時忘れの森

牛乳紅茶

第一話

「グレティア! 大変だっ!!」

その日の朝早く、唐突に店の扉が開いたかと思うと男が一人飛び込んできた。
『花追い亭(はなおいてい)』の一人娘、グレティア・ヴェッツは丁度食堂で開店前の準備をしていたため、突然の訪問者にぎょっと目を見開いた。
男はこの村で唯一の医者であるルステン・ヒケルの息子、リバルトだった。

彼はグレティアよりも二つ年上の一八歳で、若いながらもルステンの助手として多くの患者を救ってきた実績がある。その上、長身に整った顔立ちということもあり村に暮らす年頃の少女たちの憧憬のまとであった。

店に飛び込んできたリバルトは淡い金髪を乱し、寒(かん)の節(せつ)が間近に迫った涼しい日だというのに、その額に汗のつぶをいくつも浮かばせていた。その姿はいつも落ち着いた態度を崩さない彼とは別人のようで、けれど同時に、彼がどれだけ急いでこの場にやってきたのかが窺えた。

「どうしたの?」

リバルトの尋常ではない慌てように、グレティアは怪訝に眉を寄せ小首を傾げた。

「ネ、ネリーゼさんが……。君のお母さんが、赤拷しゃくごうに咬まれたんだ……っ」
「っ!」

膝に手をついて荒い呼吸を繰り返すリバルトの言葉に、グレティアは手にしていた硝子杯を落とした。
すぐに硝子の割れる音が耳朶を打ったがそれどころではない。

赤拷とは強い毒を持つ害虫のことだ。
体は細長い扁平で、大きな顎を持つ頭部と多数の環節が連なる胴部から成っている。その長さは大人の肘から指先ほどもあり、環節ごとにある一対の脚を使ってぞろぞろと動く様はひどく気味が悪い。

赤拷に咬まれるとその箇所は大きく腫れ上がり、腫れが治まると今度は身体中に発疹が出てくる。そうして数日、発疹の痛みと熱にうなされたあと死に至るのだ。

〝赤拷〟という名は、赤く腫れ上がる患部と拷問の様に痛みに苦しみ楽に死ねないことからつけられたと言われている。

「本当に赤拷だったのっ!? 最近はずっと出ていなかったのに……っ!!」

床に散らばった破片などお構いなしでグレティアはリバルトに詰め寄った。

本来、赤拷はこの地方に生息していない毒虫だ。しかし、近年――ここ五年ほど、年に一、二度の頻度で村の中から被害者が出ている。
住民達の間では、街道沿いに位置する村なため旅人の荷物に紛れ込んだ赤拷が人を襲っているのではないかと噂されていた。
リバルトとその父であるルステンの早い処置により今のところ死者が出ていないことがせめてもの救いだ。

「そんな……。お母さんが……」

物心つく前に父親を亡くしたグレティアにとって母親は唯一の肉親だ。
その母が赤拷に襲われたなど信じたくない出来事だったし、自分の母親がごく希に出る毒虫の被害に遭うなど想像もしていなかった。
呆然とするグレティアの目の前で、リバルトが呼吸を整えるといつも通りの落ち着いた物腰で額の汗を拭いながら顔を上げた。

「ネリーゼさんとは広場の井戸の前で会ったんだ。それで、急にしゃがみ込んだからどうしたのかと思ったら足下から赤黒い虫が這い出してきた。あれは赤拷だったよ。咄嗟に近くにあった棒で叩き殺して、その死体を父に見せて確かめてもらったから間違いない」
「お母さんはどこ……?」
「僕の家に運んだ。今は父が診てる。とりあえず、今後の話もしたいから僕と一緒に来て欲しいんだけど――。大丈夫?」

リバルトの声を耳に留めながらも、グレティアは別のことを考えていた。
もし、母に万が一のことがあったら――。

思考が悪い方へと向かいそうになって両拳をきつく握りしめる。そうでもしていなければ身体全体が震え出してしまいそうだったのだ。

「グレティア? 今すぐが無理なようなら、またあとで迎えに来るけど……」
「ううん、大丈夫。行くよ」

リバルトに頷いて見せたあと、グレティアは前掛けを外し投げ捨てるように椅子にかけた。

◆ ◆ ◆

グレティアが暮らす、ここサプンルング村はロワナ国の東国境近くにある、農業と鑑賞花の生育を中心にささやかな収入を得ている小さな村だ。
村の中央広場から北の街道へと伸びる通りに診療所を兼ねた医師ルステンの家はある。
診療所のほど近くまで来ると、グレティアはリバルトを追い越しその白壁の家屋へ駆け寄った。

