時忘れの森
第二十話
「これはなににやられたんだ?」
母親の姿を見てシャルヴァがそう口にした。
「砂赤拷だってヒケル先生は言ってた。でも、それだけにしては進行が早いって……。まるで何匹もの砂赤拷に咬まれたみたいだそうよ。本当は連甘草も間に合うはずだったんだけど」
グレティアは近くの椅子に腰を下ろし母から視線は外さぬまま答えた。
「どこで咬まれたんだ?」
「広場に水を汲みに行ったとき。井戸のそばよ」
「――妙だな」
束の間の沈黙ののち、シャルヴァがおもむろに口を開く。
グレティアはそこで初めてシャルヴァを仰ぎ見た。
「どうして?」
「砂赤拷はこの辺りにはいないはずだろう? あの虫は砂漠地帯にしか生息していない」
「それは私だって知ってるけど、ここ数年、赤拷の被害は何件かあるのよ。現に母も咬まれてしまった。みんなは旅人の荷物に紛れ込んできたって言ってるわ……」
言いながら、グレティアはうつむいた。
シャルヴァが口にしたことにはグレティアもずっと疑問を抱いていた。しかし、それを解決しても母が毒に侵された事実は変えようがないとこれまで考えないようにしてきたのだ。
「それにしたっておかしいな。赤拷種の中でも砂赤拷は水や湿気を嫌うんだ。井戸の近くで出るわけがない」
「随分詳しいのね」
「森に来る奴らの中には、薬草が目当てのせいか草花や毒虫の書物を抱えて来る奴がいるからな。暇つぶしでたまに目を通すんだ。そんなことよりも、お前は今まで不思議に思わなかったのか?」
「っ! 思ったわよ! 思ったけどそんなこといつまでも考えていられるわけないでしょ。村に赤拷が出た理由がわかったってお母さんが助かるわけじゃない!!」
心を見透かすような問いをされ、グレティアは思わず声を荒げた。膝の上に置いていた両手をきつく握りしめる。
「確かにそうだがな」
憤るグレティアに反して、シャルヴァはいたって変わらぬ声音で言葉を続けた。
「お前は母親がこんな目にあったのは誰かの仕業だとは考えなかったのか?」
淡々と告げられた言葉を耳にして、グレティアは短く息を呑む。
「……ど、ういう意味?」
「本来はいるはずのない毒虫。症状の異常な進行速度。どう考えてもおかしいだろう。何者かが手引きしなければ有り得ない」
「で、でも、こんなこと誰がなんの目的で……?」
「さあな」
自ら疑問を投げかけたというのに、シャルヴァは軽く肩をすくめるだけだった。
グレティアは再び母親へと視線を戻しきゅっと唇を引き締める。
もしも本当に、シャルヴァの言うとおり母の現状に何者かの力が加わっているとしたら――。
(絶対に許さない……)
身体の奥底から憎しみが膨れあがる。
無意識に噛みしめた奥歯がぎりと音を立てた。
「おい」
瞬間、シャルヴァに肩を揺すられる。
「なに」
「――っ!」
振り返って見た先のシャルヴァが目を見張った。
きっと彼の言う瞳の輝きとやらに変化があったのだろう。
自分でもそれがわかるほど、頭の中が沸騰したように熱くなっていた。
と、そのときだ。
控えめに扉が叩かれる音が耳に届き、グレティアはシャルヴァから視線を外した。
扉を見れば、開いた向こうから淡い金の髪が覗いている。
「グレティア。少しいいかな?」
「ええ。今行く」
グレティアはすぐに立ち上がり、シャルヴァの方は見ずに部屋をあとにした。
◆
「あいつ、昨日の奴だよね。どうして、ここに来てるんだい?」
部屋の外に出た途端、リバルトにいささか乱暴に肩を掴まれ壁際へと追い込まれた。
「……その……。母の話をする機会があって、そうしたらお見舞いに来てくれるって言うから……」
密着した状態から逃れるように顎を引き、グレティアはしどろもどろに答えた。すると、リバルトは険しい面持ちで小さく舌打ちをした。
「――……君はそれでいいの?」
問われた意図がわからず、グレティアは眉を寄せる。
「いいの? って……?」
「ネリーゼさんのことでつらい思いをしているのは君なんだよ。それを赤の他人に首を突っ込まれたら良い気分はしないだろ? 君にとって相手はお客さんだ。断りにくいようだったら、僕がかわりに――」
「う、ううん、大丈夫。私は平気だから気にしないで」
リバルトがなにを言わんとしているのか理解したグレティアは慌ててかぶりを振って笑顔を作った。
はたと視線が絡み合う。
直後、リバルトも思わぬ至近距離にようやく気がついたのだろう、唐突とも言える早さでぱっと勢いよくグレティアから離れた。
「えっと……。君のことが心配だったからつい……。乱暴なことして、ごめん」
そっぽを向いてぶつぶつと呟くリバルトの頬が微かに朱に染まっているのを見て、それまでそういう意味では意識していなかったグレティアもかっと顔に熱が集まるのを感じた。
気まずい沈黙がその場を支配する。
数瞬の間ののち、先に口を開いたのはグレティアだ。
