時忘れの森
第十九話
前日の雨が嘘のように、翌日はすっきりと晴れ渡った天気となった。
その日の朝早く、グレティアはいつもやってる朝の仕事をさっさと済ませ、シャルヴァにあてがった部屋の前に立っていた。
(一緒に行くって承諾しちゃった以上やっぱり声かけないとまずいわよね……)
じっと扉を見つめて考えること数秒。
シャルヴァに黙って母のところに行ってしまおうかとも考えたが、昨日のシャルヴァの様子を見る限り、そんなことをしたら勝手にあとからやってきそうだと思い改めることにしたのだ。
「シャルヴァ、起きてる?」
そう言葉をかけながら控えめに扉を叩くも、中から返答はない。
「そろそろ母のところに行こうと思うんだけど――」
グレティアがそこまで言いかけたところで、唐突に扉が開けられた。
まだどこか眠気を残した表情のシャルヴァが顔を出し、グレティアはもう一度用件を伝え外を指し示した。
「外で待ってろ。すぐに行く」
するとシャルヴァは気怠げに長い黒髪をかきあげ、そう言うやいなや再び扉を閉めた。
なぜだか理由はわからなかったがシャルヴァの様子に違和感を覚え、グレティアは小首を傾げた。
仕方なく言われたままに家の外でグレティアが待っていると、程なくしてシャルヴァは現れた。
「顔色があまり良くないように見えるけど、よく眠れなかったの?」
シャルヴァの佇まいからなんとなく覇気が感じられず、グレティアは思い切ってそう訊ねてみた。
森にあった屋敷は室内は別にして、造り自体は立派なものだった。
きっと彼の寝室にはそれは豪奢な寝台があるのだろう。荒廃した内部とは言え、さすがに寝室くらいは綺麗にしてるはず――グレティアはそう勝手に推測していた。
シャルヴァの身体に安宿の硬い寝台は合わなかったのかもしれない。
そんな風に思ったグレティアだったが、返ってきたシャルヴァの答えはまったく別のものだった。
「寝ていないのは確かだが、俺はお前たち人間のように決まった時間に睡眠をとらなくとも体調が変わることはない」
「じゃあ、ずっと眠らないの?」
「いや、気が向けば眠る。――森にいるときは獲物が来ない間は常に寝ていた。他にすることもなかったしな……」
シャルヴァはそっけなく答えるとグレティアから視線を外して歩き出した。
「とにかく心配は無用だ。母親のところに行くのだろう?」
促されて、グレティアもすぐに歩き出す。
青白いシャルヴァの顔つきがまだ少し気になったが、まっすぐ前だけを見ているシャルヴァの横顔はこれ以上の質問を拒んでいるようにも見え、グレティアは黙って歩くことだけに集中した。
◆ ◆ ◆
「昨日も言ったけど、余計なことはしゃべらないでね。二人には私が説明するから」
「わかってる。そもそもお前以外の人間と話すことなどない。安心しろ」
「…………不自然に黙っていられるのもそれはそれで困るから、なにか話しかけられたら相づちくらいは打ってよね」
「……面倒だな」
不本意そうに頷くシャルヴァを見て、グレティアはつくづく安心だけは出来ないと思った。
(大丈夫かな……?)
最後にもう一度シャルヴァに一瞥を投げたあと、意を決して扉を叩く。
「おはようございます。グレティアです」
しばらくの間を置いてから顔を出したのはルステンだった。
「おはよう、グレティア。――そちらは?」
ルステンはグレティアを見て頬笑んだあと、その後ろにいるシャルヴァに気がついたようで、不思議そうに瞳をしばたたいた。
「こちらはシャルヴァさんです。実は森から帰ってくる途中で知り合った方で、しばらくうちの宿に滞在することになっているんですが、母の話を聞いて、是非お見舞いしたいと言ってくださったんです。一緒に入っても大丈夫でしょうか?」
グレティアが笑顔を作って口からでまかせを並べ立てると、ルステンはあっさりと信じてくれたようで「大丈夫だよ」と言って家の中へと招いてくれた。
グレティアはほっと胸をなで下ろし、気持ちを改めてルステンを見る。
「それで、母の容態は?」
「……昨日と変わらずだ」
「そうですか……」
伏し目がちに答えたルステンを横目に見ながら、グレティアは母の待つ部屋の前まで進んだ。
ルステンの表情が暗に母の症状が快方に向かうことはないと物語っているように見え、グレティアはそっと下唇を噛む。
今日もまた、いつ呼吸が止まってしまうかと怯えて過ごす一日が始まる。
ルステンは痛み止めを打っているから苦痛に苛まれてはいないと言っていたが、穏やかとは呼べない速度で胸を上下させる母の姿を見ているのはつらかった。
グレティアは一度大きく深呼吸してから扉の取っ手に手をかけた。
「私はこれから少し出なければならないんだが、リバルトが奥の部屋にいるからなにかあったら声をかけてくれ。それじゃあ」
ルステンはグレティアにそう告げ、シャルヴァに会釈するとその場を離れていった。
「ありがとうございます」
グレティアはルステンに礼を言うと、消毒液の匂いがこもる部屋の中に足を踏み入れた。
