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青空顎門

二 血戦⑥

 血戦の開始時刻は正午ジャスト。
 現在はその一〇分程前で、姫子と共に街の外に出て事前に指定された場所へと向かっている最中だった。
 夏の初めで、雲一つない青空。しかも昼時ということもあり、太陽の光は強烈でうだるような暑さを導く。
 周囲の鬱蒼とした草木も、数値的にはコンクリートジャングルよりはマシなのかもしれないが、視覚的には余計に暑く感じさせる。
 聴覚的にはセミの鳴き声がそれに拍車をかけていた。
 道着姿であることも暑く感じる理由の一つかもしれないが、姫子は涼しい顔をしているので、その辺は鍛錬の差か。

 街の外はほとんど未開の地に近いはずだが、血戦の場所までの道は簡素ながらもしっかりと作られていた。
 優司に挑む者のために整備されたのだろう。
 しかしながら、最近では処刑場へと向かう道同然だが。

「雪村さんは……佳撫が嫌いなのか?」

 暑さと血戦への不安、道中の沈黙を紛らわすため。
 徹は少し前を歩く姫子に尋ねた。
 日曜日はこちらも休日らしく、佳撫は街の門の近くまで見送りに来てくれていたが、どことなく二人共ぎこちなかった気がする。
 いや、佳撫の方は兄を心配し過ぎて他のことに全く気が回らなかっただけかもしれないが。

「どうして?」

 不機嫌そうに尋ね返され、一瞬言葉に窮する。

「い、いや、何となく」
「そう。……貴方は佳撫のことをどう思っているの?」

 最初の質問に答えてくれないままで姫子にそんな問いを返されたが、徹は一先ず正直に答えることにした。

「大事な妹、だよ」
「何故、そう言えるの?」
「何故って……それは、佳撫が――」
「兄として慕ってくれるから?」

 余りに冷たい口調で発せられた姫子の言葉に、徹は思わず歩みを止めてしまった。
 その気配を感じ取ったのか、彼女もまた背を向けたまま立ち止まる。
「佳撫は貴方のことをこの世界の徹とは別人だとはっきり言っていたわ。つまるところ貴方は赤の他人同然よね?」
「それは――」

 それは何となく違うような気がする。
 しかし、それを言葉に出す前に、その根拠に思い至る前に姫子は再び口を開く。

「なら、佳撫も貴方を代用品として見ているのよ。この世界の徹の代わりに甘えている」

 それは、そうなのかもしれない。
 だが、たとえそうだとしても、佳撫の行動を否定するのは残酷な気がする。
 家族を失って一ヶ月経ち、ようやく受けとめて前に進めるか、というところで別世界の同一人物と触れ合えば、そうなってしまうのも分からなくない。
 それ以前に佳撫の場合は、甘えている、と言うよりは、あの本当にか細い腕で何とか守ろうとしてくれているような気がするが。

「私だって、そうやって逃避できるものなら――」

 苛立ったように呟きながら、再び歩き出す姫子。

「でも、私に負ける程度なら、貴方はあの徹じゃないから。あくまでも、代用品に過ぎないから。佳撫みたいにそんなことをして満足できる訳がない」

 そんな姫子の後を追いながら、何となく彼女のこれまでの言動の意味を理解する。
 そして、度々佳撫に対して見せていた態度の理由も。

「私の好きだった徹は、死んだんだから」

 彼女はどこか弱く、どこか強い。
 強さしか見えない元の世界の姫子とは違う。
 いや、後者は勝手な推測に過ぎないが。
 そして、だからこそ今は混乱してしまっているのだろう。
 先程の佳撫に関する推測は姫子にも当てはまることだ。
 死を受けとめられそうなところに粗悪な代用品が現れれば。
 そんなことを考えていると、何故だか徹の心の中にあった彼女に対する反感は憐憫に変わっていた。

