ジュブナイル

藤 夏燦

ジュブナイル

 郊外からローカル線で約一時間半。一定のリズムで揺れながらの旅。見慣れた風景の退屈な旅。大嫌いな故郷に帰る大嫌いな旅。
 郊外のターミナル駅で、帰省のための荷物を一度足元に置いて買う片道切符。その荷物を両手に抱え、通り抜ける自動改札。郊外といえども人の乗り降りの止まないホーム。
 人を降ろしては乗せ、次の駅へと向かう列車。一番線から四番線まであるこの駅が持つ四つの顔。
まず、郊外へ向かう一番線。そこに着く列車は高校生やお年寄りの他愛もないおしゃべりが漏れ出してきそうな二両編成。
大都市と郊外を結ぶ複線の二番線と三番線。スーツの黒や学生の金髪、お嬢様学校の赤チェックのスカート。鮮やかな色たちを詰め込みそれぞれの今日へと連れてゆく六両編成。昨日僕も大都市から乗った路線。二時間かけてついたターミナル駅。既に出ていたローカル線の終電。仕方なく泊まった駅近くのホテル。そして今日を迎え、四番線で列車を待つ七時半。
 スカスカの時刻表。二時間に一本しかない列車。次の列車は八時。とりあえず腰かける安っぽい水色のベンチ。目に入る地元の病院の看板。耳に入る三番線の雑踏。昨日のバイト終わりからの旅で疲れ切った両足。欠伸をして閉じた瞼。爽やかに晴れる九月中旬の空。すべてが心地よくて眠り、三十分を一瞬にした三十分。
 気が付くとホームに入っている列車。白い車体にオレンジのライン。一両編成のワンマン、ディーゼル車。
 両手に荷物をまとめて立ち、一年半ぶりに帰省する僕を乗せる列車。両脇に荷物を置いて座るロングシート。発車まで静かな車内。乗客は他に二人。彩りのない車内を彩るように、車内の前方と後方に腰かける二人。左側後方に座る四十前後の女性。ベージュのチノパンにピンクのブラウス、カーキ色のバック。右側前方には初老の男性。ブルーのジーパンにギンガムチェックのシャツ、黄色のリュックサック。それぞれの首にはネックレスと一眼レフ。
この二人の間に座ったのが僕。青いポロシャツに白いハーパン。黒いスニーカー、黒いバック、黒いメガネ、黒い瞳。見ている物は列車の窓越しに映る地方病院の看板。ホームにいる頃からずっと見ている看板。もう覚えてしまった院長の名前と電話番号。こんな僕でもわからない隣の看板の和菓子屋。半開きの列車のカーテンが隠す、店の名前と電話番号。それがわからないことには、ありつけないあの白い大福。
 止まないディーゼルエンジン。間もなく八時。発車のチャイム。閉まるドア。動き出す列車。流れ出す風景。一瞬だけ見えた大福屋の名前。でもすぐにカーテンの影絵。抜けるホーム。真横をかすめる住宅。一瞬だけ目に映って、カーテンの影絵。切り取る住人達の日常。
 しばらくすると流れる自動アナウンス。すぐに最初の駅。住宅街の中にある無人駅。さびれたホーム。誰も降りず、誰も乗らないホーム。そんなホームに別れを告げる列車。ここから先、目的地まで繰り返すであろう光景。
 再び走り出す列車。終点が僕の故郷。ここから約一時間半。正直不便な故郷。だから僕が嫌いな故郷。でも一年後、ダム湖に沈む僕の故郷。


 高校時代、両親の猛反対を押し切り受験した都会の大学。大学時代、両親の猛反対を押し切り転居した都会の下宿。そんな僕を毎回しかりつける両親。僕になって欲しいのは農家の跡取り。
 一人息子の僕。少年時代から決められている将来。決めている進路。決まっている職業。大人に近づくたびに具体性が増していく両親の欲求。それは僕の欲求とかけ離れた欲求。僕がなりたいのは新聞記者。
 決まっている生活。決まっている日常。そして決まっている結婚相手。許嫁、田内花。一つ年上。世話焼き。でも甘えん坊。僕と同じ農家の一人娘。僕の幼馴染。僕の初恋相手。


