時忘れの森

牛乳紅茶

第七話

迷わないための頼みの綱だった目印はどうしたわけかもうない。
道をそれる前まであった意気込みも今ではすっかりしぼんでしまっている。

「どうしよう……」

木の根元で膝を抱えたグレティアは呆然として辺りを見回した。
どちらを見ても同じような景色が広がっている。

心なしか先ほどよりも薄暗くなってきた気がする。否、気がするのではない、間違いなく夜のかいなは伸びてきているのだ。力持たぬ人間をその懐に抱くため、穏やかにそっとその時間はやってくる。

「このままじゃ…………」

――森から一生出られない。

喉まで出かかった言葉をグレティアは直前で飲み込んだ。
音として発してしまったらそれが真実になってしまいそうだったからだ。それに、生きて帰れないかもしれないということを覚悟してここに来たのだ。今更、なにを言おうと現状は変わらない。

「魔物なんてただの言い伝え。見たことないもの。――怖くないっ! 出てこれるもんなら出てきてみなさいよ! 私は絶対にお母さんを助けるんだからっ!」

グレティアはぐっと身体に力を入れて立ち上がると、誰もいない森の奥に向かって大きく言った。

正直なところ不安と恐怖に押しつぶされそうだった。けれど、悪い方に考えれば考えるほど、かえってどこかにいるかもしれない魔物につけいる隙を見せてしまうようで嫌だったのだ。
服についた土埃を手で払ったあと、自分が進もうと思った方向を指さして確認する。
動いてもじっとしていても結果は同じ。ここは人々が避けて通るような場所だ。待っていても助けなど来るはずがない。ならば自分でどうにかしなければ――。

(なにもしないでいるよりはきっとましよ!)

そう思ったグレティアが歩き出そうとした瞬間。

「……?」

さわさわ、と梢が震えた。と同時、それまでまったく感じなかった異質な香りがどこかから漂ってくる。
グレティアは咄嗟に後ろを振り返った。
匂いの道がそこにあるかのごとく、グレティアにはっきりとそれが漂ってくる方角がわかった。

――連甘草の花は強い芳香を放つ――。

ルステンからもらった羊皮紙にそんなことが書いてなかっただろうか?

グレティアはすぐに握りしめていた羊皮紙に目を走らせる。すると、確かに連甘草の花の特徴としてもぎたての苺のように甘い香りがすると書いてある。
今、鼻先をかすめている香りがまさにそうだ。

(間違いない。きっとそうだ)

グレティアはすぐに行こうとしていた方向とは逆へと足早に歩き出した。
進行を妨げる細い枝を手で避け、背の低い茂みをまたいでいく。
香りが強くなればなるほどグレティアの足取りは軽くなった。

ほどなくしてグレティアの前方に木々以外のものが見えてきた。
白い壁と赤茶の屋根だ。

「これ……」

次第にその全貌が明らかになった時、グレティアは瞳を大きく見開いた。
青紫色の空を背景にした白亜の洋館。
汚れ一つ無い白壁に森の緑がよく映えている。

グレティアはよく見えるよう近くまで歩を進めてその屋敷を見上げた。

「……どういうこと?」

二階建ての屋敷の高さは周りの木と同じくらいか、それより少し低いくらいだ。カーテンはぴっちりと閉められているため中の様子までは窺えない。
誰かが暮らしている気配は感じられないが、それにしては屋敷の外観が随分と綺麗だ。閉ざされた森の中にある屋敷にしては不自然で気味が悪い。

「有り得ない……」

グレティアはそうぽつりと呟いて一歩後じさった。

美しい外観は間違いなく誰かが手入れしているからだ。しかし、ここは近隣の者ですら近づかない森の中。いったい誰が暮らしているというのだ。
グレティアはそんな疑念を抱きながら逡巡し、けれど、ぐ、と奥歯を噛みしめた。

「――望むところよ。行ってやる」

意思を強く持って、後ろに下げてしまった足を前へと出す。

この先は良くない。やめた方がいい。と本能が警鐘を鳴らしている。しかし、花の香りは屋敷の方からしてくるのだ。ここまできて諦めるわけにはいかない。
じっとりとした土を踏みしめるたび、足裏から腰のあたりへなんとも言えぬぞわりとしたものが駆け上った。

◆ ◆ ◆

洋館の庭――といっても立ち並ぶ高木と同化するように建っているため、どこからどこまでが庭なのかは判別出来なかったのだが――とにかく庭にあたるであろう所までグレティアはやって来た。そして、あっと息を呑む。
最初よりも強烈な芳香。
視界に白く淡い光の群れが飛び込み、グレティアは思わず感嘆のため息を漏らした。
薄闇の中、地面いっぱいに広がった白い花が浮かび上がる。
光りに見えたのは花弁だったのだ。
花畑と呼ぶには狭いけれども、時折吹く風に花たちは一斉に小さな花弁を揺らす。その様はとても幻想的で、優美にさえ見えた。
グレティアはその情景に見とれ、直後はっと我に返った。
ぼうっとしている場合ではない。
自分の目的を一瞬でも忘れてしまったことを深く自省する。そして、花を踏まぬように膝を折りそっと手を伸ばした。

「これがあれば――……ごめんね」

グレティアは花に一言告げたあと、その小さな葉を丁寧に取っていった。
それを数十回と少しくり返した頃、持ってきたかごの中は緑の葉でいっぱいになった。
これだけあれば母の症状が良くなるまでは困らないだろう。

