語られない物語~異界の天使たちによる異聞禄~

温泉

 バスタオルを体に巻いた紫依は温泉に入って一息吐いた。

「ちょうどいい湯加減ですね」

 下手をすれば凍死してしまう極寒の寒さの中、全身を包む湯は気持ちよかった。
 外で手足の肌を出すということに慣れていない紫依はバスタオルで体の半分を隠したが、やはり羞恥心は強くある。だが人の姿がなく、誰かが来るという可能性が低い環境と、湯が乳白色で浸かっていれば肌が見えないので、どうにか我慢できていた。

「気持ちいいですね」

 紫依は空を見上げながら務めて何も考えないようにした。だが、何も考えないようにしようとすればするほど、いろいろな記憶が蘇った。

「私は……どうすればいいのでしょうか……」

 できることなら、このままどこかに逃げたい。誰にも会うことなくひっそりと生きていきたい。
 そんな気持ちも強くあるが、ここまでしてくれた蘭雪の気持ちにも応えたい。こんな自分を助け、強く求めてくれた想いに。

 蘭雪の体の温もりを思い出し、自分の体を抱きしめるように小さく体を丸める。

「私に……できること……」

 自分ではどうにかしたいと思うのだが、意識がない時が問題だった。意識を失くしたくないのだが、気が付いた時には記憶が飛んでおり勝手に体が行動している。その時の共通点は……

「あの方でしょうか……」

 今のところルシファーが視界に入ると同時に意識が飛んでいる。だが、ルシファーを見ると意識が飛ぶ理由が紫依には思い当たらない。

「やはりラファエルさんが関係しているのでしょうか……」

 記憶が飛んでいる間、紫依の瞳がラファエルの瞳の色になっていたことは朱羅から聞いていた。しかし前世の記憶をまったく思い出していない紫依には、生まれ変わりということ自体あまり実感がなかった。

「ラファエルさんとは、どのような方だったのでしょう?」

 ぽつりと呟いた言葉が鉛色の空に溶け込んでいく。今にも雪が降りだしそうな雲が重く垂れさがっている。

 紫依がぼんやりと空を眺めていると、温泉を囲っている岩の向こう側に橙色の光の輪が降ってきた。

「え?もう一時間経ったのでしょうか?」

 紫依は驚きながらも服を着るために立ち上がった。そこで橙色の光の中にいるのがオーブでないことに気が付いた。全身を黒い服で包み、黒髪と黒い瞳が鋭く輝いている。

 橙色の光の中にいた黒い瞳と視線が合うと同時に、紫依は乳白色の湯の中に逃げ込んだ。叫び声は湯の中で気泡となり消えている。

 一方、突如現れた相手は……

「す、すみません!痛っ!」

 紫依の姿に驚いて足を滑らして盛大にこけていた。

「ま、まさか、ヒトがいるとは思わず、し、失礼しました!」

 声がしどろもどろしており、故意ではないことが分かる。その声に聞き覚えがある紫依は湯から顔だけを出して声をかけた。

「あ、あの、もしかして……獅苑さん、ですか?」

「その声は……ラファエル博士の生まれ変わりの……」

「はい。紫依・シェアード・龍神と申します」

 獅苑は岩陰に姿を隠したまま応えた。

「やはりそうでしたか。私は如月きさらぎ おんと申します。獅苑と呼んで下さい」

「えっと……獅苑さんは、どうしてここに?」

「あの、その湯から湧き出る鉱物が私の身体の修復に必要な物の一つでして、それを取りに……」

「そうなのですか!?では、すぐに上がりますので少しお待ち下さい」

「大丈夫です!他にも必要な鉱物がありますから、そちらを先に取りに行きますので、ミス龍神はゆっくりして下さい」

 思わぬ名前の呼ばれ方に紫依の反応が遅れる。
 一方の獅苑は岩陰に隠れて紫依の姿を見ないようにしているので、返事がないことに戸惑いながらも顔を出せないでいた。

「どうかされましたか?」

「あ、いえ、なんでもないです」

「では、私は失礼します」

 背中を向けて立ち上がった獅苑に紫依が声をかける。

「あの、待って下さい」

 思わぬ引き止めに獅苑が背中を向けたまま止まる。

「何か御用ですか?」

「え、あ、用というか、あの……その……」

 反射的に声をかけてしまい戸惑っている紫依に獅苑が首を傾げる。そんな獅苑の後ろ姿を見ながら紫依はぼそぼそと声をかけた。

「突然このような質問をして失礼かと思うのですが……あの、獅苑さんはラファエルさんのことを、よくご存知なのでしょうか?」

「よく……と、まで言えるかは分かりませんが、存じていますよ」

「どのような方でしたか?」

「どのような、とは外見のことでしょうか?それとも性格でしょうか?」

「全てです。あの、私にはラファエルさんの記憶がまったくありませんので、どのような方だったのかと……」

「そういうことですか」

 獅苑は紫依に背中を向けたまま岩に座ると空を見上げて言った。

「では、少し昔話をしましょうか?私がラファエル博士と出会った頃の話など、どうでしょう?それでラファエル博士の人柄が分かると思います」

「あ、はい。お願いします」

「では、少し話させて頂きます。あれは私がまだ世界のことを何も知らない頃のことでした」

 若々しくも外見の年齢以上に落ち着いた声が雪の世界に響いた。



「語られない物語~異界の天使たちによる異聞禄~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く