「夕貴くんは泣き虫さんだから、うちが結婚してあげんと心配や!」
 耳をかすめた幼い花の声。あれは九歳の夏。花の家。昼過ぎの縁側。僕の家族と花の家族で分け合った一つの西瓜。大きくて瑞々しくておいしそうな西瓜。その西瓜一切れを地面に落とした僕。赤い果汁が染みこむ土。赤い果肉に群がる蟻。たまらず泣きだした僕。悔しさや後悔が涙の理由。それを理解するのはもう少し後。
「夕貴くん、これあげる」
 泣いている僕の隣。食べかけの西瓜を差し出す花の隣。
「いいの?」
 涙声の僕。
「いいよ。うち、もうお腹一杯」
 笑い声の花。
「ありがとう」
 その時、さらに増した涙。泣き声もなくやってきた涙。きっと嬉しさや感謝がその涙の理由。でも今でもよく分からないその涙の理由。
「花ちゃんはえらいねえ」
 落ちた西瓜を片づける僕の母の褒め言葉。
「夕貴くんは泣き虫さんだから、うちが結婚してあげんと心配や!」
 そう言いながら頭をなでる花。その言葉を聞きながら拭う涙。気が付けばどうでもよくなった西瓜。
「夕貴くん。食べ終わったら遊びに行こ」
 大げさにうなずいて、食べ終えた西瓜。
「暗くなる前には帰るのよ」
 そう諭す花の母。
「うん。いってきます」
 元気よく駆けていく花の履くサンダル。少し遅れて僕も履くサンダル。青とピンクのお揃いのサンダル。
 いびつなアスファルトの道を抜け、渡るコンクリートの橋。川を見下ろすと、鮮やかに光る夏の水面みなも。それぞれ別の色を映すその姿は、まるで万華鏡。
「花ちゃん、今日も泳ぐ?」
 橋の上で立ち止って、花に言う僕。
「ううん。今日は水着持ってきてないし。それに昨日大雨が降ったから、川は危ないよ」
 僕を諭すような声。
「じゃあ何するの?」
 不安と期待を入り混ぜた声。
「今日は特別に、夕貴くんが行ったことないとこに連れてってあげる」
「え?ほんとに!」
「ちょっと遠いけど大丈夫?」
「うん、ぜんぜん平気」
 北の森。西の林。南の駅、学校、公民館。知らない場所はない故郷の知らない場所。
(どんなところなんだろう?)
 水面のように光る幼心。それもまた、まるで万華鏡。
 花を追いかける僕。少し駆け足で進む川沿い。水しぶきが騒ぐ左耳。蝉時雨が降る右耳。目の前には花の背中。少し遠くには揺れる陽炎。
「花ちゃん、まだ?」
 僕の弱音。暑さに堪える体。知っている道。もう何度も北の森へ遊びに行った道。かなり歩き慣れた道。けれども登りにくい坂道。九歳の足にはきつい坂。
「もうすぐだから」
 振り向いた花の涼しげな顔。でも額にまとわりついた前髪。顔中を流れる汗。
「夕貴くん、がんばろ」
笑顔になる涼しげな顔。
「うん」
 うなずいて拭う汗。心地よく変わった汗。また歩き始める川沿い。
しばらくして着いた森の入り口。太陽を隠す葉っぱ。涼しさに包まれる僕。入り口から少し進んだところにある階段。僕が来たことない場所。花が登る階段。僕も後を追う階段。
登りきると、古い石畳の小道。木陰が落書きする小道。その先に小さな鳥居。
「夕貴くん。ここ来たことないでしょ?」
 立ち止り振り返る花。静寂に落とされた声。
「うん」
 止まない蝉時雨に慣れた耳。ただ一つ慣れない花の声。静かに頷く僕。
「この先はもっとすごいの」
 そういうと僕の手を引く花。汗だくの僕の手。少し冷たい花の手。その手をつかみ、くぐる鳥居。木陰に落書きされる僕らの手。花の背中。
 やがて見えた小さな本殿。脇にある手水舎。そこで清める僕らの手。冷たい水。花が教えてくれた手の清め方。左手。右手。口。左手。
「これから何するの?おまいり?」
 お正月とお祭りにしか来ない神社。「おまいり」はちょっとしたイベント。
「そうだよ」
 そう言って向かう本殿。苔の生えた小さな本殿。木陰が落書きする本殿。
 苔まみれの鈴を鳴らす花。二礼二拍手一礼。これも花が教えてくれた作法。「さんぱい」の仕方。
(神さまにおねがいすること。花ちゃんは何をおねがいしたんだろう?)
「さんぱい」を終えた帰り道。ふと思いついた疑問。ふと見つめた花。満足げな横顔。
 鳥居を抜け、小道に戻る。不意に目に入る白い看板。鳥居のすぐ前にある小さな看板。花を見遣った先にある苔まみれの看板。
 所々剥げおちた黒い字。その文字で説明されるこの神社の御利益。時折はさまれる読めない字「縁結。」
「ねえ花ちゃん、あれってなんて読むの?」
 止まる花の足。僕の足。
「どれ?」
「あれ、みどりゆい?」
 指さす僕を笑う花。
「ちがうよ。え・ん・む・す・び」
「え・ん・む・す・び?」
「男の人と女の人が将来結婚できるようにお祈りするの。ここはそのための神社」
「え?じゃあ僕、花ちゃんと結婚するのかなあ」
 照れる花。その表情を見て、自分の言った言葉の意味に気付いた僕。止まない蝉時雨。急に恥ずかしくなる僕。しばしの沈黙。たまらずそらす目。
「――したい、なあ……」
 不意に染みる花の声。か細く小さい花の声。気になって花の方を見つめる僕。
「夕貴くんと結婚、したい、な」
 頬を真っ赤に染めて僕を見つめる瞳。わずかに開いた口。無造作に顔を纏う髪。軽く握る両手。
 その時、無性に愛らしくなる花。恥ずかしさの中に暖かさを覚える僕。その暖かさから湧き出る使命感。その使命感が言わせる一言。
「僕も、したい」
 聞こえてないような気がして言い直す一言。見つめ直す花の瞳。
「僕も花ちゃんと結婚したい」
 その言葉に微笑む花。赤い頬にできる可愛らしい笑窪えくぼ。僕を見つめ返す瞳。
「こういうの、なんて言うか知ってる?」
 とっさに聞かれ戸惑う僕。目の前にいるすごく可愛い花。
「そーしそーあい」
 僕が答える前に花が言った言葉。幼い僕の知らない言葉。
「どういういみ?」
「おたがい好きどうしってことだよ」
 それを聞いて、また戸惑う僕。よくわからない戸惑い。その言葉の意味を知った為の戸惑い。あるいは得意気に話す花が可愛すぎる為の戸惑い。
「夕貴くん。そろそろ暗くなるし、帰ろうか」
 そう言って差し出す花の手。少し冷たかった花の手。でも今握ると暖かい花の手。
 並んでいる階段。花が合わせてくれる歩幅。行きは追いかけた花に、やっと追いついた僕。森を抜け、歩く川沿い。オレンジ一面の水面。夕暮れの帰り道。これが僕に刻まれた「初恋の記憶。」


