時忘れの森

牛乳紅茶

第十一話

屋敷を出ると、外はまだ夜の世界を広げていた。
ほうほう、と鳴く夜鳥の声とわずかな風の音が響く森はお世辞にも心癒やされる景色と呼べるものではなく、とても薄気味悪い。
グレティアは辺りに視線を巡らせたあと、隣に立つ男をちらりと見上げた。

「あの……。あなた、名前はなんていうの?」
「名前? 知りたいのか?」

グレティアの問いに男は心底不思議そうな顔をして小首をかしげた。
名前を訊かれたことが意外だったようだ。
男の反応に戸惑いながらも、グレティアは言葉を続けた。

「そ、そりゃあ、知らなかったら呼ぶときに不便だし、これから一緒に村まで行くんだからお互い名前くらい知っておいてもいいと思ったんだけど……。私はグレティア・ヴェッツよ」
「なるほど。そういうことか。――俺は、シャルヴァだ。シャルヴァ・アルヌルフ・クルト」
「シャルヴァね。よろしく。それと、篭と鞄は自分で持つわ」

グレティアは一つ大きく頷くと、男――シャルヴァへと手を差し出した。

「人間の男はこうするのが礼儀じゃないのか?」
「それ、さっきから言ってるけど、そんなの貴族とかそういった人たちの間だけよ。私には必要ない。それに……自分で持っていきたいから」

グレティアがそう言うと、シャルヴァはあっさり鞄と篭を手放した。

「ありがとう……」

元々は自分のものだったのだ。礼を言うのも多少変だと思ったグレティアだったが、小さく呟いて鞄と篭を受け取った。

(これでお母さんを助けられる)

篭の柄をぎゅっと握りしめ、グレティアはまぶたを閉じて村にいる母のことを想った。

「お前の村はどこにあるんだ? 道をつなげる」
「え?」

不意に問いかけられ、グレティアは目を開けた。

「道って?」
「ここから村までの道だ。急いでいるんだろう。用を済ませるなら俺も早い方がいい」
「ここからって……。まさか、すぐに帰れる魔術とかがあるの?」

シャルヴァの言葉から推測してグレティアはそう問いかけた。すると、シャルヴァはいぶかしげに眉を寄せ頷いた。
その表情はまるで、そんなことも知らないのか? と言いたげである。
グレティアはなんとなくむっときたが、余計なことを言ってシャルヴァの機嫌を損ねても困ると思い、視線をそらすことで苛立ちを堪えた。

「早く帰れるのはありがたいけど、都の宿にカディガーロ――馬を預けてきたの。だから、ここから村に直接っていうわけにはいかない」
「それなら馬のところに寄ってから、村に行けばいいわけだな」
「ええ。そうだけど……」

そんなに簡単にできるようなことなのだろうか?

(とりあえず嘘をついているようではないし、今は従っておいても大丈夫よね)

誰に問うでもなく心の中で呟きつつも、グレティアはシャルヴァの行動を見守ることにした。

そうして黙ってじっと待つグレティアの前で、シャルヴァはぶつぶつとなにか呪文のようなものを唱え、両の手を前に突き出すようにした。すると、それまでなにもなかった空間に奇妙なものが浮かび上がる。
それは、全身を映すことのできる大鏡に、ゆらゆらと波紋を広げる水面だけを切り取って貼り付けたような楕円状のものだった。
どうやらシャルヴァの言っていた〝道〟というものは、グレティアがよく知る通常の道とは形状のまったく違うもののようだ。

「こっちに来い」

シャルヴァがそう言ってグレティアの手首を掴んだ。
強く引っ張られ、グレティアの身体が奇妙な楕円へと近づく。

「――――っ!」

銀色を美しく煌めかせる楕円の表面に指先が触れそうになって、グレティアは緊張から身体を硬くした。

「ここを通り抜けろ」
「でも……」
「危険はない」
「ちょっ――!!」

グレティアの不安を読みとってかシャルヴァが簡潔に答えた。そして、彼は無情ともいえる力でグレティアの背中をどんと押した。
体勢を崩したグレティアは楕円の中央に頭から突っ込むこととなった。