『どうでもいいが、戦闘の前に精神的にマイナスになりそうなことを話すな』

 合理的なレオンの言葉に姫子との会話はそこで打ち切られる。
 それから、しばらく無言のまま歩いていくと開けた空き地に出た。周囲の様子から考えると不自然な程に草の緑色がなく、地肌の土色が一面を占めている。
 どうやらここが血戦の地らしい。
 先を歩いていた姫子がそこで立ち止まって振り返った。
 彼女の瞳は符号呪法を使用していることを示すように、緑色に染まっていた。
 特殊系統の色だが、この緑色のない地では自然的なその色は異様に映える。
 姫子は万が一にでも道中アニマに襲われないように安定化を使用し続けてくれていたらしい。
 徹は心の中で彼女の気遣いに感謝し、同時に反感を抱いたことに謝りつつ、剣を具現化させた。
 それは強い陽光を反射し、メタルブルーの輝きが増しているように感じられる。

「時間ね。……来た」

 緊張を隠さない口調で言う姫子の、仇敵を睨むような厳しい視線を辿る。その先、土色が途切れて再び緑色に支配されたその奥から、一人の男が静かに現れた。
 見覚えのある顔。しかし、この場では多分に漏れず道着を身にまとっているためか、何となく別人のようにも見える。
 いや、服装それ以前に、見覚えのある顔ながら表情は明らかに徹の知る優司ではなかった。

「優司……」

 正直に言えば、徹はこの場に立っても尚、命を懸けなければならないことをどこか信じ切れていなかった。
 だからこそ、ここに至る道中であんな問いを姫子にしてしまったのかもしれない。
 だが、それも彼の瞳を見るまでのことだった。
 その青色に染まった瞳に宿る狂気、彼が自分を認めた瞬間に表情に広がった狂喜に、ようやく徹は自分がこれから命のやり取りを行うことを理解した。
 それを理解した時にはレオンに体を支配され、傍観者でいるしかなかった。
 しかし、結果としては助けられたのかもしれない。

「どういう訳かは知らないが、まさか再び徹と戦えるとはな」

 整った顔が狂ったように歪む。
 その手に携えた日本刀は禍々しい雰囲気を放ち、同質のものが彼の体全体から感じ取れる。これは同じ言語を使用しているが、明らかに人間とは別種の存在であると本能が告げていた。
 ともすれば硬直して卒倒してしまいそうな程の強烈な威圧感を受けながら、しかし、レオンが体を操ってくれているため、徹は何とか倒れ込まずに済んでいた。

「立会人は君か。面白い」

 ふんと忌々しそうに鼻を鳴らしてその場から遠ざかる姫子へと優司の視線が向いている間に、徹は何とか潰れそうな心を立て直した。
 とほぼ同時にレオンが構えを取り、その気配を感じたように優司が視線を戻す。

「言葉は必要ない、か」

 優司は楽しそうにさらに口元を歪ませ、日本刀を鞘から抜き放って正眼に構えた。

「ならば、いざ、尋常に……勝負!」

 叫ぶや否や、優司は小細工抜きに大地を蹴って一直線に向かってきた。
 移動のスピードだけを見れば、姫子よりもほんの少し遅いように知覚される。
 しかし、重量感のようなものが段違いだった。
 それを示すように振り下ろされた一撃の速度は、姫子のそれよりも速い。
 元々同程度の移動速度に圧倒的なパワーが加算された結果だろう。
 しかし、その一撃もレオンが剣を的確に合わせて受け止める。

「あの時は確かめる前に殺してしまったが、やはり村正でも消せないか。レオンは」

 感心するような口調と共に、狩りがいのある獲物を見つけた狩人のように口角を吊り上げる優司。
 彼は鍔迫り合いを行うことなく自ら距離を大きく取り、刀身を反転させた。
 時代劇でよく見る峰打ちの形。しかし、正式な峰打ちとは切る寸前で刀身を反転させるもののはずだが、これは一体どういうことなのか。
 殺すか殺されるかの戦いでこれまで一切の慈悲もなく相手を殺害し続けてきたこの相手が、今更不殺を望むとは到底思えない。
 いや、勿論峰打ちであれ、相応の速度で放たれれば致命傷となるのは明白だが。

