレンツの瞳が不安げに揺れる。
グレティアは慌ててかぶりを振り、母親の容態が快方に向かっていることを伝えた。
次の瞬間、ロレンツががくりとその場に崩れ落ちる。

「ブラフィーさんっ!?」

グレティアは駆け寄り、はっと息を呑んだ。
項垂れたロレンツがぼろぼろと涙をこぼしているのを見てしまったからだ。

「――った……。よかった……。グレティア、よかったなあ。お母さんが助かって……っ……。本当によかった……」

ロレンツが嗚咽をあげながら同じ言葉を何度も何度も繰り返す。
四十も間近に迫った大の男が止めどなく涙を流す姿など、グレティアは初めて見る光景だった。しかし不思議と不快な気持ちにはならなかった。むしろ出会ってから初めて、ロレンツに対して好感を抱いた。
グレティアは思わず自分の胸元をぎゅっと押さえる。

「ブラフィーさん。ありがとうございます。それと……。ごめんなさい。今までひどい態度ばかりとってしまって」

大きく息を吸い込んだあと、グレティアはゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
すると、ロレンツが驚いたようにぱっと顔を上げた。余程、グレティアの言葉が意外だったのだろう。

「よかったらあとで母に会いに行ってあげてください……」

今まで、ロレンツのことを自分から母親を奪う憎い相手だと思ってきた。けれど、今は違う。自分と同じように母を気にかけ、そして母の快復を心から喜んでくれる人。

「じゃあ、私は先に行ってます。カディガーロも、またね」

グレティアは立ち上がると、最後にカディガーロの首をそっと撫でその場を去ろうとした。

「みっともないところを見せちまって悪かったな。俺もあとで寄らせてもらうよ。――ところで」

しかし、続いて腰を上げたロレンツが涙を拭いながら話を続けたため、グレティアは改めて後ろを振り返った。

「ちょっと訊きたいんだが、そちらはお客さんか?」

ロレンツはそう言って、目線でシャルヴァを示した。

「あ、はい。帰ってくる途中で知り合って――」
「そうか……。少し話してもいいか?」
「え?」

グレティアの言葉を遮ったロレンツの目からは涙の色はすっかり消えていた。かわりに現れたのは、剣士であった過去を彷彿させるような鋭い眼光だ。

「あの……。ブラフィーさん?」
「グレティア、先に行っていろ。ただしあいつとはなるべく一緒になるなよ」

どうすべきか迷うグレティアに対し、シャルヴァがきっぱりと言った。

「でも……」
「俺は大丈夫だ」
「ちょっ――っ!」

グレティアは反論しようとしたが、すぐに口を閉じざるを得なくなった。
なぜなら、シャルヴァとロレンツは互いにじっと睨み合い、その場の空気が一瞬にしてぴんと張り詰めたからだ。
尋常ではない雰囲気に口を挟む隙はなく、グレティアは不審に思いながらも一歩後じさった。

「井戸のところで待ってるから……」

囁く程度の声でそう告げ、グレティアは素早くきびすを返した。

◆ ◆ ◆

「で? 俺にいったいなんの用だ?」

シャルヴァはロレンツからの鋭い視線をまっすぐ受け止め、そう問いかけた。
櫛も通していないようなぼさぼさの髪に無精髭に覆われた顔。見るからにしなびた中年男にしか見えないが、その目に宿る光がただ者ではないと物語っている。
左足をかばうようにして立っているのは、昔の古傷かなにかなのだろう。
シャルヴァはそんな風にロレンツを分析したあと、ちらりと肩越しに後ろを窺った。
グレティアが充分に離れたことを確認し、改めてロレンツへと視線を戻そうとした。
そのときだ。
ロレンツが素早い動作で近くに置いてあった黒い杖に手を伸ばす。

「――っ!」
「この状況でよそ見とは余裕だな」

瞬く間の出来事だった。
気がついたときには杖の先端が喉元に突きつけられていた。

「貴様は何者だ?」

先刻グレティアといたときとは別人のような声でロレンツが言った。

「どういう意味かさっぱりわからないな」
「とぼけるな。俺は誤魔化されないぞ。その目、魔物だろう」

ぐ、と杖が喉に押しつけられる。普通の人間ならば苦しさに顔を歪める強さだ。しかし、シャルヴァは平然とロレンツを見返し、その口元ににやりと笑みを浮かべた。

「なんだ。気づいたのか。――お前、魔物に会ったことがあるな?」

シャルヴァの言葉にロレンツの顔に動揺が走る。
それを見て、シャルヴァはますます笑みを深くした。

「その足もそいつにやられたのか?」
「……そうだ。奴は妻に取り憑いて俺と娘を襲った。だから俺はこの手で――。醜悪な獣の姿をした魔物だ。貴様もあれと同じ目をしている」

過去のことを思い出してか、ロレンツの表情が苦々しく歪んだ。
その魔物とロレンツとの間になにがあったのか、シャルヴァにとってはどうでもいいことだったし、今はこの状態にさっさとけりをつけてグレティアの元に行きたかった。

「俺とその魔物を一緒にされたくはないな」
「なっ!!」

喉に突きつけられた杖を握りしめ、力任せにはねのける。
ロレンツは抵抗する間もなく、そのまま後ろに尻餅をついた。

「俺はそんな汚い手口で人を襲ったことはない。そんな方法をとるのは下級の魔物だけだ」

地に伏したロレンツを見下ろしながらシャルヴァがそう言うと、ロレンツは悔しげに杖を握りしめた。

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