宇代さん

藤 夏燦

宇代さん

とうとう逃げられてしまった。散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に。女は行き過ぎた。
「重いこと。大理石のように見えます」
女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。
一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。しばらくはじっと小さくなっていた。大きな建物が所々に黒く立っている。女の顔つきと目つきと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、女の黒目の動く刹那を意識した。空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。女と男はじかに顔を見合わせた。もう少しで双方がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。女は一言も口をきかなかった。実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」
と言って、にやりと笑った。その目には暈がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。それから片づけ始めた。散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に。女は行き過ぎた。
とうとう逃げられてしまった。なるべく早く自分のほうを片づけて帰ろうとした。室内の空気は依然として俗を離れているので、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。あの女は心が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。悲しいはずのところを、快くながめて、美しく感じたのである。いっそのこと今夜は家へ帰って、また出直そうかと考えた。
低い廂の外にある空を仰ぐと、きょうはいい天気だ。大きな建物が所々に黒く立っている。その屋根がはっきり尽きる所から明らかな空になる。星がおびただしく多い。一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。男はしきりに煙草をふかしている。長い煙を鼻の穴から吹き出して、腕組をしたところはたいへん悠長にみえる。汽車だけがすさまじい音をたてて行く。動かずに立っていると、靴の下で足が痛む。
しばらくすると一人の迷子に出会った。七つばかりの女の子である。大きな丸い提灯をつけて、腰から下をまっ赤にしている。女が男を征服する色である。女は頓着なく、すぐ、こう言った。
「迷子」
「なに」
と答えた。
「迷子」
「なに」
と繰り返した。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。
「わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ」
「なんだ、それは」
 べつに腹も立たなかった。男はむしろ甘い苦しみを感じた。
「うれしいでしょう。うれしくなくって?」
 妙に不愉快になったから、謹んで黙ってしまった。けれども相手はそんなことにいっこう気がつかないらしい。
「どうなすって」
「女は恐ろしいものだよ。男は馬鹿にされるばかりだ」
 女は黙っている。煙が沈黙のあいだに、棒になって出る。これで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような寂しさがいちめんに広がってきた。
「いっしょにいらっしゃい」
 同時に女は肉の豊かでない頬を動かしてにこりと笑った。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」
と言った。女の語気はまったく無邪気である。
「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」
と笑って行き過ぎた。提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。
「いっしょにいらっしゃい」
女の手から長い赤い糸が筋を引いている。不可思議の現象である。しかしこのさいだから気をつけて煙の形状かたちをながめていた。ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議でいい。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。七つばかりの女の子である。目の大きな、鼻の細い、唇くちびるの薄い、鉢が開いたと思うくらいに、額が広くって顎がこけた女であった。西洋画の女の顔を見ると、だれのかいた美人でも、きっと大きな目をしている。大きな丸い提灯をつけて、腰から下をまっ赤にしている。帯の感じには暖かみがある。黄を含んでいるためだろう。そのそばにきれいな風車を結いつけた。おかしいくらいなんにもない。一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。暗くて青白い。そのうちに今話した小さな娘がいた。
「迷子」
静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。青白いうちに、なつかしい暖かみができた。その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。
「なに」
と答えた。
「迷子」
まるで子供に物を教えるようであった。いっそこのままで夜を明かしてしまおうかとも思った。純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。
「なに」
と繰り返した。男子の弊はかえって純粋の詩人になりきれないところにあるだろう。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。
「わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ」
「なんだ、それは」
その意味のうちには、霊の疲れがある。自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。
「うれしいでしょう。うれしくなくって?」
自然に従う一種の快感を得た。もしくは詩的感興がある。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。
女はそれでもまだ立っている。必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。
「どうなすって」
 根拠地のない戦争のようなものである。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである。しかしこの男の退屈は話したがらない退屈である。ただ句切りが悪くって、字づかいが異様で、言葉ことばの運び方が重苦しくって、まるで古いお寺を見るような心持ちがしただけである。また彼らは己に誠でありうるほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるということを悟った。
「女は恐ろしいものだよ。男は馬鹿にされるばかりだ」
 女は黙っている。この女はどんな陳腐なものを見ても珍しそうな目つきをするように思われる。ちょうど案内者が古戦場を説明するようなもので、実際を遠くからながめた地位にみずからを置いている。そこで、ちょっと心配そうな顔をして、煙草の煙を二、三本鼻から吐いた。しかし依然として黙っていた。事がうまくいって、知らん顔をしているのは、心持ちがいいが、やりそくなって黙っているのは不愉快でたまらない。しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような寂しさがいちめんに広がってきた。
「いっしょにいらっしゃい」
 同時に女は肉の豊かでない頬を動かしてにこりと笑った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。しかも、悲しいはずのところを、快くながめて、美しく感じたのである。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。最も尊き人生の一片である。その色は薄く餅をこがしたような狐色であった。そうして肌理が非常に細かであった。
「滅びるね」
と言った。そうかもしれないが、こういうことは人間の研究上記憶しておくべき事だと思う。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。それでも、まだもの足りない。
「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」