「か、彼、シャルヴァさんっていうのだけど、そんなに悪い人じゃないの。目つきも悪いし口調もぞんざいだけど、根は良い人なのよ」
張り詰めた空気を払拭するようにグレティアは大げさに声を張った。
なんとも妙な心持ちだ。
昨日はシャルヴァに対してリバルトは良い人だと訴え、今日は逆にリバルトに同じことを言っている。
「昨日もなにも起きなかったし、リバルトが心配するようなことはなにもないから」
「君がそう言うならいいけど……」
「じゃあ、私、母のところに戻るね」
グレティアは口早に告げるとくるりときびすを返した。しかし、部屋に戻る直前でリバルトを振り返る。
「リバルト。訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「母が赤拷に咬まれたとき、他に誰か怪しい奴を見なかった?」
母が被害にあったとき傍にいたのはリバルトだ。シャルヴァの言ったことが本当だとしたら、リバルトが赤拷を放った犯人を見ている可能性が高いと思ったのだ。
「――いや。あの時、僕とネリーゼさんしかいなかったよ」
しかし、リバルトの返答はグレティアが期待するようなものではなかった。
「そう……」
「どうして急にそんなこと気にするんだい?」
「ん……。ちょっと、ね。母の症状を見てシャルヴァさんがもしかしたら誰かの仕業かもって言ったから。赤拷は水場を避けるから井戸の近くで咬まれたのもおかしいって」
一瞬迷ったグレティアだったが、隠す理由もないとそのままを答えた。
するとリバルトは〝シャルヴァ〟の名に反応したのかわずかに瞳を細めた。
「細かい症状の違いがわかるほどあの男は医療に精通してるのかい? それとも毒虫の専門家?」
「そういうわけではないけど……。でもヒケル先生も砂赤拷にしては進行が早いって言っていたし、おかしなところがあるでしょ。だから、気になったの」
「グレティア。こんな状況だから誰かを疑いたい気持ちはわかるけど、僕にはこの村にそんなことをする奴がいるとは思えない。でも、まあ、君が気になるならそれとなく調べておくよ。なにかわかったら必ず知らせるから、君もくれぐれも慎重にね」
リバルトの最初の反応からてっきりそんなことはあり得ないと一蹴されるかと思っていたグレティアだが、思いがけずリバルトが協力的な態度を見せてくれたので嬉しくなった。
「色々と迷惑ばかりかけてごめんなさい。ありがとう」
グレティアは最後に礼を言い、改めて前に向き直った。
母親の姿を見てシャルヴァがそう口にした。
「砂赤拷だってヒケル先生は言ってた。でも、それだけにしては進行が早いって……。まるで何匹もの砂赤拷に咬まれたみたいだそうよ。本当は連甘草も間に合うはずだったんだけど」
グレティアは近くの椅子に腰を下ろし母から視線は外さぬまま答えた。
「どこで咬まれたんだ?」
「広場に水を汲みに行ったとき。井戸のそばよ」
「――妙だな」
束の間の沈黙ののち、シャルヴァがおもむろに口を開く。
グレティアはそこで初めてシャルヴァを仰ぎ見た。
「どうして?」
「砂赤拷はこの辺りにはいないはずだろう? あの虫は砂漠地帯にしか生息していない」
「それは私だって知ってるけど、ここ数年、赤拷の被害は何件かあるのよ。現に母も咬まれてしまった。みんなは旅人の荷物に紛れ込んできたって言ってるわ……」
言いながら、グレティアはうつむいた。
シャルヴァが口にしたことにはグレティアもずっと疑問を抱いていた。しかし、それを解決しても母が毒に侵された事実は変えようがないとこれまで考えないようにしてきたのだ。
「それにしたっておかしいな。赤拷種の中でも砂赤拷は水や湿気を嫌うんだ。井戸の近くで出るわけがない」
「随分詳しいのね」
「森に来る奴らの中には、薬草が目当てのせいか草花や毒虫の書物を抱えて来る奴がいるからな。暇つぶしでたまに目を通すんだ。そんなことよりも、お前は今まで不思議に思わなかったのか?」
「っ! 思ったわよ! 思ったけどそんなこといつまでも考えていられるわけないでしょ。村に赤拷が出た理由がわかったってお母さんが助かるわけじゃない!!」
心を見透かすような問いをされ、グレティアは思わず声を荒げた。膝の上に置いていた両手をきつく握りしめる。
「確かにそうだがな」
憤るグレティアに反して、シャルヴァはいたって変わらぬ声音で言葉を続けた。
「お前は母親がこんな目にあったのは誰かの仕業だとは考えなかったのか?」
淡々と告げられた言葉を耳にして、グレティアは短く息を呑む。
「……ど、ういう意味?」
「本来はいるはずのない毒虫。症状の異常な進行速度。どう考えてもおかしいだろう。何者かが手引きしなければ有り得ない」
「で、でも、こんなこと誰がなんの目的で……?」
「さあな」
自ら疑問を投げかけたというのに、シャルヴァは軽く肩をすくめるだけだった。
グレティアは再び母親へと視線を戻しきゅっと唇を引き締める。
もしも本当に、シャルヴァの言うとおり母の現状に何者かの力が加わっているとしたら――。