その日の朝早く、グレティアはいつもやってる朝の仕事をさっさと済ませ、シャルヴァにあてがった部屋の前に立っていた。
(一緒に行くって承諾しちゃった以上やっぱり声かけないとまずいわよね……)
じっと扉を見つめて考えること数秒。
シャルヴァに黙って母のところに行ってしまおうかとも考えたが、昨日のシャルヴァの様子を見る限り、そんなことをしたら勝手にあとからやってきそうだと思い改めることにしたのだ。
「シャルヴァ、起きてる?」
そう言葉をかけながら控えめに扉を叩くも、中から返答はない。
「そろそろ母のところに行こうと思うんだけど――」
グレティアがそこまで言いかけたところで、唐突に扉が開けられた。
まだどこか眠気を残した表情のシャルヴァが顔を出し、グレティアはもう一度用件を伝え外を指し示した。
「外で待ってろ。すぐに行く」
するとシャルヴァは気怠げに長い黒髪をかきあげ、そう言うやいなや再び扉を閉めた。
なぜだか理由はわからなかったがシャルヴァの様子に違和感を覚え、グレティアは小首を傾げた。
仕方なく言われたままに家の外でグレティアが待っていると、程なくしてシャルヴァは現れた。
「顔色があまり良くないように見えるけど、よく眠れなかったの?」
シャルヴァの佇まいからなんとなく覇気が感じられず、グレティアは思い切ってそう訊ねてみた。
森にあった屋敷は室内は別にして、造り自体は立派なものだった。
きっと彼の寝室にはそれは豪奢な寝台があるのだろう。荒廃した内部とは言え、さすがに寝室くらいは綺麗にしてるはず――グレティアはそう勝手に推測していた。
シャルヴァの身体に安宿の硬い寝台は合わなかったのかもしれない。
そんな風に思ったグレティアだったが、返ってきたシャルヴァの答えはまったく別のものだった。
「寝ていないのは確かだが、俺はお前たち人間のように決まった時間に睡眠をとらなくとも体調が変わることはない」
「じゃあ、ずっと眠らないの?」
「いや、気が向けば眠る。――森にいるときは獲物が来ない間は常に寝ていた。他にすることもなかったしな……」
シャルヴァはそっけなく答えるとグレティアから視線を外して歩き出した。
「とにかく心配は無用だ。母親のところに行くのだろう?」
促されて、グレティアもすぐに歩き出す。
青白いシャルヴァの顔つきがまだ少し気になったが、まっすぐ前だけを見ているシャルヴァの横顔はこれ以上の質問を拒んでいるようにも見え、グレティアは黙って歩くことだけに集中した。
◆ ◆ ◆
「昨日も言ったけど、余計なことはしゃべらないでね。二人には私が説明するから」
「わかってる。そもそもお前以外の人間と話すことなどない。安心しろ」
「…………不自然に黙っていられるのもそれはそれで困るから、なにか話しかけられたら相づちくらいは打ってよね」
「……面倒だな」
不本意そうに頷くシャルヴァを見て、グレティアはつくづく安心だけは出来ないと思った。
(大丈夫かな……?)
最後にもう一度シャルヴァに一瞥を投げたあと、意を決して扉を叩く。
「おはようございます。グレティアです」
しばらくの間を置いてから顔を出したのはルステンだった。
「おはよう、グレティア。――そちらは?」
ルステンはグレティアを見て頬笑んだあと、その後ろにいるシャルヴァに気がついたようで、不思議そうに瞳をしばたたいた。
「こちらはシャルヴァさんです。実は森から帰ってくる途中で知り合った方で、しばらくうちの宿に滞在することになっているんですが、母の話を聞いて、是非お見舞いしたいと言ってくださったんです。一緒に入っても大丈夫でしょうか?」
グレティアが笑顔を作って口からでまかせを並べ立てると、ルステンはあっさりと信じてくれたようで「大丈夫だよ」と言って家の中へと招いてくれた。
グレティアはほっと胸をなで下ろし、気持ちを改めてルステンを見る。
「それで、母の容態は?」
「……昨日と変わらずだ」
「そうですか……」
伏し目がちに答えたルステンを横目に見ながら、グレティアは母の待つ部屋の前まで進んだ。
ルステンの表情が暗に母の症状が快方に向かうことはないと物語っているように見え、グレティアはそっと下唇を噛む。
今日もまた、いつ呼吸が止まってしまうかと怯えて過ごす一日が始まる。
ルステンは痛み止めを打っているから苦痛に苛まれてはいないと言っていたが、穏やかとは呼べない速度で胸を上下させる母の姿を見ているのはつらかった。
グレティアは一度大きく深呼吸してから扉の取っ手に手をかけた。
「私はこれから少し出なければならないんだが、リバルトが奥の部屋にいるからなにかあったら声をかけてくれ。それじゃあ」
ルステンはグレティアにそう告げ、シャルヴァに会釈するとその場を離れていった。
「ありがとうございます」
グレティアはルステンに礼を言うと、消毒液の匂いがこもる部屋の中に足を踏み入れた。
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