時忘れの森

牛乳紅茶

第六話

グレティアがサプンルングを発ってから二日。

途中、街道沿いの町の近くで二度野宿をし王都アーゼンまでたどり着いたグレティアは数ある宿屋の中から比較的安い宿にカディガーロを預けた。
人々から〝時忘れの森〟と呼ばれ、恐れられている場所の近くに馬をつなぐことは躊躇われたのだ。

「よし」

そうして森の前までやってきたグレティアは、拳をきつく握りしめ小さく頷いた。
ほんの数歩進めば、そこはもう森の中だ。
高木が鬱蒼と茂る森を一度睨むように見つめ、いざ足を出そうとしたそのとき。

「あんた、なにやってるんだい?」

背後から女性の声が聞こえた。
グレティアが振り返ると、数歩離れた先に三十代中頃ほどだろうか、飴色の髪を短く刈り込んだ女性が一人立っている。その背に大きな荷を背負っていることから、都の市にやってきた商人かなにかなのだろう。

「その森は良くない。近づいちゃいけないよ!」

女性は慌てた様子で叫び、こっちに来いと言うようにグレティアに大きく手招きしてくる。
しかし、グレティアは応じずにただ首を横に振り、再び森の方へと視線を戻した。
魔物が棲んでいる森だということは生まれ育った村でも散々聞いた。
行くことを繰り返し反対されたのだ。きっとまたここでも同じことを聞かされるのだろう。

「魔物がいるんですよね」
「知ってるんだったらなんだってそんなとこにいるんだい? 魔物に喰われちまうよ! 早くこっちに――」

女性の声を背中に受けながらグレティアは躊躇無く歩を進めた。

「ちょっとっ! この辺の者でさえ、旅してる商人たちだって絶対に入らないんだよ! お待ちったらっ!」

最初よりもずっと大きな声が聞こえてきたが、追いかけてきてまで引き留める気はないようだ。グレティアに戻る様子がないことがわかれば、きっと彼女もこの場をあとにするだろう。

(行かなきゃいけないんだもの)

グレティアが足を進めるごとに、女性の声もだんだんと小さくなっていった。それがとうとう聞こえなくなった頃、森の奥へと続く細い獣道へと出た。

(大丈夫。道に沿っていけばいつでも戻れる。迷うことはない。連甘草を見つけたらさっさと外へ出ればいい)

果たしてこの道が正しいのかどうか、グレティアに判断することは出来なかった。それでも出来る限り明るく考えて辺りをしっかり見回しながら歩く。

野草や羊歯が生える地面や苔むした岩に気を配りながら、白い花を咲かせるという連甘草を必死で探した。

(魔物なんて怖くない。怖いのは――)

大好きなお母さんがいなくなってしまうこと。

そう思ったら靴底から伝わる湿った土がいやに冷たく感じた。いや、土だけじゃない。辺りにもひんやりと冷気すら漂っているような気がする。

――誰かに見られてる?

ほんの一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。

「まさか! そんなわけない。怖くない! 怖くないったら!!」

グレティアは嫌な予感を払拭するべく今度は大きく声に出しかぶりを振った。そして、目当ての白い花を探すことに改めて集中する。

(闇雲に探したって見つからない。ヒケル先生は日陰の湿った所に生えるって言ってた)

グレティアはズボンのポケットからルステンにもらった連甘草について記された羊皮紙を取り出した。
読み書きを本格的に学んでいないグレティアのことを考えてくれたのだろう、ルステンからもらった連甘草の特徴と花の図は、グレティアにも読める簡単な単語のみで構成されていた。
花は強い芳香を放つ。もぎたての苺のような香り。と書かれた横に、五枚の花弁の愛らしい花の図が描かれている。
花軸から伸びた枝には丸い小さな葉が重なるようにたくさんついており、薬草として必要なのは葉の部分だと記されていた。

(白い花、白い花……)

花の図と地面を交互に見てそれらしい植物がないかと探すが、グレティアの願いとは裏腹に目にはいるのは柔らかそうな黒土と名前もわからない植物ばかりだった。

(……こんなところにはないのかもしれない)

