時忘れの森
第五話
ほどなくしてロレンツが連れてきた馬は美しい鹿毛の立派な体躯をした――一目で充分な世話をされているとわかる――雄馬だった。
納屋で馬装を整えてきてくれたのだろう、雄馬には鞍も轡もしっかりとつけられていた。
いつ見ても酒ばかり飲んでいるロレンツが馬の手入れをしっかりやっていることが意外で、グレティアはほんの少しだけ目を丸くしてしまった。
「名前はカディガーロだ。気性は穏やかだが脚は保証する」
「ありがとうございます」
ロレンツから手綱を受け取ったあと、グレティアは馬の円らな瞳をじっと見つめた。
「よろしくね、カディガーロ。大丈夫。なにもしないわ」
そう声をかけると、馬は一度鼻を鳴らして大きく首を振った。けれど、その耳がしっかり横に開いているのを見て、ようやくグレティアは手を伸ばしてその首を優しく撫でてやった。
馬の耳が横に開いているときは気持ちが落ち着いている証だ。
犬が尾で感情を表すように、馬は耳で表現するのだ。
幼い頃から宿の手伝いをしてきたグレティアは、旅人から馬の扱い方を教えてもらう機会に恵まれた。馬にどうやって触れるかだったり、手入れの仕方から馬具の取り付け方、そして、乗り方だ。
それが今、こんなときに役に立つとは想像もしていなかった。
「本当に良い子ですね。ありがたくお借りします」
ひとしきり毛並みにそって撫でたあと、グレティアは改めてロレンツの方を見た。
「ああ。気をつけて行けよ。最近はすっかり寒くなった。上着を持っていった方がいい」
グレティアは軽く会釈したあと、カディガーロを伴って家路についた。
◆ ◆ ◆
連れてきたカディガーロを客用厩舎につなぎ、グレティアは旅の支度をするために自室へと向かった。
宿屋兼住まいとなっているグレティアの家は一階が食堂、二階が客人たちの宿泊部屋となっており、グレティアの部屋は食堂奥の厨房を抜けた更に奥にある。
厨房の貯蔵庫で燻製肉や乾燥パンを適当に見繕い、廊下を進んで自分の部屋に行こうとしたグレティアだったが途中で足を止めることになった。
ベルの高い音が耳に届いたためだ。
それは玄関も兼ねている食堂の出入扉につけている呼び鈴の音だ。
グレティアは抱えた食料を調理台の上に置き、再び食堂の方へと戻った。
「すみませんが、宿の方はしばらくお休みにさせていただき――リバルト!」
事情を知らぬ旅人が宿泊のために来たのかと思っていたグレティアは、出迎えたそこにリバルトの姿を見つけて驚きの声を上げた。しかし、すぐにリバルトの手に丸められた羊皮紙を発見し納得する。
ルステンがあとで連甘草に関することを記して届けさせると言っていたことを思い出したからだ。
「父から君に渡すようことづかった」
「ありがとう」
グレティアはリバルトに歩み寄るとそう礼を言って、羊皮紙を受け取ろうと手を伸ばした。しかし、リバルトはそれをきつく握りしめたままだ。
「リバルト?」
不思議に思ったグレティアは小首を傾げて、リバルトを見上げた。
「本気であの森に行くつもりなのかい?」
訪ねられて、グレティアは一瞬躊躇ったあと正直に頷いた。ルステンから大体の話を聞いているはずだ。嘘をつく必要性はない。
「連甘草が手に入る可能性が高いそうだから」
「…………よした方がいい。やめるんだ。あの森が特別なのは、森に入った者が廃人同然となって帰ってくるからだ。記憶も感情も失った者の罪を問うことはできないから――。とにかくそんな場所に君を行かせたくない。僕が……いや、父と僕が必ず救ってみせるから」
そう言ったリバルトの顔はひどく真剣だった。いつもは冷たく見える灰紫の瞳にすら熱が籠もっているかのようだ。
もっと別の形でこの美貌の青年と対峙していたならば、グレティアも少しは動揺しただろう。けれど、今のグレティアには確固たる目的がある。
「ごめん。それでも行くだけ行ってみる」
グレティアはそう言ってそっとうつむいた。すると、頭上からリバルトの小さなため息が降ってくる。
再び目を合わせれば、こちらが諦めるまで森に行くのを反対されるのだろう。
そう予想できて、グレティアはそのまま顔を上げずにいた。
束の間の沈黙。三拍ほどの間を置いてリバルトの手が近くの卓の上に置かれるのが垣間見えた。それでもグレティアは頑なに下を向き続けていた。
「なにを言っても気持ちは変わらないんだね」
吐息混じりの呟きが耳に届き、グレティアはほんの少しだけ視線を上げた。そこで、先刻リバルトが手を置いた卓の上に丸められた羊皮紙があるのが見えた。
グレティアがはっと顔を上げると、既に彼はこちらに背を向けていた。
「ごめんっ、ありがとう」
「君がこんなに頑固者だとは知らなかったよ。気をつけて……」
グレティアが礼を言うと、リバルトは少しだけ振り返ってにこりと笑った。そして、軽く手を振って出て行った。
淡い金髪が徐々に遠くなる様を窓からしばし見つめたあと、グレティアはきびすを返し出かける支度をするべく自室へと向かった。
