悪役令嬢を目指します!
遊戯の始まり
彼に名前はなかった。
実の両親とは生まれたときに別れ、育ててくれた者は彼に名を付けることなく亡くなった。
彼は自分がどういう存在なのか、どうして両親と離されたのか、すべてを知っていた。
それでも父親に会ったのは、ほんの気紛れだった。死んだと思っている息子が目の前に現れたらどう反応するのか。
それが気になっただけにすぎない。
彼には美しい花を愛でる心も、青く茂る草木を眺める穏やかさも持ち合わせていた。
しかし彼の生まれがそれを許しはしなかった。
父親は話をした後に息絶えた。
彼が近づけば花も草も枯れた。
彼は――
「キミ、魔王って呼ばれてるらしいよ」
最初はすべての殲滅を命じていた彼だったが、ある日ふと生存者を残すように命じた。そして生き残った者は彼らのことを人の王に伝え、魔族と、そして魔王と彼らを呼ぶようになる。
「なるほど、魔の王か。期待に応えるためにもそれに相応しい振る舞いを心がけるべきかな」
「十分だと思いますけど」
「さて、私、僕、俺、余、朕――そうだな、我などがいいか」
「うわあ、人の話を聞いてくれません」
「んなもん今更だろ」
「魔王だなんて、素敵な響きです。我らの王ということですから、これ以上ない呼び名です」
「ボクたち魔族じゃなくてヒトガタだけどね」
「細かいことは気にしません。我らの王であると認識されてることが大切ですもの」
彼がヒトガタ――もとい魔族と出会ったのは、育てた者が死んだ後だった。
彼を降すために来た相手を逆に降し、支配下に置いた。
元々義理立てのために来ただけの魔族は、あっさりと彼に従う道を選んだ。
ある者はそちらの方が面白そうだからと、ある者は彼に魅入られ、またある者は面倒だからという理由で。
そして彼は勇者と出会い――それから百年が経った。
ミストラル王の崩御よりひと月。新たな王の誕生を祝すために国内の貴族はもちろんのこと、他国からの使者も大勢王都を訪れていた。
戴冠式は城の大広間で行われる。その後、城のテラスより民衆に顔を見せることになっていた。
大広間への入場が許されるのは当主や使者のみとなっており、家族揃っての祝辞を述べたい者は後ほど――というのが通例だった。
だが安静を命じられた矢先に王が死んだことと、城に勤める者の中から体調不良を訴える者が続出していたため、万が一を考えて教会で戴冠式が行われることとなった。
幸い教会には即位式で使われる広間がある。王城の大広間ほどではないが、今回は突然の戴冠式のため文で祝辞を伝えてきた者も多く、城勤めの貴族の入場が認められていないこともあり、収容できる人数に納まっていた。
そして今、教会の広間で当主と使者が見守る中で成人前の王太子が教皇の前に跪いている。
本来、新たな王に冠を賜るのは辞した王の役目だった。
だが今回のように王が不在の場合は一時教会預かりとなり、教皇がその任に就くことになっている。一時的なこととはいえ、教会が冠の管理を任されるのは百年ぶりのことだった。
国を、民を守るよき王となることを誓わせ、女神からの祝辞を授け、教皇の手から王太子に冠が渡る。
頭を冠で飾った新たな王は立ち上がり、その場にいる者を一瞥すると王としての言葉を授けようと口を開き――
広間と通路を隔てる扉が無遠慮に開かれた。
戴冠式はすでに終わりを迎えるところだ。そうでなくても到着が遅れてしまった者の途中入場は認められていない。刺すような視線が一斉に扉に向き、すぐに困惑の混じった。
「何者だ」
新たな王が発したのは、以前より考えていた王としての言葉ではない。警戒を露わにした言葉に、一同の間に緊張が走る。
本来、誰も立ち入らないように扉を守護する騎士がいる。
城勤めだった騎士は引き続き城の警護にあたっているため、今回の警護には加わっていない。だがそれでも、貴族の所有する私兵や、騎士ではないが国を守る任についている兵士をかき集め王都の警護に回した。
そして元々王都や周辺を守っていた騎士を教会の警護に充てた。
そのため人員不足ということもなく、練度の足りていない未熟な騎士を選んだわけでもない。そして、たとえ相手が他国の王であろうと通さないようにと指示されている。
それなのに現れた者に警戒心を抱くのは当然のことだった。
ましてや、その者があまりにも奇抜な格好をしていたらなおさらだ。
「我らの王より祝辞を賜ってまいりました」
黒を基調とし、レースやフリル、それからリボンがふんだんに使われたドレスを身に纏い、手に持った日傘をくるくると回している。その日傘も黒で染め上げられていた。
室内で日傘を差しているということもあるが、丈の短いドレスも現在では考えられないことだ。見る者が見れば、時代を先取りしすぎていると思ったことだろう。