木のうろを覗き込むこと数回目でグレティアは視線の先を下から上へと移した。
グレティアの翠の瞳が見つめる先は道からはずれた森のずっと奥だ。
獣が通って土を固めた道に珍重な薬草は無い。

グレティアは根拠もなくそう思った。そんな風に思い始めてから、自分の考えが間違っていないと確信するまで時間はかからなかった。

(目印を付けていけば平気。危なそうだったらすぐに戻ればいい。とにかく、今は早く見つけなきゃ)

グレティアはきつく拳を握りしめ、深く息を吸いこんだ。
湿った土の匂いや緑の薫りが鼻腔を刺激する。その後、ゆっくりと息を吐き出して決意を固めるために大きく頷いた。

「よし」

グレティアは道からそれた先をじっと見据えその一歩を踏み出した。

◆ ◆ ◆

どこかで鳥の羽ばたく音が聞こえた。
グレティアはその音に一度顔を上げるが、すぐにまた下を向いた。

(痛い……)

歩き通しで痺れたふくらはぎをズボンの上からそっとさする。枝などに引っかけたのか所々綻びていた。同じような細かい傷が腕にもある。
今の自分を鏡に映したならば、随分とみすぼらしい姿になっているに違いない。

(恰好なんてどうだっていい。頑張らなきゃ)

心の中で自分を奮い立たせ、持っているかごを掴む手に力を込める。
そう、休んでいる暇はないのだ。
少し先に進んで腰ほどの高さの茂みを掻き分ける。そしてその下を覗き込んだ。
この行為を先刻からもう数十回とくり返している。

(――もうすぐ日が沈む。早くしなくちゃ)

藪の中。木の根元の影の濃くなった部分。太い幹に出来たうろ。隅々まで目を配るが、そのどこにもグレティアの目当ての物はなかった。

(こんな奥まで来たのに)

グレティアは、はあ、と一つ息を吐き出した。そしてついと視線を上へと向ける。
ここにくるまでずっと下ばかり見て歩いていたせいで首の筋がひどく痛んだ。そのまま背筋を伸ばすと腰の後ろ辺りがミシミシと嫌な音を立てる。
上げた視線の先に見えるのは、悠々と腕を広げ外界を隠さんばかりに背を伸ばした樹木達。枝の隙間から見える空は徐々に藍色を濃くしている。
と、そこでグレティアは目の前に広がる森の景色に違和感を覚えた。
辺りに視線を巡らせたあと、あっと小さく呟き、青ざめる。

今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、奇妙なことを発見してしまったのだ。
どの木のどの枝にも、生命力溢れる深緑の葉が生い茂っていることだ。

(おかしいわ……)

季節はりょうせつ。本当ならば、木々たちは葉を色づかせ来たるべく寒さから身を守る準備をしていなければならないはずだ。

鬱蒼と茂る森が今にも自分を飲み込もうとしているように見えて、グレティアはぶるりと身体を震わせた。

(弱気になっちゃダメ。大丈夫、大丈夫。ちゃんと――)

ここに来るまで、迷わぬよう木の幹に目印を彫ってきた。それを辿って戻れば森から出られるはずだ。

「印を……」

不安をかき消すために後ろを振り返ったグレティアはそこで愕然とした。

「そんなっ!?」

グレティアはすぐさま先刻目印をつけた木の傍まで駆け寄ると、その表面に手を当て目をこらした。

「ない、ない、ないっ! どうしてっ!?」

最後に印を彫ったのは確かにこの木だった。本当に今し方の出来事だ。しかし、木の幹には自然にできた細かい傷はあれど、小刀を立てた新しい傷はない。

「うそ、でしょう……?」

グレティアはその場に力無く崩れ落ちた。
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたような気分だ。
間もなく辺りは闇に包まれる。
今のままでは連甘草を見つけるどころか、森から出ることも叶わない。

(この森にはやっぱり魔物がいるの……?)

グレティアの頭の中で森に行くのはやめた方がいいと言っていた人々の声が木霊した。

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