「行くぞ」

 律儀に宣言し、刀身はそのままに斬撃を繰り出す優司。
 何かしらの心理的なトラップなどではなく、単純に切断力よりも打撃力を優先させたかのように攻撃には一切の迷いがない。
 しかも、刀身を反転させたことによる感覚の微妙な違いなどないかのように、ほとんど通常の一撃と遜色ない鮮やかな軌道を描く。
 だが、逆に受ける側にとってはその違いは大きく、どうにも目測を惑わすようで避けたはずの攻撃が何度か掠り、その切っ先によって皮膚が裂けてしまった。
 それでも痛覚はレオンが消し、裂傷は彼の治癒力によって即座に回復される。
 この程度の掠り傷であれば命には届かないことを確認し、徹は殺意ある攻撃を前にしてぎりぎりのところで心を冷静に保つことができていた。

「どうした? その程度か?」

 しかし、その愉悦に塗れた声には嫌悪と苛立ちを抱く。
 こんなものは優司ではない。他者を見下して楽しむような奴は決して。
 そんな徹の気持ちに呼応したかのように、レオンが攻勢に出始める。
 どうやら峰打ちという少々変則的なものを用いた、しかし、ただ単にそれだけの正攻法の剣術にはもう対応したようだ。
 その辺の目の狂いを即座に修正できるのも達人の証か。
 盾として使用していた剣をその本来の役割、攻撃で使用する。

 この両刃の片手剣は西洋的なフォルムで、普通に考えれば突くとか叩くためにあり、本来刀のための剣術の型は相応しくないだろう。
 しかし、符号呪法によって生成された剣はその形状がどうあれ、通常の刀を遥かに上回る鋭さ、切断力を持つ。
 片手剣を刀のように構え、刀で使用すべき技をそこに乗せても大きな問題にはならないに違いない。
 あるいは、レオンが若干のアレンジを加えているのかもしれないが。

「む、ぐうっ、おお!?」

 連続して場に響く刃が交錯する音が加速していくにつれ、徐々に優司から余裕の色が消えていく。
 彼は徐々に後手に回りつつあり、レオンの剣術が翻弄し始めていた。が、そのまま詰将棋のように追い込まれるのを嫌ってか、優司は再度大きく距離を取った。
 そして、今度はその場で上段に構え、そのままぴくりとも動かなくなった。
 動の戦いから静の戦いに移行させるつもりのようだ。

 互いに符号呪法によって生成された武器なのだから、動の戦いを続けても特に問題はないが、やはり本来的に静の戦いが一対一における刀の戦いだ。
 刀で何合も切り結ぶというのは余りイメージにない。
 それは刀身が欠けたりすることのない妖刀、魔剣が跋扈する世界での話だろう。
 正に今この場のことでもあるが。
 上段の優司に対して、同じくレオンもまた上段に構える。
 剣の長さはほぼ同じで、体格も似ていることから間合いも同等と言っていい。
 つまり、そのまま振り下ろすなら完全に速度で勝負が決する形だ。

 レオンがそれを選んだことは恐らく正しい。
 これまで見た限りでは斬撃の速度はレオンに軍配が上がる。
 理由はやはり優司が時代劇風の峰打ちの形を取っているからだ。
 あれではどう考えても、通常時よりも速度は遅くなる。
 重心のズレや空気抵抗などによって。
 それは微細なものだが、それでも達人域では大きな差になる。
 それ以外にも、たとえ相打ちになっても、急所を打ち据えられない限りは治癒力を有するレオンが有利になるはずだ。
 だが、いくら何でもそれを優司自身が気づいていないはずはない。
 レオンをして実力者と言わしめた男なのだから。
 ならば、素直に上段から振り下ろしてくると安直に考えることはできない。