「先生っ! ヒケル先生っ。グレティアですっ!」

玄関扉を強く叩くと、中から返事があるより先に、後ろからやって来たリバルトの手が伸びてくる。

「大丈夫。開いてるよ」
「……ありがとう」
「父さん。グレティアを連れてきたよ」

リバルトがそう中に向かって声をかけると、奥から壮年の男性が一人現れた。
ルステン・ヒケル医師だ。清潔そうな白い襯衣を纏った彼は袖をまくり上げながら険しい表情を浮かべていた。

「先生、母はっ!?」
「今、奥の部屋に寝かせたところだ。ロレンツがついてる」

ルステンの口にした名を耳にして、グレティアはぴくりと眉を上げた。
ロレンツ・ブラフィーとは、村はずれに住んでいる中年の男だ。
昔は剣士として各地を旅していたらしいが、足の怪我がもとで廃業してからはサプンルングに住み着き、ただの飲んだくれへと落ちぶれた。毎日のように花追い亭にやってきては遅くまで居座り、酔いつぶれ、最終的には母に介抱されて帰って行く。

(あの酔っぱらい、なにしに来たのよ)

グレティアはルステンに一礼したあと示された部屋へ足早に歩を進め強く扉を叩いた。すぐに中から聞き覚えのある酒灼けした掠れた声が返ってくる。
グレティアは更にきつく眉を寄せ勢いよく扉を開けた。

「失礼します」

グレティアが中に入ると、ロレンツは寝台の傍らに置かれた椅子に座っていた。

「ブラフィーさん、ありがとうございます。お世話様でした」
「――俺はなにもしてねえよ」

こちらを見もせずに、ロレンツは寝台の上に横たわる母に視線を定めたままそう答えた。

「診療所の前を通りかかったら、ちょうどネリーゼさんが運び込まれるところで……。なにも出来なかったんだ……」
「こうして母の傍にいて下さっただけで充分です」

母をじっと見つめるロレンツの横顔から目を背け、グレティアは寝台の前に進みでた。
胸中を吐露できるとしたら感謝の気持ちなど微塵もなかった。心の中にあるのは一刻も早くロレンツをこの部屋から追い出したいという想いだけだ。

グレティアはこの男のことが大嫌いなのだ。
酔っぱらった姿もみっともないと思っていたし、手入れをしているのか? と問いたくなるようなぼさぼさの髪や無精髭も見るに堪えない。
出来ることならこうして会話することも極力少なくしたいくらいだ。

「あとは私がやりますから、どうぞお帰り下さい」

視線を合わせずにそう告げると、ロレンツはこちらの態度に思うところがあったのか小さく咳払いをした。しかし、特になにか言うわけでもなく彼は静かに立ち上がった。
そのまま部屋を出て行くロレンツを横目に、グレティアは寝台に横たわる母の明るい栗色の髪に手を伸ばした。

「お母さん……」

目を閉じている母の顔は不自然なほど穏やかだった。
そう、まるでこのまま永遠に目覚めないのではないかと思うほどに――。

「――お母さんっ!」

ほんの刹那胸の内をよぎった不安から、グレティアは最初よりも声を張って母を呼んだ。

「痛み止めの浸煎薬の効き目で眠ってるだけだよ」

背後からの声にグレティアははっと振り返った。
そこには渋い顔をしたルステンが立っていた。

「赤拷に咬まれたっていうのは本当なんですか? 母は……助かるんですよね?」
「毒を抜いて応急処置はしたが正直思わしくない。落ち着いてこれを見て欲しい」

ルステンがそう言って寝台へと一歩踏み出す。そして、母にかけてある白い上掛けの足の方を少しだけまくった。
直後、グレティアは大きく息をのみ両手で口元を覆った。

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