阿頼耶識エクスチェンジ

青空顎門

エピローグ cogito, ergo sum=sum, ergo cogito

 四日後。菴摩羅がもたらした混乱は街を覆い尽くしていたが、しかし、視覚的な騒乱は一切起きていない。街そのものが死んでしまったかのような静寂が街を支配していた。
 人間だけでなくアミクスの影すらもないこの光景こそは、偽りで形作られた関係を取り払った、世界の真の姿だったのだろう。
 それ程までに人間はアミクスに依存し、堕落していたことが明確に分かる。
 連示は無人の公園内に数多くあるベンチの内、対面できる位置に別のベンチがあるものに座りながら、目前に広がる物寂しい光景を前にそんなことを考えていた。
 哀愁を増すような十月末の中途半端に冷たい風に身を震わせていると、左手に温かな感覚が生まれる。そんな世界にあっても孤独を全く感じないのは、彼女のおかげだ。

「ゴーストタウン、って感じだね。何だか、世界に二人だけになったみたい」

 一緒に座る末那が手を握って無邪気に笑いかけてくる。

「……そんなこと言うと、阿頼耶に悪いぞ」
「そう、だね。連示君とこうしていられるのも阿頼耶のおかげだし」

 えへへ、とばつが悪そうに笑う末那に自然と頬が緩む。
 末那の体が破壊された時、本当にもう二度と彼女の笑顔を見ることができないのだと思った。その後、火輪から末那は無事だと聞かされた時の安堵は、大き過ぎてその場で崩れてしまいそうになる程だった。
 少し離れたところにある自動販売機までジュースを買いに行ってくれている阿頼耶へと目を向ける。
 こうして末那と話ができるのは、阿頼耶が体を修復してくれたからだ。それも、その体は阿頼耶のものと同等以上の性能があるそうだ。
 人格交換時を含め、無防備な連示の体を守るために阿頼耶が設計したものらしい。
 しかし、外見は以前のままだ。阿頼耶の趣味らしいゴスロリ風のワンピースも当然のように着ている。それを当然と感じてしまう辺り、慣れというものは本当に恐ろしいと改めて認識させられる。

「でも、静かだね。本当に」

 そんな末那の言葉を否定するように一陣の風が起こる。
 それは人工の音を全て取り去れば、意外と自然は音で溢れているのだと教えてくれているかのようだ。
 末那は別に寒くもないだろうに小さく悲鳴を上げて、さらに身を寄せてきた。

「まだかな。鈴音ちゃん」
「いや、まだ待ち合わせの時間になってないからな」
「あれ? そうだっけ」

 末那は公園内にあった時計を確認して、本当だね、と笑った。
 今日、ここに来たのは鈴音と会って、彼女にこの事件の顛末を話すためだった。
 末那の修復や、現在事件の処理に忙殺されている拓真と美穂への確認に手間取り、また鈴音自身家族が入院したこともあって四日という間を置かなければならなかった。

「被害を受けた人達、大丈夫なのかな?」
「二宮さんが言うには命に別状がある人はいないらしい。でも、人によっては精神的に本当に大きなダメージを受けた人もいるみたいだ」

 鈴音の家族は幸い比較的症状が軽かったそうだ。
 昨日の夜、今日の約束をした時には彼女も大分落ち着いていた。
 その分、逆にあの日に口を滑らした本音を気にして普段通りとはいかなかったが、それはご愛嬌というものだろう。

「病院の人達も被害を受けたんだよね?」
「ああ。菴摩羅は無差別に、一様にショックイメージを送りつけた訳だからな」

 アミクスが夜勤中であるために、その時間に複合娯楽施設にいた者以外は医療関係者も例外ではない。故に被害者のケアのためには、各地からの援助が必要不可欠だ。

「それよりも今心配なのは、これから先のことだな」
「これからのこと?」
「この被害がアミクスによって引き起こされたものだと分かれば、大衆はアミクスを排除しようとするかもしれない。ファントムだとかミラージュだとかは関係なく、な」

 これまでの依存を棚に上げ、両者を一括りにして。
 別のあり方を取る知的存在を望まない人も多いだろう。人間こそが万物の霊長、唯一無二の知的な存在なのだ、という間違ったプライドのために。