だがこの場に、それがわかる者はいない。ただ奇抜すぎる格好をした不審者にしか映らない。
不審者は頭の両端で結んだ桃色の髪を揺らしながら、ゆっくりと王の元に足を進めた。
遠慮のない動きを咎める者も、止めようとする者もいない。誰もが不審者の行動を固唾を飲んで見守っていた。
「王への就任おめでとうございます」
「名も知らぬ相手の祝辞などいらん」
「そう言わないでくださいな。我らの王は名乗れる名がないのです」
王の御前に立ってもなお膝を折ることなく、まるで対等かのように話す相手に王の顔が厳しいものに変わる。
「お前は王そのものではないのだろう。ならば首を垂れ、礼を尽くすべきではないのか」
「まあ、ご冗談を。我らの王以外に折る膝など持ち合わせておりません。それに、跪くのはあなた方であるべきです」
そのあまりにもな言い分に控えていた騎士が一斉に剣の柄に手を伸ばし――
「平伏なさい」
その場に崩れ落ち、金属が床にぶつかる音が広間に広がった
立っていられなくなった者は騎士だけではない。貴族も、教皇も、そして王までもその場に跪いていた。
唯一の君主のように立ち、一同を見下ろす不審者の顔は恍惚に染まっている。
「人間というものは本当に学習しないのですね。力量差も見極められないだなんて嘆かわしい。まあでも、すぐに剣を向けてこなかったのは褒めてさしあげます」
「貴様、何をした……!」
「まあ、わかりませんの? その身で味わっているのに察せないだなんて、此度の王はずいぶんと愚鈍ですね。でも私は優しいので、愚かなあなた方にもわかるように説明してあげます。私、雷の魔法が得意ですので……ただ痺れさせただけです。上半身はそのままにしてあげたのだから、感謝してくださいな」
幼子に対するような柔らかい口振りと、言うことを効かない足に歯噛みし睨み付ける王。対する不審者は上機嫌な笑みを浮かべている。
その晴れの場に相応しくない状況と言動、王の後ろで跪いていた教皇は視線を巡らせた。
立ち上がれそうな者が誰もいないことを確認すると、教皇はわずかに視線を上げて王の代わりに口を開く道を選んだ。
「――名もなき王。しかし、名乗れる名が一つ、あるのではないですか」
「あら、あなたは?」
「当代教皇を務めている者です」
「マティスの者ですか。我らの王をご存じだなんて、嬉しい誤算ですね。記録でも残っていましたか? ああいえ、どのような理由でもかまいません。我らの王が完全に忘れられていたわけではない……その事実がわかっただけでも十分ですもの。ねえ、ご存じ? 私は反対しかったのですよ。我らの王を忘れさせるだなんて――そんなの、人間が図に乗るだけですもの。それなのに我らの王は別にかまわないとおっしゃって……結局この様です。嘆かわしいことだとは思いません?」
まるでその身が人間ではない別の生き物のように語る姿に、教皇は自身の中にある疑惑が確実なものだと悟る。
不審者が入場してきたときより、疑っていた。もしやと思った教皇は、だからこそ騎士に剣を向けさせぬように合図を送った。戦って勝てるような相手ではなく、迂闊なことをすればこの場にいる者すべての命が失われると知っていたからだ。
「名もなき王について記録を残しているのは、何も教会だけではございません。この場にも存じている者はいるのではないでしょうか。名乗りをあげさせてはいかがですか」
「どなたがご存じなのか聞きたいとは思いますが、でもごめんなさいね。私は我らの王からの言葉を賜ってきたのです。余計な雑談に時間を割くつもりはございません」
痺れとはいつまでも続くものではない。時間を稼ぐために対話を選んだ教皇の目論見は、無情な言葉によって破綻した。
教皇は舌を打ちそうになるのを隠して王に視線を向けると、王もまた教皇を見ていた。その目は「後ほど詳しい話を」と語っている。
「我らの王はあなた方との穏便な交渉を望んでおります。私たちとて、手荒な真似はしたくないのですよ」
「……交渉だと? このような真似をして交渉の余地があると思っているのか」
「あら、ありますとも。人間が私たちに敵うわけがないのですから、交渉するしかないのですよ。その程度のこともわかりませんの?」
嘲るような笑みを浮かべる不審者になおも言い募ろうとする王を教皇が止める。その様子を不審者は満足気に見下ろし、言葉を続けた。
「我らの王はこの国にいる災厄を振りまく女神の仇敵と勇者――いえ、女神の御使いを望んでおります。返事は一週間後……色よいお返事がいただけない場合、この国を壊します」
百年前に何も告げることなく侵略を開始したことを考えれば、実に穏便で平和的な――武力交渉だった。
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