 初恋。僕の初恋。花にとってもおそらく初恋。初めて恋というものを知った僕。少し大人になった気がした九歳の夏。そんな僕とは対照的に見えた花。既に大人びて見えた十歳の背中。永遠に埋まらない年の差。その差が広げていった僕らの距離。
 三年後。十二歳。小六の夏。中一の花。会う機会が減り、色が抜け落ちるように千切れていった僕ら。終わりを告げた初恋。その年の暮、別の女の子に恋をした僕。
 中学に上がり、再開した花。あまり変わっていなかった花。部活のテニスが忙しく、僕の元へ来れなかったという花。またやり直そうとしてくれた「初恋。」
 だけど「初恋」を続けるにはあまりに変わりすぎていた僕。隣には新しい彼女。小六の暮に恋をした彼女。卒業式の後に告白した彼女。花とは違う、同い年の彼女。
 そうとも知らず教室に来てくれた花。一緒に食べたかったであろう弁当。僕と彼女の姿を見てそそくさと隠した弁当。
「夕貴くんごめんね。ちょっと様子を見に来ただけ」
 そう言ってどこか物悲しげに笑う花。弁当を隠すかのように両手で抱えて去って行く花。その背中を見て少し穴が空いた気のする僕。でもすぐにその穴を埋めた隣にいる彼女。それ以来、花が来ることはなかった昼休み。
 中学生の恋愛。どんなに相思相愛でも、ほとんど終わってしまう恋愛。その例外ではなかった僕ら。半年後に彼女と別れた僕。埋まらなくなった穴。さびしくて探した花。でも、とっくに僕のそばにいてくれなくなった花。花にとっての僕。僕にとっての花。明らかに違いすぎた僕らの中の存在。
 あっという間に過ぎた中学生活。僕に話しかけることもなく卒業した花。僕は中三。決めなければならない進路。ここで初めて来た反抗期。