「あとは村に帰るだけだけど……なんだかうまくいきそうな気がする、うん」

グレティアはかごの中を見て満足すると、視線の先を頭上へと移す。
丸くひらけた空は闇色に染まっていた。星々は燦然と瞬き、太陽と交代した月が夜の世界を照らしている。

夜のとばりがおろされたのだ。

グレティアは肩から提げていた鞄の横に吊してある角灯を手にすると、中の綿糸に火をつけた。
仄明るい光りが辺りをぼんやりと照らす。
とりあえずこれで暗闇を回避することは出来るが、灯火だけで森から出る道を探すのは心許ない。

(明るくなってからの方がよさそうね)

グレティアはかごを手に立ち上がり、背後に建つ屋敷の方へと向き直った。
気味が悪いと思った洋館だが、明日の朝――いや、せめて日が昇るまでここに留まるのならば屋根のある場所の方がいい。

(大丈夫。魔物なんていやしない)

そんな風に思いながら、グレティアは屋敷の玄関扉の前まで行った。
連甘草を手に入れてほんの少し気持ちが大きくなっているのかもしれない。
扉をしばらく見つめたあと、真ん中より少し上の位置に輪の形をした黄金色のたたき金がある。そのまた少し上には二匹の竜が互いに向き合う姿が彫られた紋章のようなものがあった。

グレティアは緊張を誤魔化すために口内の唾液をゴクリと嚥下し、ゆっくりとたたき金に手を伸ばした。
闇の濃くなった世界に扉を叩く音が吸いこまれるように消えていく。あとに残ったのは風が梢を揺らす音だけ。

「誰もいないみたいね」

返事もなく、誰かが出てくる気配もしないことがわかると、グレティアは安堵のため息をついた。

「――開いてる?」

そっと扉の取っ手に触れてみるとそれはすんなりと下がった。
鍵はかかっていない。
ゆっくりと慎重に扉を引くと、キイ、とかすかに軋んだ音が立った。
わずかに開けた隙間からグレティアは中の様子を窺うために角灯をかざしてみた。
暗い室内。物音一つしない。どうやら本当に誰もいないようだ。

「やっぱり、いないわね」

グレティアは呟きながら更に扉を開ける。
隙間を少しずつ広げて自分が充分入れるだけに開いた頃、グレティアの中で恐怖心よりも好奇心の方が勝っていた。
室内に足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。

「思ってたよりも中は普通……というより、見かけよりずっと汚いわ」

角灯で周りを確認すると、どこもかしこも埃だらけだった。
家である以上、以前は使われていたと思われる家具にかけられた布も薄汚れて黄ばんでいる。天井と壁の境目にはクモの巣がはり、その巣にまで埃の塊がひっかかっている。
外観の清潔さからは想像も出来ないほど、内部は傷みきっていた。
グレティアが歩くたびに床の埃が舞い上がり、歩いた所だけ埃がなくなるためその足跡がくっきりと残るほどだ。
グレティアはその廃墟に近い状態にげんなりと顔を歪め、周りを色々と観察し始めた。

「中を最初に見ていたら誰かがいるかもなんて怯えたりしなかったわ。それにしても、ほんっとうに汚いわね」

部屋の中をさまよいながらぶつぶつと文句を言っていたグレティアだが、途中ではっとして手巾を取り出すと、連甘草の葉が入ったかごの上にかけた。せっかく採った薬草が埃でダメになったら困ると思ったのだ。

「これでよし、と」

かごを持ち直して改めて周囲を見回す。すると、玄関から入って右側の奥に階段が見えた。

「二階もこんななのかしら?」

階段を見つめてそう言った後、小さくかぶりを振った。
夜明けまで休むだけなのだから、わざわざ二階の様子まで見に行く必要はない。それに一階がこんな現状なのだ。大体の想像はつく。行った所でここと同じだろう。
グレティアは足下に角灯と篭を置き、肩から鞄を下ろした。そして、近場の長椅子にかかっていた布を掴んで持ち上げる。

「う、わっ……。すごいほこりっ!」

途端、辺り一面に埃が舞い上がる。
長い年月を感じさせる臭いがして、グレティアは片手で口元を押さえると眉根を寄せた。
埃を吸いこまぬよう出来る限り呼吸を抑えて、長椅子の上を今度は手で軽く払うだけに留める。

「ふう。これでも地面で寝るよりはいいわ」

長椅子に腰を下ろしたのち、二、三度手を擦り合わせついた埃を落とした。

「我慢、我慢」

うんうん、と自分に言いきかせるように呟く。
あれだけの埃が積もっていたのだ。さすがに長椅子の上に寝転がる気にはなれず、埃で白く汚れた黒い布が張られた背もたれに背中を預けるだけにする。
体勢を少し変えると長椅子はまるでやめてくれと言っているかのようにきしんだ音を立てた。

「ふあ……。ドアも閉まってるし、少しくらいなら……」

欠伸がこみ上げて、まなじりに滲んだ涙をグレティアは指先で拭う。そのあと、ちょっと前から重くなり始めていた目蓋をおろした。

目をつむったまま、色々なことを考える。
村にいる母の容態。森から出る手段。そして、母が元気になったら何をしようか? など次々と思い浮かべた。
座り心地の悪い長椅子だったけれども、疲れ切ったグレティアの身体にはそれでも充分だった。
宙に躍り出た木の葉が地面に着地するときよりも穏やかに、グレティアは眠りの中へと落ちていった。

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