時忘れの森

牛乳紅茶

第十二話

「ヴェッツさんにカディガーロねえ……。聞き覚えはないなあ」
「そんな……。間違いなくこちらで預かっていただいてるはずです。あなたにも今日お会いしてます」
「こっちも日にたくさんのお客人に会ってるからねえ。いちいち覚えてないんだよ。今、帳簿を確認してくるから少し待ってなよ」
「お願いします。急いでるんです」
「こっちだって寝ているところを起こされて迷惑なんだ。明日も忙しいっていうのに……。とにかく調べてくるから静かにしていてくれ」

男はぞんざいな口調で言うときびすを返した。
そのまま部屋の奥へと向かうのかと思われたが、寸前で一度グレティアを振り返り、その口の端をつり上げる。

「まあ、時間外の上乗せ分を払うってんなら良いように取り計らってやれるんだけどねえ……」

聞こえるか聞こえないかの声で付け加えられた男の言葉を耳にして、グレティアは顔をしかめた。

「なにを言って……?」
「迷惑料だよ。こんな時間に馬の引き取りなんて他のお客人に迷惑だろう。それに、そんな立派な格好した旦那を連れてるんだ。それくらい簡単じゃないのかい?」
「――っ!」

いやらしくにやりと笑ってシャルヴァへと視線を向けた男を見て、グレティアは確信した。
男は、グレティアの名に聞き覚えはないと言ったが、嘘なのだろう。
きっと金持ち然とした格好のシャルヴァを見たことで欲が出たのだ。

「払いたくないならかまわないんだよ。ただ、お嬢さんが急いでいると言っていたからね。さあて帳簿の確認をしてくるかね。時間はかかるかもしれないが……」

脅しともとれる言葉を口にして、男は再びグレティアに背中を向けた。そのあんまりな態度に、グレティアはかっと頭に血が上る感覚を味わう。
男の背中をきつく睨みつけ、なにか言ってやろうと一歩踏み出したそのときだ。それまで後ろで黙って立っていたシャルヴァが動いた。

「おい」

その場の温度を一、二度下げる雰囲気を携えたその声に、男が足を止め振り返った。

「な、なんだ? 文句でもあるのか?」

男の表情がわずかに引きつって見えるのは気のせいではないだろう。
それほどまでにシャルヴァからは人を威圧する気配が放たれていたのだ。

「上乗せ分を払えば、すぐに馬を引き渡すんだな?」
「あ、ああ。それはもちろんだ」

シャルヴァの言葉に気をよくしたのか、男はぱっと顔色を明るくして両手をすりあわせながら戻ってきた。

「ちょっと……。そんなお金、持ってないわ」

グレティアは慌ててシャルヴァの外套を引っ張ったが、彼はなにも答えないまま宿屋の主人の方をじっと見据えていた。

「いくら出せば足りる?」
「そうですねえ……。あまりお安くしてはかえって旦那様に失礼だ。金貨五枚ほどでいかがでしょう?」
「なっ!!」

男の提示した金額にグレティアは驚きの声を上げた。
いくらなんでもそんなにふっかけてくるとは思っていなかったからだ。

金貨五枚となれば、それなりの宿の一人部屋に一泊して腹一杯食べてもおつりがくるほどだ。グレティアが村で営んでいる宿ですら一晩一食付きで金貨一枚にも満たない宿泊料なのだ。それを上乗せ分として払わせようとするとは、この男は随分と面の皮が厚い。

「金貨五枚だな」
「ちょっ! シャルヴァ!?」

戸惑うグレティアをよそにシャルヴァが懐から小袋を取り出した。

「これだけあれば充分だろう。さっさと厩舎の鍵をよこせ」

金貨五枚以上は入っていそうな、見るからに重そうな小袋を、シャルヴァはなんのためらいも見せずに男へと差し出した。
男は素早い動作で小袋の中を確認すると、ほんの一瞬ぎょっとしたような表情を浮かべ、次いで小袋を懐へとしまい込んだ。