「俺の将来の事は俺が決める」
 五月の夜。祝日の夜。居間に響く僕の叫び。思春期特有の不器用な叫び。食器にぶつける箸。立ち上がり出て行こうとする僕。
「夕貴、いいから座りなさい」
 父の声。威厳のない声。柔らかい語り口。禿げた頭。ぽっこり出たお腹。くたくたのTシャツ。少しも怖くない父。今まで怒った姿を見たことがない父。でも自分の主張だけは絶対に曲げない父。
「確かに夕貴の言っていることはすごくよくわかる。でもこれは仕方のないことなんだ。夕貴が後を継がなきゃ、父さんたちが誰か養子を連れてこなきゃならない。そんな当てなんてないし、そもそも許嫁の花ちゃんの面子が立たない」
「そうよ。花ちゃんとは最近どうなの?」
 ここで口をはさむ母。いつもこうやって話に割り込む母。
「知らないよ。学校一緒じゃないんだから」
 高校生の花。中一以来話していない花。
「それでも仲良くしときなさいよ、将来結婚するんですもの」
 笑いながら言う母。それがバカにして聞こえた僕。その一言で切れる僕の中の何か。
「結婚なんかしない。仕事も結婚相手も全部自分で決める」
そう言い捨て、抜け出した居間。駈け出した廊下。飛び出した玄関。溶け込んだ暗闇。
ゆく当てもなく歩いた夜道。心地いい夜風。初めて親に逆らった夜。解放感が満たした心。独り占めした夜空。
 川沿いの道。耳を覆う蚯蚓の大合唱。やがて止まる僕の足。自由を手にした僕の足。誰もいないはずの夜道。
不意に横を抜ける人影。ランニング中の人影。短い髪。黒いジャージ。振り返る顔。見覚えのある顔。許嫁、田内花。
「あ。」
 花も僕に気付き、思わず漏れる声。止める足。
「夕貴くん?」
 花の声。あの日と同じ、慣れない声。
 黙ってうなずく僕。
「あー、やっぱり。久しぶり」
 すぐに聞き慣れた声。空白の中学時代なんてなかったような素振り。小学生から変わらない笑顔。
「元気にしてた?」
 何か言おうとする僕。でも何も言えない僕。変わらない花。変わりすぎた僕。申し訳ない気持。寂しい思いをさせた中学時代。花と結婚するつもりなんてないと思ってた僕。そんな僕でも許してくれた花。昔と変わらず接してくれる花。その優しさが撫でた胸。途端に壊れかかる涙腺。
「うん」
 すんでのところで涙を堪え、絞る声。
「花ちゃんは元気だった?」
 昔と変わらない呼び方で呼んでみる僕。
「うん。元気だったよ」
 頬にできる可愛らしい笑窪。思い出した初恋。数分も立たないうちに恋人だった頃に戻った僕ら。
 それから座り語り合った河原。小学時代の思い出。僕の中学生活。花の高校生活。親の話。進路の話。さっき喧嘩して家出した僕の話。
「そっか、うちも同じ立場だから夕貴くんの気持ちすごく分かる」
「ほんとに?」
「うん。農家の跡取りとか、許嫁とか正直、親の勝手だよね」
 月明かりを反射する水面。その光が照らす花の横顔。
「でも、うちはそれも仕方ないかなって思ってる。お坊さんとか鵜匠さんとか、生まれながらにして職業が決められてる人はたくさんいる。身近な人でなら、うちのお父さんや夕貴くんのお父さんだってそう。その人たちは今日もその決められた職業を毎日こなしている。毎日できるのはそこに何かやりがいがあるからだと思う。今はわからないけれど、うちもその遣り甲斐を見つけてみたいなって」
 大人に見えた横顔。いや、大人ではないにしろ僕より大人に見えた横顔。大人の言いたいことを、僕の年に近い花が言い直した言葉。わかりやすくて前向きな言葉。
「まあ、許嫁とはまた話が別だけどね」
 少し笑いながらそう付け加えた花。僕の方を向いて目が合う花。
 その時、湧いてきたいくつかの思い。ここで農家の跡をついでもいいかなという思い。花と結婚して、仕事のやりがいを見つけてみたいなという思い。
恥ずかしくて口にはできなくて、
「考え直してみる」
とその場しのぎを取り繕った僕。水面の方を向く僕の顔。でも前を向く僕の心。
「うん、考え直してみて」
 そう言って花も顔を向ける水面。まるで恋の返事を保留にされたような言い回し。でも実際、そんな感じの僕の返事。
「花ちゃん……」
 言葉にすべき、いくつもの思い。けれど、恥ずかしさがふさぐ口。
「どうした?」
「ありがと」
 やっと言葉になった思い。感謝の思い。大好きな花への思い。
「いいよ、全然。これくらいの事」
 少しの間。
「夕貴くんは泣き虫さんだから、うちが結婚してあげんと心配やー」
そう言って微笑む花。
「なんだよそれ」
 照れ隠しに必死な僕。
「昔よく言ってたなあって、今思い出しただけ」
 そう言いながら頭をなでる花。その言葉を聞きながら払う花の腕。
「こういうのはもう、卒業したから」
 本当はすごくうれしいのに、行動が付いて行かない僕。それをなんとなく悟るような花。
「そっか、そうだよね」
 笑いの混じる語尾。小さくうなずく僕。
「もう中学生だもんね。いや、まだ中学生か。うち高校生だし」
「どういう意味だよ」
「いやー、若いなって」
「年あんま変わらないでしょ」
「そりゃまあ、そうだけどさ」
 何気ない会話。明日も、明後日も続けたい会話。十年後も、二十年後も、していたい会話。ずっと一緒にいたい相手。許嫁、田内花。
 けれども、どんなに願っていても、いつも唐突にやってきたりする終わり。
「もう遅いし、そろそろ帰ろうか」


