時忘れの森

牛乳紅茶

第十六話

グレティアの家は粗末ではなかったが、立派というほどのものではなかった。しかし、家の中はよく整頓されていてしっかりと手入れが行き届いていると窺えるものだった。
シャルヴァは食堂を抜けて厨房の更に奥にあるグレティアの部屋に案内され、きょろきょろと部屋の中を見回した。
こぢんまりとした小さな部屋だ。
文机と寝台以外は置かれていないが、淡い萌黄色に小花が散った柄の壁紙が年頃の少女らしい印象である。
シャルヴァにとってグレティアの部屋や家は物珍しいもの以外のなにものでもなかった。

森にある屋敷を掃除したことはなかった。
外からは綺麗に見えるよう術をかけてはあったが中は別だ。二階の一室はシャルヴァの寝室で、最低限埃が溜まらぬようにしてはいたが今いるグレティアの部屋と比べたら、自室を獣の住処と言われても反論できない。

「気に入った」

部屋の中を大体把握して、シャルヴァはそう短く言った。
その言葉になにか思うところがあったのか、グレティアが不可解そうに眉根を寄せる。

「綺麗にさえすれば、あなたのお屋敷の方がよっぽど立派だと思うけど?」

首を捻りながらグレティアはそう言ったが、シャルヴァは特に返事はせず、その視線を寝台脇の壁へと向けた。
そこには木炭かなにかで描かれた絵が一枚、額縁にも入れられないまま貼ってあった。
前掛け姿の二人の女性がいくつかの杯を運んでいる情景が描かれており、絵の中の二人が今にも動き出すのではないかと思うほど躍動感に溢れている。

「あなたって人の話を聞いてないわよね」
「これは、お前か……?」
「…………ほらやっぱり聞いてない。まあ、いいけど。――そうよ。それは私。こっちが――」
「お前の母親だな」

絵をじっと見つめたままシャルヴァは右手奥に描かれている女性を指さした。色もついていない、黒い一色の簡素な絵ではあるが特徴はよくとらえられていた。きっとこの母娘に会ったことのある者ならば、一目でどちらがどちらなのか区別がつくだろう。

「以前、うちに画家の卵だっていう人が立ち寄ったんだけど、持ち合わせがないってことで母が絵を描いてくれたらそれを料金の代わりにするって持ちかけたの。そのときの絵がそれよ」
「よく描けてるな」
「ええ。お母さんも喜んでた……」

そのときのことを思い出したのか、グレティアが瞳を潤ませてうつむいた。
早いか遅いかの違いはあれど、人はいつかは死ぬものだ。

シャルヴァにはグレティアがなにを悲しんでいるのか理解できなかった。しかし、彼女の瞳が悲しみで曇るのは見ていて気分の良いものではない。

「――お前は笑っていた方がいい。美人ではないが、この微笑みは魅力的だ。だから、泣くな」

絵の中の母娘を示しながらシャルヴァは言った。
しかし、グレティアからはすぐに返事はなかった。

不思議に思ったシャルヴァはグレティアへと視線を投げるが、彼女は目を丸くしてそこに立っていた。

「どうした?」
「まさかとは思うけど、慰めてくれようとしてるの?」
「慰める? なにをだ? 俺はただ事実を言ったまでだ」
「…………そうよね。そんなに気が利く人には見えないし、それにしても〝美人ではないが〟ってひと言余計よ。こういう時は嘘でも〝綺麗だ〟とか〝可愛い〟って言うものなんだから。自分で言っても虚しいけど……」

グレティアがそう言って唇を尖らせた。
その瞳が本来の輝きを再び放ち始めたのを見てシャルヴァはほっと安堵した。

「そうなのか? ……面倒だな」

グレティアがなにに対して不満を抱いたのかはよくわからなかったが、シャルヴァはとりあえずふむと一つ頷いておいた。

「それじゃあ、私は馬を返しに行って、そのまま母のところに行くから。鍵はかけていくけど誰か来ても出ないでね。夜には戻るわ」

文机の脇に置いてあった櫛で軽く髪を梳かし、グレティアはそう言うと足早に部屋を出て行った。

グレティアの背を見送ったあと、シャルヴァはもう一度室内にぐるりと視線を巡らせ、これといって新たな発見もないことがわかると仕方なく寝台に腰を下ろす。
この部屋は不思議と落ち着く匂いがする。それは、森の屋敷にいるときには感じたことのないものだ。
小さな寝台や綺麗に片付けられた文机から感じられるグレティアの気配に歪んだ欲望は見受けられない。

「あの輝きは愛されて育った証か……」

シャルヴァは囁く程度の声で誰にともなく呟いた。



カディガーロを連れて村はずれのロレンツの家に行くと、ちょうどロレンツは外に出ているところだった。

「ブラフィーさんっ!」

グレティアがそう声をかけると、ロレンツはぱっと顔を上げ、片足を引き摺りながらもすぐにグレティアの元へと駆け寄ってきた。

「帰ってきたんだな! よかった!」

ロレンツはそばに来るやいなや、グレティアの身体をきつく抱きしめた。
むわっとした酒の臭気を感じグレティアは思わず顔をしかめた。同時に、ロレンツの突然の親しげな態度に眉を寄せる。

父親にでもなったつもりなのだろうか?
やはりこの人は嫌いだ。

グレティアはそんな風に思いながらロレンツの腕から逃げ出すと、カディガーロの手綱を差し出した。

「ありがとうございました。助かりました」

心の変化が声に出たため、礼の言葉がぎこちなくなった。
ロレンツはそれを見逃さなかったのだろう、素早くグレティアから一歩距離を取ってから手綱を受け取った。

「すまん。無事に戻ってきてくれたことが嬉しくてな。つい……」

そう続けて、ロレンツはぼさぼさの頭に手を置いた。
そんな些細な仕草にすら嫌悪感を覚え、グレティアはそっと目をそらした。
自分がロレンツに対してひどい仕打ちをしている自覚はある。
結果的に連甘草は役に立たなかったが、ロレンツから馬を借りられなければ森に行くこともかなわなかったのだ。だから、本当ならばきちんと感謝の気持ちを伝えなければならない。

「本当にありがとうございました。あの……。母の看病がありますので失礼します」

感謝というよりも一刻も早くこの場を離れたい衝動から、グレティアは口早にそう告げるときびすを返した。

「待ってくれ」

と、そこをロレンツに引き留められる。
ちらりと顔だけで振り返ると、変わらずそこに立っていたロレンツは酒に灼けてすっかりガラガラになった声で続けた。

「薬草は持って帰ってこれたのか? ネリーゼさんは助かるんだよな?」

問われて、グレティアは言葉に詰まった。
問いの内容はもちろんだったが、それ以上にロレンツの表情があまりに悲哀に満ちていたからだ。
そこで初めてグレティアはロレンツに対して親近感にも似た感情を抱いた。
母の行く末を案じているのは自分だけではない。ロレンツは本気で、心から母のことを心配しているのだ。

「母は――」
「なんだ? 薬草は効いたんだよな?」

グレティアは無意識に両の拳を握りしめていた。
シャルヴァに伝えたときよりも緊張に胸が苦しくなるのは、きっと事実を伝えたときのロレンツの反応が予想できるからだ。

「いいえ……。母は、もう助からないんです」

ズキズキと痛みを訴える心臓の鼓動を堪え、グレティアはなんとかそう告げた。
直後、ロレンツが短く息を呑んだのが空気を通して伝わってきた。
グレティアはそれ以上見ていることに耐えられず、前へと向き直るとその場から逃げ出した。

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