時忘れの森

牛乳紅茶

第十七話

一度も後ろを振り返らずに、グレティアはまっすぐルステンの家を目指して走った。

村の広場近くまでくると仕事で外に出てきた村人たちの姿がちらほらと見えた。彼らはグレティアの姿を見留めると皆一様に悲しげに眉を寄せ、口々に〝気を落とすんじゃないよ〟などと声をかけてきた。
人々の気遣いはグレティアにとってありがたくもあったが、その人数が五人を超す頃になると耳を塞ぎたくなった。

「なにか困ったことがあったらなんでも言ってちょうだいね。出来る限りのことはするから」

ルステンの家の前で母とも仲の良かった女性に言葉をかけられ、グレティアは短い礼を返すとそそくさとルステン宅の扉を叩いた。

皆が厚意で優しい言葉をかけてくれることはわかっていたが、そっとしておいて欲しいのが正直な気持ちだった。周りがあまりにも優しすぎて、どうにもならない現実への苛立ちをぶつけてしまいそうになるのだ。

「グレティアです。戻りました」

扉越しにそう声をかけると、そう時間を置かずに中からリバルトが顔を出した。

「起きたら君がいないから驚いたよ。付き添ってた方が寝ちゃっていたんじゃ世話ないよな……」

グレティアの顔を見た途端、リバルトはそう言って微苦笑を浮かべた。

「もう少し休んだ方がいいんじゃないか?」

グレティアを中へと促しながらもリバルトはそう続けた。

「大丈夫。少しでも母の傍にいたいから」

家の中へと足を踏み入れたグレティアは答えて小さく頷いた。
そんなグレティアの心情をわかってか、リバルトはそれ以上なにも言わず、ただグレティアの背をほんの少しだけ撫でた。
普段のグレティアならばきっと気づかなかっただろう。
申し訳ないような、気恥ずかしいような気持ちでグレティアがリバルトを見上げると、彼は困った様子で眉を寄せて頬笑んだ。

「なにかあったらあっちの部屋に僕も父もいるから呼んで? くれぐれも無理だけはしないで」

それだけ言って、リバルトがグレティアから離れる。
そのまま彼は通路の奥にある部屋へと向かっていった。
グレティアと母を親子水入らずにするために気を遣ってくれたのかもしれない。
リバルトの背を見つめながら、グレティアはなぜ彼が村の少女たちの憧憬のまとになるのかほんの少しわかった気がした。

リバルトはなにも言わなくともいろいろなことに気を回してくれる。恩着せがましい余計なおしゃべりはない。そのかわり所作の一つ一つ、表情のわずかな変化で語っているように見えるのだ。

そんなリバルトの行為は、自分が彼にとって特別な女の子になったような、そんな錯覚を起こさせる。

「まさか、ね……」

グレティアもまた例外ではなく、他の年頃の少女と同じようにリバルトの行いに困惑していた。
行き当たった答えを打ち消すようにかぶりを振り、グレティアは気持ちを改めた。

リバルトは何人もの少女たちから好意を寄せられている人物なのだ。その上、仕事上、大きな街に行くことも多い彼は綺麗で魅力的な少女を見慣れているはずだ。普通に考えれば、わざわざ村娘の、それも小さな宿屋を営んでやっと生活しているような娘を相手にするわけがない。
それ以前に、グレティア自身リバルトに対して特別な感情は抱いていなかった。
グレティアは自分の考えに対してため息を吐き出すと、母が眠っている部屋の扉へと手を伸ばした。



その日、母の症状に大きな変化は現れなかった。
時折苦しそうな呼吸を繰り返す以外、母は寝台の上に横になっているだけだった。

夕刻過ぎ、リバルトが部屋にやってきてグレティアに夕食を食べていくかと訊ねたが、グレティアはその申し出を丁寧に断った。

「また明日来ます。すみませんが、もし母になにかあったら呼んでいただけますか?」
「ああ、もちろんだ」
「泊まりがけでもうちはかまわないのに」
「ううん。そこまでお世話になるわけにもいかないから」