「鍵はこちらです。馬具は馬をつないでいるすぐ横にかけてありますので、今すぐお支度させていただきますね」

先ほどとは打って変わった態度をとる男はそう言いながら、近くの椅子にかけてあった上着へと手を伸ばした。

「支度は自分たちでやるから結構だ。鍵だけ渡せ」

しかし、シャルヴァが放った言葉で男の手が止まる。

「そんな……。旦那様のお手を煩わせるわけには……」

胸の前で手を摺り合わせながら男はそう渋ったが、シャルヴァの方は全く気にもとめない様子で、男の手から鍵をひったくるように奪うとすぐに背中を返した。

「そ、それでは、鍵は錠にさしたままでお願いします。あとで取りにいきますので」

シャルヴァがなにも答えないことから察したのだろう、男はそれだけ言うと寝癖でぼさぼさの頭を深く下げた。

「行くぞ。早くしろ」

シャルヴァと男のやりとりを呆然と見つめていたグレティアだったが、シャルヴァにそう声をかけられて慌ててシャルヴァのあとを追った。
宿屋の主人から預かった鍵で厩舎の鍵を開け、ゆっくりと扉を押し開けると暗い舎内で馬たちが小さくいなないた。

「起こしてごめんね」

グレティアはそう馬一頭一頭に囁きながら厩舎の中を進んだ。そうして奥から二つ手前のところで美しい鹿毛の馬を発見する。

「カディガーロ……」

そっと呼びかけると、カディガーロがぶるると鼻面を振った。

「急で悪いんだけどこれから村に帰るよ。おいで」

馬をとどめておく木枠をはずすとカディガーロはすんなりグレティアのそばに寄ってきた。
宿屋の主人が言っていたとおり、すぐ近くの壁に馬具がかけられているのを発見し、グレティアは手際よくカディガーロの背に鞍を取り付けた。
そうしてカディガーロの背にまたがると、そっとその首筋を撫でてやる。

「行きましょう……」

カディガーロに、というよりも自身に言い聞かせるためにグレティアは小さく呟いた。
薬草を持って村に帰れることは嬉しい。しかし、事が終われば、自分はシャルヴァとの約束を守らなければならない。
宿屋の主人に渡した金貨はいったいどこから出てきたのか? あれも魔力の成せるわざなのだろうか?
そもそも森から都まであっと言う間に移動したことを考えれば、ただの人間であるグレティアがシャルヴァに抵抗する術はない。

(私、いったいどうなるんだろ……)

勢い込んでシャルヴァの望みを叶えると言ってしまったものの、村に帰れることが現実味を帯びてきたら怖くなった。
そんなグレティアの気持ちが伝わったのか、カディガーロはまるでグレティアを気遣うようにゆっくりと進み出した。しかし、厩舎を出る直前でぴたりとその歩みを止める。

「カディガーロ?」

不思議に思ったグレティアがちらりと視線を上げると、ちょうど出入り口のところにシャルヴァが立っていた。

「それがカディガーロか。良い馬だな」

こちらをじっと見るシャルヴァの視線を受けたのか、カディガーロの耳がせわしなく動いていた。
警戒しているのだ。
動物の本能でシャルヴァが普通の人間ではないとわかるのだろう。

「大丈夫。危険はないよ」

首筋をそっと撫でてやりながらグレティアがそう言うと、カディガーロは一度ぶるりと鼻先を振り、再び歩き出した。

「こっちだ」

シャルヴァに促されて外に出ると、そこには森から都に移動したときと同じ不思議な楕円があった。
グレティアが厩舎に入っている間にシャルヴァが道をつなげておいたのだろう。
わずかな抵抗を見せるカディガーロを促し、グレティアは再び楕円をくぐった。

「ねえ。あなた、ずっと森の中で暮らしていたのよね?」

グレティアは後ろを振り返ってシャルヴァの顔を見た。
すると、グレティアの言葉を受けたシャルヴァはいぶかしげに眉を寄せる。

「それがどうした?」
「あのお金……。いったいどうやって?」

そう率直に疑問を投げかけると、一瞬だけシャルヴァは目を丸くし、すぐにふっと鼻を鳴らして笑った。

「幻影術だ。あの男には袋いっぱいの金貨に見えていただろうが、実際はただの石ころ。時間が経てば気がつくだろう」

あっさりと言ったシャルヴァの言葉にグレティアは呆れて目を丸くした。
あの宿屋の主人が最初に見せてきた態度を考えれば、袋一杯の金貨が石ころに変わればまず間違いなく憤慨するだろう。

「二度とあの宿には行けないわね」
「なんだ?」
「いいえ。なんでもないわ」

グレティアはため息混じりにかぶりを振ると、改めて前へと向き直った。

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