◆ ◆ ◆

唐突に背中を押された勢いは簡単には殺せず、グレティアは楕円をくぐり抜けた先で前のめりに転がった。

「いっ……! ――っここは!?」

森の中とは違う石畳の地面が視界いっぱいに広がり、グレティアははっとして顔を上げた。
そこは先刻までいた濃い闇色の世界ではなかった。鬱蒼と茂る高木の姿も見えない。あるのは整然と並ぶ石造りの家屋だけだ。
空は変わらず夜の色を広げていてところどころで燦然と星が瞬いている。遠くに見える一際高い建物は、きっと王族の住まう宮殿なのだろう。
天に向かって尖った塔の横に弓を張ったような形をした月が煌々としている様は、なんとも幻想的な景色であった。
これまで実際に近くで王宮を見たことのなかったグレティアだが、緩やかな丘の上に建つロワナ宮殿が月を背にしたときの美しさは耳にしたことがあった。

「ついた、のね……?」

その壮麗な景色に見とれたまま、グレティアは小さく呟いた。
にわかには信じられなかったが、シャルヴァの言ったとおり瞬く間の出来事だった。

「危険はなかっただろう? ここは都の中央広場だ」

そう声が聞こえて、グレティアは後ろを振り返った。そこには偉そうに腕を組んで立っているシャルヴァの姿があった。
先ほどの奇妙な楕円は既に消えており、彼の背後には家屋が建ち並ぶごく普通の景色が続いている。

「それで、カディガーロ……だったか? お前の馬はどこにいるんだ?」

ぐるりと辺りを見回すような動作をして、シャルヴァが言った。

朝蜜亭あさみつていって宿に預けてあるの。ご主人がまだ起きてればいいんだけど……」

グレティアはのろのろと立ち上がって、シャルヴァと同じように周囲を窺った。
街中はしんと静まっており、住民たちがすっかり寝静まっていることを物語っているようだ。
今の時刻がどれくらいなのかわからなかったけれど、相当深夜だと言うことは月の傾きからなんとなく予想できた。きっと宿の主人も既に夢の中だろう。
グレティアはそう考えて小さく嘆息した。

「宿の主人が寝ていたらなにか問題があるのか? 起こせばいいだけの話だろう」

しかし、グレティアの心情などまったく頓着せずに、シャルヴァはこともなげにそう言った。
グレティアは驚きを隠さずにじっとシャルヴァを凝視する。

「そ、そんなこと……」

できるわけがない。と続けようとしたグレティアだったが途中で口ごもる。
睡眠を妨げてしまうことに良心は咎めるが、起こしてはいけないという法があるわけではない。宿屋の主人には悪いが母の命には替えられないのだ。

「そうね。行きましょう」

グレティアがそう結論を出すまで時間はかからなかった。

おぼろげな記憶を頼りに朝蜜亭までたどり着いたグレティアは裏口に回ると躊躇いがちに戸を叩いた。

「夜分遅くにすみません。今日、馬を預かっていただいた者ですが!」

控えめに声を張りながら戸を叩いていると、ほどなくして中から「なんだあ?」と不審がる男の声が聞こえてきた。
それから間もなく戸が開き恰幅のいい中年の男が顔を出す。その顔にグレティアは見覚えがあった。馬を預けるときに対応してくれた朝蜜亭の主人だ。
顔をくしゃくしゃに歪めたその男は眠そうに目元を擦りながらもグレティアと目を合わせてきた。

「お嬢さん、こんな夜更けにいったいなんの用だ? あいにく部屋は空いてないよ」

寝起きだからなのか、それとも単に忘れているのか、男はグレティアに気づいた風もなく寝間着の上から豪快に腹を掻きながらそう言った。
グレティアは慌ててかぶりを振り、宿屋の裏手にある厩舎を示した。

「予定が早まったので馬を引き取りに来ました。遅くに申し訳ないのですがお願いできませんか?」

そう告げて丁寧に頭を下げると、頭上から男の渋るような声が降ってくる。

「急に困るなあ……。――あんた、名前は? 本当にうちに馬を預けてんのかい? 最近は物騒だからね。馬を盗むために適当なこと言ってるんじゃないだろうな?」

次第に目が覚めてきたのだろう、男は最初よりもしっかりとした顔つきでちらちらとグレティアの背後に佇むシャルヴァへと視線を投げつつ腕を組んだ。

「私はグレティア・ヴェッツです。馬の名はカディガーロ」

男のとげのある言葉にむっとはきたが、グレティアは仕方なく素直に自分の名を口にした。

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