女は行き過ぎた。炎天で目がくらんだ時のようであったがしばらくすると瞳がようやくおちついて、あたりが見えるようになった。
本来は暗い夜である。もう十時はまわっている。寝ていれば、ほとんど常体に近い。ただ枕を離れると、ふらふらする。それでも我慢して立っていた。夜が明ければ常の人である。
「いっしょにいらっしゃい」
提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。ほとんど堪え難いほどの静かさであった。しかしけっしてりっぱなものじゃない。女の手から長い赤い糸が筋を引いている。寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。移り行く美をはかなむという共通性の情緒はまるで影をひそめてしまった。その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。だからこの女に会うと重苦しいところが少しもなくって、しかもおちついた感じが起こる。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片きれとをながめていた。ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。口をきいている者はだれもない。汽車だけがすさまじい音をたてて行く。しかしいっこううるさいようにもみえなかった。空の色がだんだん変ってくる。無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。世界はかように動揺する。それで、しばらくのあいだはまた汽車の音だけになってしまう。すこぶる閑静である。あの女がもう一ぺん通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上をながめたが、丘の上には人影もしなかった。やがて思いきった。一間余の土手を這はい降りて、提灯のあとを追っかけて行った。半町ほどくると提灯が留まっている。女の着物は例によって、わからない。杉垣に羽織の肩が触れるほどに、赤い提灯をよけて通した。それでなんともなかった。二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。むろん不案内の土地だからどこへ出るかわからない。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。左手には少しさがって博物の教室がある。建築は双方ともに同じで、細長い窓の上に、三角にとがった屋根が突き出している。四角な棒を四本立てて、その上を板で張ったものである。それを半分ほど斜にはぐって、裾のほうが厚く見えるところを、よけるように、女は窓を背にして腰をかけた。きょうは夜だから、屋根はむろん見えないが、部屋の中には電燈がついている。
「もうたくさん」
女は袂から白いハンケチを出して手をふいた。聞き取れないくらいな声であった。
「君、知ってるのか」
「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」
女はまったく歯を隠した。
「ええ」と答えた。「よくわからない」
すると女が急に笑いだした。
「あなたは……」
女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。女は黙っている。男は例のごとく、にやにや笑っている。やがて、小さな声で
「矛盾だ」
と言った。女は黙っている。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。しかし愉快になった。この男は頭を坊主に刈って、金縁の眼鏡めがねをかけたおとなしい学生であった。きょうは白地の浴衣をやめて、背広を着ている。自分ながらけっして強い男とは思っていない。けれども主張どおりにはいることも少ない男である。立つには恰好のよい男である。見ればりっぱな男である。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。
「ごめんなさい」
と言った。額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。書く事も何もない。女がいなければ書く事がたくさんあるように思われた。女は
「わかったでしょう」
と答えた。そこでひょいと頭を上げた。
「もう宅へ帰るんですか」
「いいえ」
「あなたはどちらへ」
と聞いた。
「どちらでも」
なにしろ知らない女なんだから、すこぶる躊躇したにはしたが、断然断る勇気も出なかったので、まあいいかげんな生返事をしていた。月のさえた比較的寒い晩である。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。ただなんだか矛盾であった。女の咽喉が正面から見ると長く延びた。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。目口ははっきりしない。振り返った女の目に応じて、四角の中に、現われたものもなければ、これを待ち受けていたものもない。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。きょうは夜だから、屋根はむろん見えないが、部屋の中には電燈がついている。
「もうたくさん」
女は袂から白いハンケチを出して手をふいた。きれいな手が二の腕まで出た。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。女の手から長い赤い糸が筋を引いている。女が男を征服する色である。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間であると自覚している。
けれども動かずにもいられない。目の前には眉を焦がすほどな大きな火が燃えている。「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を愚弄した言葉かもしれない。なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。一応理由を聞いてみる。
「君、知ってるのか」
 女はまったく歯を隠した。
「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」
「ええ」
と答えた。よく知ってると思ったら、この男はゆうべはじめて、寄席へ、はいったのだそうだ。ここで小さんという落語家を聞いた。すべて宇宙の法則は変らないが、法則に支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。ということなんだが、――ところが妙な習慣で、人間も光線も同じように器械的の法則に従って活動すると思うものだから、時々とんだ間違いができる。一つは、この人の生活その他が普通のものと変っている。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。しかし想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくするとまぎれてしまう。だからだいたいはのん気である。しかしどちらにしても人間に違いない。けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。この説を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりして、ちょっとわからなかった。それでおもてむきこの説に対してはべつだんの批評を加えなかった。
「よくわからない」
すると女が急に笑いだした。不可思議の現象である。まるで子供に物を教えるようであった。
「あなたは……」
と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。ゆうべから急に新時代の青年という自覚が強くなったけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。不規則だけれども乱れない。卑しくこびるのとはむろん違う。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然きめることができる。ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや明瞭になった。今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。
やがて、小さな声で
「矛盾だ」
と言った。そうして一大発見である。女は黙っている。男は例のごとく、にやにや笑っている。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。この男は頭を坊主に刈って、金縁の眼鏡めがねをかけたおとなしい学生であった。きょうは白地の浴衣をやめて、背広を着ている。(続く)





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