 繰り出されるだろう工夫の機先を制するか、あるいは避けて打ち込む必要がある。
 そういった考えに徹が囚われている内にも、少しずつ間合いが詰められていく。
 根本的にはレオンに全て任せているのだが、それでも精神的に緊張が極限まで高まっていた。
 こうしたものに耐える精神的な強さもまた勝負を決める一因なのだと改めて知る。

 そして、互いが互いの間合いに入った。
 瞬間、優司は何を思ったのか、明らかに負ける勝負に出た。つまり、速度での勝負を挑むように上段の構えからそのまま振り下ろしてきたのだ。
 しかし、その愚直さにむしろ、徹と同様に裏を読もうとしていたらしいレオンはほんの一瞬反応が鈍ってしまった。

『だが、甘い』

 それでもやはり峰打ちだからか、速度は万全ではない。
 レオンは咄嗟に左手を剣の柄から離し、迫り来る刀身の地肌を殴り飛ばして軌道を逸らした。同時に右の剣を横に構え、優司の脇を抜けるようにして突っ込む。
 そして、右手の剣を左に薙いで、優司の腹部を切り裂いた。
 そのまま走り抜け、間合いの外で瞬時に振り返る。
 優司は完全に胴を切断され、上半身が地面に落ち、しかし、下半身は未だに大地を踏み締めて立っていた。その真下、土色の地面は紅を大量に吸い込み、そこに怪しい色彩を生み出している。

「勝った、のか?」

 一瞬の静寂にただその呟きだけが場に響く。

「そう見くびってくれるなよ。徹」

 しかし、その問いに答えるように、心外そうな声が地面に転がったままになっている優司の上半身から聞こえてきて、徹は驚き動揺してしまった。
 レオンが操る体は警戒の色を強めるように再度構えを取る。
 次の瞬間、優司の血液が染み込んだ地面が不気味に蠕動し、盛り上がり、彼の上半身を飲み込んだ。同時に、立ち尽くしていた下半身を侵食するように大地から血色の土が這い上がっていく。
 その光景はどこまでも奇怪で、生理的嫌悪感を覚えさせるものだった。

「な、何よ、これ」

 離れた位置で見守っていた姫子の顔が、その余りの不気味さに蒼白になっていた。
 その肩は軽く震えている。これは徹から見れば摩訶不思議ばかりの森羅でも、輪をかけて異常な事態のようだ。
 這い上がった土はやがて人の形を作りながら、しかし、形成された存在は決して人ではなかった。
 それは通常の人間よりも一回り以上も大きく、むしろ初めて森羅を訪れた際に見たアニマに存在のあり方が似ている気がする。
 本来目がある部分は落ち窪み、その奥から青く淡い光が漏れていて、それが正に自分に向いていることを徹は感じ取っていた。

『さすがは徹、と言いたいところだが、腕が少し鈍ったか? お前なら、あのような小手先の技に頼らずとも、あの程度の遅れをものともせずに後から打ち、先に当てることすらできたはずだが』

 口の見えない頭部から聞こえる優司の軽い落胆に、レオンが小さく舌打ちする。

『だが、やはりいい。この痛みは』

 くぐもった声は喜悦に溢れ、優司の存在の歪みを示す。
 一回り大きくなった右手に握られる日本刀、村正は体躯と比較すると小太刀のようにさえ見えた。

『異常、復号体、か……』

 レオンが忌々しげに呟く。彼にしては珍しく、戸惑いと焦りのような感情が構える剣の僅かな揺らぎから感じられた。

『この姿になるのは三週間前以来か』

 三週間前。それはつまり十五名の復号師と同数の県民が惨殺された日。

『さあ、徹。もっと楽しませてくれ』
『くっ、確かに簡単に決着がついたと思ったが』

 心の中でレオンの言葉に同意する。
 いくら性質の相性というものがあるにしても、それだけの数を相手に勝利した優司があれで終わるとは冷静に考えれば到底思えない。
 そして、実際に終わりではなかった。

