「拝啓、親愛なるヒカルに告ゲル」

コバヤシライタ

第一部「星の船」⑧

「松山新聞 Go! Go! 島野ヒカル! 2012年 9月27日」

ヒカルの出した詩集「プレーン・フォッグ」が大きなタイアップがあるわけでもなく、したたかに確実に売り上げを伸ばしている。
狙ってか偶然か今日が彼の連載が始まってちょうど16年目の節目の記事となった。詳しく調査したわけではないが、ただ一人の連載に10年以上続くのは異例中の異例であろうし、おそらく彼以外に成し遂げられないだろうと思う。当初は会社の方もここまで続くとは夢にも思っていなかっただろう。会社側としたら今が旬の地方のスポーツを盛り上げる中学生の気分で数ヶ月続いてしまえばいいだろうと思っていたに違いない。しかし、回数を重ねるごとに彼に対する応援メール(当時はFAXや手紙が主流だった。)が増え始め、人知れず始まった連載は小さな地方紙の名物連載にまで発展していった。今日はヒカルの今までの軌跡について書いていこうと思う。彼の名前を一躍「全国区」にさせたのは、なんと言っても「プロ入り拒否事件」だろう。高校生最後の夏に初めて甲子園に出場し強豪校に一回戦負けを喫し、そこで彼への注目は半ば収束を迎えようとしていた。しかし、彼の愛媛での知名度とアンダースローからのコントロールを評価されプロ野球屈指の人気チームにドラフト指名をうけたのだ。ヒカルは一躍全国区の「シンデレラボーイ」となり、誰もが彼のプロでもユニフォーム姿を疑わなかった。しかし今思うと直前で大学進学に変えたことによりヒカルはただの野球選手じゃなくなったのではないかと思う。世間ではプロ野球のあり方まで語り始める人まで出始めたが、ヒカルの本当の気持ちはヒカルの中で誰にも代え難いものになっていたのだった。
彼がプロ入りを断ってから地方リーグの選手となったまでの「空白の100日間」に何が起こったのだろうか。その真相は本人以外は知るよしもないが、その日もあの「大濃霧」があったのだ。

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