玄関先でルステンとリバルトに頭を下げると、グレティアは扉をくぐり抜けようとした。
外に出た直後、ぽつり、と鼻先に冷たいものが落ちてくる。

「あ……」

咄嗟に仰ぎ見れば、夕闇の空からぽつぽつと雨が降り出していた。
まばらに降っていた雨は次第に音を激しくしていき、瞬く間に乾いた地面を暗い色に染め上げる。

「家まで送るよ」

雨の中を走っていこうかとグレティアが考えあぐねていると、すでに頭巾付きの外套を羽織りその手に角灯を提げたリバルトが顔を出した。

「君まで体調を崩したら大変だし、この土砂降りの中一人じゃ危ないよ」
「でも、すぐそこだし……」
「いいから。はい、これ君の分」

有無を言わせぬ勢いでリバルトに外套を手渡され、グレティアは仕方なく袖を通した。

「ありが――」
「礼はいらないよ。僕がしたくてしてるんだし。むしろこっちが言わなきゃね。僕なんかに送らせてくれてありがとう」

逆に礼を言われてしまい、グレティアは面食らってしまった。どう返せばいいのかわからず、とりあえず頷くだけにとどめる。ふと見上げれば、にっこりと頬笑んだリバルトの顔がある。

外套では防ぎきれない雨のせいで、彼の淡い金の髪はしっとりと濡れ額や頬に張り付いていた。その様は言葉では表せない色気を含んでいた。
意識していない相手とはいえ、至近距離でそれを目の当たりにしたグレティアは思わず視線を下げる。

「行こう」

リバルトに手を取られ、グレティアは雨の中へと踏み出した。

◆ ◆ ◆

雨足は思っていた以上に激しく、家に帰るまでの道すがらグレティアは何度もぬかるみに足をとられ、そのたびにリバルトに支えてもらった。

ようやく家にたどり着いた頃には、外套はほとんど役立たずで二人とも全身ずぶ濡れになっていた。

「送ってくれてありがとう。助かった。暖まっていってと言いたいところなんだけど、なんの支度もしてなくて……」

張り出し屋根の下まで来て、グレティアは外套を脱いでそう礼を言った。

「気を遣わなくてもいいよ。まだ早い時間とはいえ女の子一人の家に上がる度胸はないんだ」

グレティアの手から外套を受け取りながらリバルトが肩をすくめてかぶりを振った。
リバルトの言葉にグレティアは小さく笑みをこぼして扉に手をかける。

「それじゃあ、また明日」

扉を押し開けたそのときだった。
リバルトがあっと小さく呟き、その視線を家の中へと向けた。

「えっ?」

グレティアも一瞬なにが起きたのかわからなかった。
強引に後ろに引っ張られたかと思ったら、いつの間にかリバルトが背中を向けて目の前に立っていた。

「誰だ、お前っ!!」

いつも穏やかなリバルトからは想像もつかないほど鋭い声だった。
刹那、激しい雨音さえも忘れさせる緊張した空気がその場に張り詰める。

「いったいなにが……?」

グレティアはリバルトの肩越しに家の中を覗き込み、そこで目を丸くした。
食堂と厨房のちょうど真ん中辺りに、長い黒髪の深紅の外套を纏った男が立っていたからだ。
紛れもなくそれはシャルヴァであった。

「グレティア。君は下がっているんだ」

顔半分ほど後ろに振り返ってリバルトが言った。
その間も、シャルヴァの方は突然の来訪者に驚いたのかきょとんとしてそこに立っていた。

「おい、お前。今すぐここを出て行け。僕も彼女の前で手荒なまねはしたくない」

凛とした声が室内に放たれる。
瞬間、ゆらりとシャルヴァの身体が動いた。
蝋燭の炎が反射しているわけでもなかろうに、彼の赤褐色の瞳がほんの一瞬、赤く煌めいたようにグレティアには見えた。

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