 列車の雑踏の中で、耳をかすめた花の声。僕と花とのあの日の会話。それを遮った花の一言。明日も、明後日も、十年後も、二十年後も、していたかった花との会話。でも、あれで最後になった花との会話。
 あの日の明日。つまり次の日。まるで嘘のように亡くなった花。昨日まであんなに元気だった花。僕の頭を撫でてくれた花。縁結び。許嫁。ずっと僕の隣にいるはずだった花。
 次に会った時、真っ白い服を着て、棺桶の中に横たわっていた花。まるで嘘のように思えたお通夜。でも嘘じゃなくて、身体中が震えた葬式。声をあげて泣いて、声をからしてて泣いて、涙が切れると声だけ上げた僕。泣くのが当たり前で、泣かないのが特別になった僕。そこから何日間かは空っぽ。誰の言葉も入らなかった耳。
 やがて蝉時雨が降りだした頃、僕の耳に入り始めた話題。この村がダム湖に沈むことが決定したと言う話題。この家も、学校も、縁結びの神社もみんな沈むんだって聞いた時、何故か安心した僕。それは花を忘れたい僕のわがまま。花を奪った世界への悪戯。反対運動に必死な両親に
「無駄だよ」
と言い捨てた僕。思い通りになんてならない世界の事を、子供ながらに知ってしまった僕。新聞記者になってしまおうと思い切った僕。そんな僕を毎回しかりつける両親。でも、農家の跡取りなんかにならない僕。花のいない故郷で、もうすぐなくなる故郷で、あとを継ぐ気なんかまったくない僕。こんな親不孝者でも、息子でしかない僕。親でしかない両親。
「お盆がバイトで忙しいのなら、九月にでもいいから帰ってきてくれないか?」
 寂しそうな声でそういった父。もう一年半もあっていない父。引っ越しやら建て替えやらで忙しい故郷。老いてきた両親には少しきつい力仕事。その姿を想像して、「うん」としか言えなかった僕。


