時忘れの森

牛乳紅茶

第二十三話

グレティアは暗闇の中にいた。
闇に目が慣れたとき、そこが窓一つない狭い部屋だということがわかった。
グレティアは部屋の隅で膝を抱えじっとしていた。
何気なく顔を上げると、部屋の中央に母親が立っていた。

「お母さん……」

母親は穏やかな微笑みを浮かべてそこにいた。
グレティアは近づこうと身を乗り出す。
しかし次の瞬間、母の姿は闇にとけ込むように消えてしまった。

「お母さんっ!」

グレティアの悲痛な叫びは狭い部屋の中に反響するだけだ。
しばらくして、今度は同じ場所にシャルヴァの姿が浮かび上がった。
グレティアは再び前へと進み出る。

「待って、お願い! 独りにしないでっ! ――っ!」

しかし、先ほどの母親と同じようにシャルヴァの姿もあっさりと消えてしまった。
のばしかけた手を握りしめ、グレティアはまた部屋の隅にうずくまった。
室内は怖いくらい静かで、この世に自分以外誰もいないような錯覚を起こさせる。

〝お前は無力だ……〟

これまで聞いたこともない、深い地底から響くような声が静寂を破った。

〝お前には誰も救えない。お前は無力だ〟

グレティアはぎゅっと目をつむり、両手で耳をふさいだ。

「やめて……」

〝無力、無力、無力……〟

力一杯耳をふさごうとも声はやまなかった。

「やめてっ! 違うっ!!」

グレティアは叫び、そして目を覚ました。
無意識に伸ばした手をしっかり握る者がいた。

「……大丈夫か?」

赤褐色の瞳が気遣うように揺れているのを見て、グレティアはようやく今し方の出来事は夢だったのだと理解した。

「シャルヴァ? 私、どうして?」

ゆっくりと上体を起こし、そこが自室の寝台の上だとわかりグレティアは戸惑った。
窓からは朝日が差し込み、いつの間にか夜が明けていることを告げていた。
たしかシャルヴァに活力を差し出して意識を失ったはずだ。
本当ならば記憶も感情もなくしているはずなのに、グレティアは自分のことも母のことも忘れていない。それに夢を見て恐怖を感じた。ちゃんと感情も残っているようだ。

「どういうこと? 私、あなたに活力を与えたのよね?」

さっぱり状況が理解できず、グレティアはシャルヴァを見上げた。

「ああ。感情も記憶も失わない程度――一日生き長らえる分はいただいた。おかげで今日の夜までは自由に動ける力を得た」
「一日……? え? だってあなた、私に覚悟はあるのか? みたいなこと聞いたでしょ。だから、私……」
「ああ、言った。だが、お前の決意を確かめるために言った言葉だ。活力を全て吸い取るとは言ってない」
「でも、輝きが見られなくなるのは残念だって……」
「あれはお前が直前で目を閉じてしまったからだ。大体、俺がそんな簡単にその輝きを諦めるわけないだろう。少し考えればわかるはずだ」

シャルヴァがさらりと言った言葉にグレティアは絶句した。
まったくたちが悪い。

(こっちは本気で心配して、本気で助ける覚悟だったのに……! 紛らわしい言い方しないでよ!!)

腹の底から怒りがこみ上げ――しかし、そこではっとする。
夕べ、活力を吸い取るためにシャルヴァがなにをしたのか思い出したためだ。
瞬間的に頬が熱くなる。
羞恥と怒りがない交ぜになった複雑な気持ちのままシャルヴァを睨み付けた。

「あなた、いつもあんな方法で命を奪っていたの?」

森に侵入してきたのはなにも若い女性ばかりではないはずだ。むしろ男の方が多かったのではないだろうか。
そういった相手が訪れるたびに口づけを交わして命を吸い取っていたとなると、一生に一度きりの初めてを捧げたグレティアとしてはあまり良い気分ではなかった。

「あんな方法だって知ってたら――」
「なんだ? 助けようとは思わなかったか?」
「そ、そんなことないけど……。心の準備とか……。だいたい、あんなこと好きな人とじゃなきゃ嫌だったのに……」
「そうか。それは悪かったな。心に決めた男がいるとは知らなかった」
「ちが――。そんな人、いないけど……。だからいいってものじゃないし……」

しどろもどろに答えているうちに、グレティアはなんだか情けない気持ちになってきた。
これ以上なにを言ってもシャルヴァには通じないような気がしたからだ。
盛大にため息をつき、がっくりとうなだれる。

「なにをそんなに怒っているのかわからんが、あの方法をとるのはお前だけだ。普段は心臓の上に手を置いて術を施す。ただ、この方法だと取りすぎてしまうんだ」

怪訝そうに眉を寄せ、シャルヴァはそう言った。
その言葉にグレティアは小さくため息をつく。
彼は彼なりに、記憶や感情を奪わずにすむように気を回してくれたに違いない。
それを考えると、責める気持ちも薄れていった。