(絶対に許さない……)
身体の奥底から憎しみが膨れあがる。
無意識に噛みしめた奥歯がぎりと音を立てた。
「おい」
瞬間、シャルヴァに肩を揺すられる。
「なに」
「――っ!」
振り返って見た先のシャルヴァが目を見張った。
きっと彼の言う瞳の輝きとやらに変化があったのだろう。
自分でもそれがわかるほど、頭の中が沸騰したように熱くなっていた。
と、そのときだ。
控えめに扉が叩かれる音が耳に届き、グレティアはシャルヴァから視線を外した。
扉を見れば、開いた向こうから淡い金の髪が覗いている。
「グレティア。少しいいかな?」
「ええ。今行く」
グレティアはすぐに立ち上がり、シャルヴァの方は見ずに部屋をあとにした。
◆
「あいつ、昨日の奴だよね。どうして、ここに来てるんだい?」
部屋の外に出た途端、リバルトにいささか乱暴に肩を掴まれ壁際へと追い込まれた。
「……その……。母の話をする機会があって、そうしたらお見舞いに来てくれるって言うから……」
密着した状態から逃れるように顎を引き、グレティアはしどろもどろに答えた。すると、リバルトは険しい面持ちで小さく舌打ちをした。
「――……君はそれでいいの?」
問われた意図がわからず、グレティアは眉を寄せる。
「いいの? って……?」
「ネリーゼさんのことでつらい思いをしているのは君なんだよ。それを赤の他人に首を突っ込まれたら良い気分はしないだろ? 君にとって相手はお客さんだ。断りにくいようだったら、僕がかわりに――」
「う、ううん、大丈夫。私は平気だから気にしないで」
リバルトがなにを言わんとしているのか理解したグレティアは慌ててかぶりを振って笑顔を作った。
はたと視線が絡み合う。
直後、リバルトも思わぬ至近距離にようやく気がついたのだろう、唐突とも言える早さでぱっと勢いよくグレティアから離れた。
「えっと……。君のことが心配だったからつい……。乱暴なことして、ごめん」
そっぽを向いてぶつぶつと呟くリバルトの頬が微かに朱に染まっているのを見て、それまでそういう意味では意識していなかったグレティアもかっと顔に熱が集まるのを感じた。
気まずい沈黙がその場を支配する。
数瞬の間ののち、先に口を開いたのはグレティアだ。
「か、彼、シャルヴァさんっていうのだけど、そんなに悪い人じゃないの。目つきも悪いし口調もぞんざいだけど、根は良い人なのよ」
張り詰めた空気を払拭するようにグレティアは大げさに声を張った。
なんとも妙な心持ちだ。
昨日はシャルヴァに対してリバルトは良い人だと訴え、今日は逆にリバルトに同じことを言っている。
「昨日もなにも起きなかったし、リバルトが心配するようなことはなにもないから」
「君がそう言うならいいけど……」
「じゃあ、私、母のところに戻るね」
グレティアは口早に告げるとくるりときびすを返した。しかし、部屋に戻る直前でリバルトを振り返る。
「リバルト。訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「母が赤拷に咬まれたとき、他に誰か怪しい奴を見なかった?」
母が被害にあったとき傍にいたのはリバルトだ。シャルヴァの言ったことが本当だとしたら、リバルトが赤拷を放った犯人を見ている可能性が高いと思ったのだ。
「――いや。あの時、僕とネリーゼさんしかいなかったよ」
しかし、リバルトの返答はグレティアが期待するようなものではなかった。
「そう……」
「どうして急にそんなこと気にするんだい?」
「ん……。ちょっと、ね。母の症状を見てシャルヴァさんがもしかしたら誰かの仕業かもって言ったから。赤拷は水場を避けるから井戸の近くで咬まれたのもおかしいって」
一瞬迷ったグレティアだったが、隠す理由もないとそのままを答えた。
するとリバルトは〝シャルヴァ〟の名に反応したのかわずかに瞳を細めた。
「細かい症状の違いがわかるほどあの男は医療に精通してるのかい? それとも毒虫の専門家?」
「そういうわけではないけど……。でもヒケル先生も砂赤拷にしては進行が早いって言っていたし、おかしなところがあるでしょ。だから、気になったの」
「グレティア。こんな状況だから誰かを疑いたい気持ちはわかるけど、僕にはこの村にそんなことをする奴がいるとは思えない。でも、まあ、君が気になるならそれとなく調べておくよ。なにかわかったら必ず知らせるから、君もくれぐれも慎重にね」
リバルトの最初の反応からてっきりそんなことはあり得ないと一蹴されるかと思っていたグレティアだが、思いがけずリバルトが協力的な態度を見せてくれたので嬉しくなった。
「色々と迷惑ばかりかけてごめんなさい。ありがとう」
グレティアは最後に礼を言い、改めて前に向き直った。
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