『行くぞ』

 またも律儀に、むしろ余裕を見せるように優司は宣言した。
 と思った次の瞬間、彼はその姿を消した。
 少なくとも徹にはそうとしか見えなかった。が、レオンにはその動きが見えていたようで右手の剣を振り、しかし、恐ろしい程の金属音が響くと共に徹は数メートル弾き飛ばされていた。
 地面に落下する寸前にレオンは体を捻り、接地と同時にさらに数メートル転がって勢いを殺しつつ、即座に立ち上がった。
 視線が優司のいた方向に向けられる。だが、そこには既に彼の姿はない。
 そう徹が認識した時には、レオンが何を判断材料としたのか突然転がるように横に飛んだ。
 直後、一瞬前に徹がいた場所に肥大化した優司の左手が振り下ろされ、地面が抉り取られてしまう。

『よくぞ避けた。さすがは徹。だが――』

 ようやく真正面に優司の姿が確認され、しかし、同時に恐ろしい程の重量感を湛えたその巨躯が迫ってくる。
 それは先の速さと技による勝負を汚すような、正に暴威だった。
 その巨体にもかかわらず先程までよりも速く、更にはどうしようもなく強い。
 剣を合わせてしまえば確実に弾き返されてしまうため、レオンは回避を続けていた。図らずも刀を用いたような戦い方になってしまっている。

『すまないが、賭けに出るぞ』

 緊迫したレオンの、相手には聞こえない程度の小さな声に、僅かながら許された動作で肯定の意を伝える。
 このままではどう考えてもいずれ回避できなくなる。
 負ける選択肢に縋ってなどいられない。
 生き残るために、可能性が高そうな方を選ばなければならないのだ。たとえそれが〇%と一%の違い程度のものだとしても。
 レオンは絶大な威力を秘めた拳を回避するのではなく、剣を絶妙に当てることで僅かに軌道をずらし、それを右後方に受け流して相手の体勢を崩した。
 そして、そのまま相手の懐に入り込み、一切の駆け引きなく、全ての力を一撃に結集させるように切り上げた。
 しかし、それは完全に苦し紛れの一撃だった。
 相手の行動速度から考えれば、優司の刀で防がれてもおかしくはない。
 が、優司はわざとらしく無防備にその斬撃を真正面から受けていた。
 破壊される土の鎧。それは欠片となって地面に落ちる。

『ここまで、か』

 そう、どこか寂しそうに呟いたのは優司だった。
 どういう意味なのか、と脳裏に疑問が浮かぶ前に徹は目の前の光景に絶句した。
 地に落ちた欠片は巻き戻されたように優司の体を再び覆ってしまったからだ。

「え?」

 次の瞬間、視界に一筋の銀光が走ったかと思えば、徹の右腕はあり得ない位置で折れ曲がっていた。
 一切の痛みも感じないまま呆然とそれに意識を向ける。その結果を認識した後から、ようやく過程に、つまり峰で打たれた事実に徹は気づいた。
 その間にも真正面から岩石のような拳が迫り、腹部に激突すると共に徹は空を舞い、背中から大地に叩きつけられた。
 それでも尚、痛みはなかった。

「ぐ、がはっ」

 しかし、強烈な吐き気に襲われ、何とか起き上がろうと地面に手をついた徹は吐き出すべきものを全て地に吐き出していた。
 それは血だった。これまで自らの体から出たことなどない程の量の。
 思わず左手を口元にやり、ハッとする。
 レオンによる体の支配が途切れている。
 右手を慌てて見ると、それはだらりと歪んだ形のまま力なく垂れ、その先の掌には何も握られていない。周囲を見回すと遥か遠くに剣が転がっていた。
 その視線を遮るように、酷く重さを感じさせる音と共に、目の前に優司が立つ。