納屋で馬装を整えてきてくれたのだろう、雄馬には鞍も轡もしっかりとつけられていた。
いつ見ても酒ばかり飲んでいるロレンツが馬の手入れをしっかりやっていることが意外で、グレティアはほんの少しだけ目を丸くしてしまった。
「名前はカディガーロだ。気性は穏やかだが脚は保証する」
「ありがとうございます」
ロレンツから手綱を受け取ったあと、グレティアは馬の円らな瞳をじっと見つめた。
「よろしくね、カディガーロ。大丈夫。なにもしないわ」
そう声をかけると、馬は一度鼻を鳴らして大きく首を振った。けれど、その耳がしっかり横に開いているのを見て、ようやくグレティアは手を伸ばしてその首を優しく撫でてやった。
馬の耳が横に開いているときは気持ちが落ち着いている証だ。
犬が尾で感情を表すように、馬は耳で表現するのだ。
幼い頃から宿の手伝いをしてきたグレティアは、旅人から馬の扱い方を教えてもらう機会に恵まれた。馬にどうやって触れるかだったり、手入れの仕方から馬具の取り付け方、そして、乗り方だ。
それが今、こんなときに役に立つとは想像もしていなかった。
「本当に良い子ですね。ありがたくお借りします」
ひとしきり毛並みにそって撫でたあと、グレティアは改めてロレンツの方を見た。
「ああ。気をつけて行けよ。最近はすっかり寒くなった。上着を持っていった方がいい」
グレティアは軽く会釈したあと、カディガーロを伴って家路についた。
◆ ◆ ◆
連れてきたカディガーロを客用厩舎につなぎ、グレティアは旅の支度をするために自室へと向かった。
宿屋兼住まいとなっているグレティアの家は一階が食堂、二階が客人たちの宿泊部屋となっており、グレティアの部屋は食堂奥の厨房を抜けた更に奥にある。
厨房の貯蔵庫で燻製肉や乾燥パンを適当に見繕い、廊下を進んで自分の部屋に行こうとしたグレティアだったが途中で足を止めることになった。
ベルの高い音が耳に届いたためだ。
それは玄関も兼ねている食堂の出入扉につけている呼び鈴の音だ。
グレティアは抱えた食料を調理台の上に置き、再び食堂の方へと戻った。
「すみませんが、宿の方はしばらくお休みにさせていただき――リバルト!」
事情を知らぬ旅人が宿泊のために来たのかと思っていたグレティアは、出迎えたそこにリバルトの姿を見つけて驚きの声を上げた。しかし、すぐにリバルトの手に丸められた羊皮紙を発見し納得する。
ルステンがあとで連甘草に関することを記して届けさせると言っていたことを思い出したからだ。
「父から君に渡すようことづかった」
「ありがとう」
グレティアはリバルトに歩み寄るとそう礼を言って、羊皮紙を受け取ろうと手を伸ばした。しかし、リバルトはそれをきつく握りしめたままだ。
「リバルト?」
不思議に思ったグレティアは小首を傾げて、リバルトを見上げた。
「本気であの森に行くつもりなのかい?」
訪ねられて、グレティアは一瞬躊躇ったあと正直に頷いた。ルステンから大体の話を聞いているはずだ。嘘をつく必要性はない。
「連甘草が手に入る可能性が高いそうだから」
「…………よした方がいい。やめるんだ。あの森が特別なのは、森に入った者が廃人同然となって帰ってくるからだ。記憶も感情も失った者の罪を問うことはできないから――。とにかくそんな場所に君を行かせたくない。僕が……いや、父と僕が必ず救ってみせるから」
そう言ったリバルトの顔はひどく真剣だった。いつもは冷たく見える灰紫の瞳にすら熱が籠もっているかのようだ。
もっと別の形でこの美貌の青年と対峙していたならば、グレティアも少しは動揺しただろう。けれど、今のグレティアには確固たる目的がある。
「ごめん。それでも行くだけ行ってみる」
グレティアはそう言ってそっとうつむいた。すると、頭上からリバルトの小さなため息が降ってくる。
再び目を合わせれば、こちらが諦めるまで森に行くのを反対されるのだろう。
そう予想できて、グレティアはそのまま顔を上げずにいた。
束の間の沈黙。三拍ほどの間を置いてリバルトの手が近くの卓の上に置かれるのが垣間見えた。それでもグレティアは頑なに下を向き続けていた。
「なにを言っても気持ちは変わらないんだね」
吐息混じりの呟きが耳に届き、グレティアはほんの少しだけ視線を上げた。そこで、先刻リバルトが手を置いた卓の上に丸められた羊皮紙があるのが見えた。
グレティアがはっと顔を上げると、既に彼はこちらに背を向けていた。
「ごめんっ、ありがとう」
「君がこんなに頑固者だとは知らなかったよ。気をつけて……」
グレティアが礼を言うと、リバルトは少しだけ振り返ってにこりと笑った。そして、軽く手を振って出て行った。
淡い金髪が徐々に遠くなる様を窓からしばし見つめたあと、グレティアはきびすを返し出かける支度をするべく自室へと向かった。
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