「もう、いい。とにかく具合が良くなってよかった。これで安心ね」
「ああ。おかげで今日の夜までは自由に動ける」
「………………夜まで?」

シャルヴァの言葉にグレティアは愕然とした。

「まあ、強力な魔術は使えないがな」
「そうじゃなくて、夜までってどういうこと? まさか、夜になったらまた――」
「そうだ。また活力をいただくことになる。人間の活力は常に生産されているんだ。それでも、肉体に過剰な負荷をかけずにとれるのは一日分が限度だ。森に帰るまでは悪いがお前に頼るほかない」
「嘘でしょう……」
「そんなつまらない嘘をついて俺になんの得がある。一晩寝れば回復する程度のものだ。お前の身体におかしなことが起きるわけじゃない」

気にしているのはそんなことではない。
グレティアは心からそう怒鳴りたかったが、すんでのところで堪える。
なんにしてもこの先、森の屋敷でともに過ごすことになるのだ。口づけ一つ二つでいちいち文句を言っても仕方ない。
グレティアは一つ頷くと寝台から立ち上がった。

「さて、と。じゃあ、私は朝の仕事をすませるわ。早く母の様子も見に行きたいし。シャルヴァは部屋で休んでいて。ずっとついていてくれたんでしょ」

横になっていたためしわになったスカートを手で伸ばし、グレティアはシャルヴァを見た。
しかし、シャルヴァはじっと見返してくるだけでなにも答えない。

「シャルヴァ?」

グレティアが小首を傾げると、ふいにシャルヴァの手が伸びてきた。
冷たい指先が頬に触れ、グレティアの脳裏には昨夜の出来事が鮮明によみがえる。

「ちょっ! 夜までは必要ないんでしょ!」

とっさにぎゅっと目をつむったグレティアだったが、シャルヴァの手はすぐに離れた。
グレティアがこわごわまぶたを上げると、やけに真剣な眼差しをたたえたシャルヴァと視線がかち合った。
シャルヴァのその表情を目の当たりにして、グレティアは不覚にも胸の高鳴りを覚える。

「俺はお前を独りにはしない。もう、うなされるな」

シャルヴァはそう短く言い置き、くるりときびすを返した。

「お前の言うとおり部屋にいる。母親のところに行くときに声をかけろ」

そう言ってシャルヴァが部屋を出ていく。
グレティアはシャルヴァの気配が完全に消えたあともその場にたたずんでいた。

「うなされるなって……。無茶なこと言うんだから」

グレティアはそう呟くと、小さく笑みをこぼした。

◆ ◆ ◆

シャルヴァは部屋に入ると、寝台にどっかと腰をおろした。
ふと自分の右手に視線を落とす。
指先にはまだグレティアに触れたときの感覚が残っていた。

「…………」

不思議な気持ちだ。
なぜあのとき、命を吸い取るわけでもないのに手を伸ばしてしまったのか。
シャルヴァはそんな風に自問してみるが、考えても答えは見つからなかった。ため息とともにかぶりを振って、立ち上がると窓のところまで歩を進めた。

窓の外に視線を向けると、ちょうどグレティアが出てくるのが見える。その手には持ち手のついた大きな木桶があり、どうやら広場の井戸に水を汲みに行くことが窺い知れた。

花追い亭から広場までさほど距離はないとはいえ、木桶一杯に水を汲んで帰ってくるのは一苦労だろう。
シャルヴァは手伝いを申し出てやろうかと思い立つが、すぐに考え直した。
グレティアはほかの村人たちに自分の姿を見られることを避けている。余計なことはしない方がいいはずだ。
遠く離れていくグレティアの姿を目で追ったあと、シャルヴァは再び自分の右手に視線を落とした。

先刻グレティアに触れたとき、彼女は森で出会ったときのように怯えているようには見えなかった。しかし、喜んでいるようにも見えなかった。

「あれはなんだったんだ?」

ぽつりと呟く。
シャルヴァにはグレティアの反応が不可解だった。そして、そのときの自分の気持ちも長い時間生きてきて初めて味わうものだった。

きつくまぶたを閉じ、よく見なければわからないほどに身体を震わせるグレティアを見た瞬間、胸の中に真綿が詰まってしまったかのように苦しくなったのだ。
無意識に手を引っ込めたが、心の内ではもっと触れてみたいという衝動がくすぶっていた。
と、そこで気づく。

「俺は、瞳の輝きだけでなくあいつそのものが欲しいのか?」

シャルヴァはきつく拳を握りしめた。
口にした問いに答える者はいなかった。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品