 郊外からローカル線で約一時間半。一定のリズムで揺れながらの旅。見慣れた風景の退屈な旅。大嫌いな故郷に帰る大嫌いだった旅。でも実際旅をしてみると優しく琴線に触れたノスタルジア。花の事も、両親の事も、ダムの事も全部覚えていて忘れられない思い出。
 自動アナウンスが告げる終点。気が付けば僕一人になった乗客。お金を払い、降りる列車。ホームが一つしかない無人駅。昔と変わらない駅舎。小さな小屋みたいな駅舎。その隣に張り付けられた大きなダム建設の看板。 
駅舎を抜け、駅の前の高台に登る僕。故郷を見渡せる高台。いつも帰郷すると必ず登る高台。一年半ぶりに見渡した変わりすぎた故郷。
西の林のあたりにあるほぼ完成したダム。工事もほぼ終わったのか、片付けられた重機。すぐ真下にはもう廃校となった学校。無人の校庭にのびやかに生えている雑草。北の森は木が伐採され、丸裸となった山肌。記憶の中から探る縁結びの神社の場所。その場所に目をやると、まだ残っていた鳥居。まだ切られていない神社の周りの木々。ほっとする僕。あの様子だとどこかに移されるであろう神社。
けれども、移されたところでそこにあるのは同じ名前の違う神社。
僕があの日「みどりゆい」と読み間違えた神社。花があの日「えんむすび」と読むのだと教えてくれた神社。木陰が落書きするあの苔まみれのあの神社。それらとは全く違う新しい神社。
それに気づいた時、ほっとした気持ちが抜け落ちた僕。代わりに支配した物悲しさに戸惑いを覚える僕。戸惑う間に溢れ出てくる涙。泣き声もなくやってくる涙。大人になった今ならわかるその涙の理由。


涙を拭おうとして、耳をかすめた花の声。
「夕貴くんは泣き虫さんだから、うちが結婚してあげんと心配や!」
 その声を聞いて「本当はすごくうれしいのに、行動が付いて行かない僕」がいたことを思い出した僕。どれだけ待っていても、もう撫でてもらえない頭。それが悔しくて、つぶやく僕の強がり。
「こういうのはもう、卒業したから」



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