「徹っ!」

 姫子の叫びももはや遠く、目はひたすらに眼前の脅威を見詰め続ける。
 体は完全に硬直してしまい、逸らすこともできない。
 唐突に徹は理解した。自分はここで死ぬ、と。
 覚悟などしていなかった。
 何とかなるものだと安直に考えていた。愚かしいまでに。

 ほとんど裏技に近い形で体を鍛え、更には十分な装備もあった、はずだった。
 何より、レオンや姫子から得られた情報で、自らが死に至る未来を想像することなどできる訳もなかった。
 何故なら、情報を提供した彼等自身もまたこの事態を予測してはいなかっただろうから。
 異常復号体。それは正に異常な存在。元の世界の常識からかけ離れた森羅にあって、更にその常識から逸脱した存在だったのだ。

『何だ。その顔は』
 気づけば、徹は情けなくも恐怖で目を見開き、涙を流し、体を震わせていた。

『何故、恐怖する。涙する。怯える』

 苛立ったように刀の切っ先を向けてくる優司。

「ひっ、あ」

 思わず喉がか細い悲鳴を上げる。レオンに操られなくなったことで、虚飾に満ちた心の鎧までもがはがされてしまった。

『……お前は、徹ではないな?』

 ただ、徹は目の前の存在が怖かった。
 元々いた日常で、本気で他者の命を奪おうとする存在など虚構の中でしか見たことがなかったから。
 今更ながらに、どうしようもなく怖かった。

『死ぬ覚悟もなく、戦場に立つなど徹ならばあり得ない!』

 同時にこの世界の自分にもまた恐怖していた。
 一体、彼はどれ程の存在だったというのか。何故そんな者の代用品が自分に務まると皆は考えたのだろうか。

『俺を騙したな!?』

 恫喝に屈し、思わず身を縮めてしまう。

『くっ……興醒めだ』

 優司は心底つまらなそうに吐き捨てた。

『徹もどき。お前など殺す価値もない。ここで殺してしまえば、徹として死ぬことにすらなりかねん』

 無意識的に助けを求めるように姫子へと顔を向ける。
 が、次の瞬間、優司の拳が再び腹部に突き刺さり、痛みはなくとも脳が強制的に指示したかのように徹は意識を手放した。
 最後の瞬間、視界に映っていたのは、失望とも絶望とも取れない、どうしようもないものに堪えている姫子の姿だった。

***

『俺を愚弄したな、雪村の。過去二回も含めて!』

 怒気に満ちた声に姫子の体は勝手にびくりと震えた。
 姫子へと意識を移した優司は、別世界の徹が気を失っている場所から、ほとんど一足飛びに目の前に移動してきた。
 その異様な姿を前にして、姫子は今にも硬直しそうな体を必死に叱咤し、護身用に持ってきた刀を構えようとした。

『度胸は買うが、無駄だ』

 それは分かっていた。
 どう考えても通常の刀では心許な過ぎるし、そこらで発生するアニマでは多少効果がある姫子の固有呪法もこの異常復号体には通用しないだろうから。

『もはや一騎打ちなどどうでもいい。俺は街を、滅ぼす』
「そ、そんな――」

 最悪の状況を予告され、言葉を失う。
 完全に策が裏目に出た形だ。想定していた最悪の状況よりもさらに悪い。
 異常復号体と化した優司の力は完全に想像を上回っていたのだから。

『即座に、と言いたいところだが、一度だけ猶予とチャンスをやろう。……三日後だ。今度こそ本当に俺が満足するだけの相手を用意しろ。そうすれば考え直してもいい。が、今回のようなことがあれば、そのまま街を滅ぼす。分かったな』

 優司は一方的にそう言い放つと、姫子の返答も聞かずに血戦の場から草木生い茂る森の中へと消えていった。
 呆然とする姫子と気を失ったままの徹を残して。

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