「そんな……わたしと連示君みたいに仲よくできないのかな?」

 不安そうな表情を見せながら、末那は手を握る力を少し強めてきた。

「難しいけど、不可能な訳じゃない、と思う。まあ、ここに実例もある訳だし」

 そんな末那を安心させるように彼女の小さく、しかし、温かな手を握り返す。と、彼女は安心したような、正に彼女らしいほわっとした笑みを見せた。

「大衆が、まあ、これは俺も含めてのことだけど、情報発信者の恣意的な情報を第一に疑うことができれば」
「恣意的? そういうのって客観的じゃないといけないんじゃないの?」
「この世に客観的な情報なんてないさ。自分の目で見たものを、自分の持つ語彙で、自分の言葉、あるいは文章という形にして相手に伝える。写真なんかでも被写体を選ぶのは自分だしな。それは結局のところ主観的なものだ。……まあ、それを分かっていても、かなり難しいだろうけどな。情報の真偽や是非を判断することは。俺も全然できてないし」

 そもそも人間一人が得られる情報など限られているのだから。
 情報を得る側もまた己の知るものしか知らず、そして、それで判断をしているのだ。
 情報は発せられる時も主観的であり、受け取られる時もまた主観的なのだ。
 それは例えば、教科書などもそうだ。その時点で最も正しいだろう事実を、その編集者に取捨選択されてまとめられる。
 デカルトも言ったことだが、その事実が千年後も正しい保証などどこにもないというのに、そんなものを人々は絶対的に正しいと信じている。勿論、大半は実際に正しいことに違いないと思うが、盲目に信用し過ぎることはさすがに危険だ。
 全てを疑えとは余り言いたくないが、それでもそこら中に蔓延る情報については第一に疑うぐらいが丁度いいのではないだろうか。
 最低限、情報は主観的であるが故に不確かであることぐらいは理解して、それと対峙しなければならない。

「そのためにも、やっぱり人間は考えることを止めちゃ駄目なんだと俺は思う。人間は考えてこそ人間であることができるんだから」
「コギト・エルゴ・スム、だね。我思う、故に我あり。有名な言葉だよね」
「……いや、少し違う、かな。何となくだけど、しっくり来ない」
「考える葦、とか?」
「いや、そのちょっと前の段階だと思うんだけど」

 末那は難しい顔をして、うーん、と唸った。

「それは多分考えるにはまずあることが必要、という感覚もあるからじゃないですか?」

 ジュースを片手に持った阿頼耶が会話に加わってくる。
 そのまま彼女は連示の右隣に、対面できるベンチがあるにもかかわらず、左に座る末那に対抗するように彼女よりも僅かながら近い距離で座った。
 両手に花状態だが、両者共アミクスなのは何とも言えないところだ。

「末那。さっき私のことを仲間外れにしましたね?」
「あう。き、聞こえてたんだ。やっぱり」

 ばつが悪そうに軽く縮こまる末那。

「当然です。私の聴覚を嘗めないで下さい。今の貴方と同等のものなんですから」
「そう言えば、そうだったね」
「そうです。そして、私達は何があっても三人一緒です」

 連示を間に挟んでそんな言葉を交わしながら笑い合う二人は、まだ出会って日は浅いが仲のいい姉妹のように見えた。
 同様の部品、設計思想で作られた体を持つのだから、今まで以上にその表現が合うようになったと言える。

「それはともかく、先程の話の続きですけど――」
「あ、ああ。何かすっきりする考え方でもあるのか?」
「はい。思考するには存在しなければならない。しかし、思考によってこそ存在を信じることができる。そう考えるなら、答えは一つ。思考=存在です」
「思考と存在は同じ……」

 確かにそれならばしっくりくる気がする。
 連示にはそれが人間、いや、知的な存在のあり方に合致しているように感じられた。
 思考するから存在する。存在するから思考する。そのどちらでもない。思考と存在、どちらかが先立つ、というものでもないのかもしれない。

「特に私達ミラージュは元々明確な体を持っていませんから、そういう考えに至り易いかと思います。電子の海では自分の思考だけが全ての道標ですから」
「成程、な」

 連示はそれをどこか感覚的に納得できたが、ファントムとして完全に肉体ありきで生まれた末那はよく分からないのか、唇を尖らしながら小さく首を傾げていた。

「金村、いや、もう末那だったか。阿頼耶の言葉は理解できずとも構わない。お前はお前の信じるままに生きればいい。所詮思想など己あってこそのものなのだから」
「と、友井!? どうして、ここに?」

 あの騒動の後、一度無事の連絡を寄越したきり音沙汰のなかった紀一郎がいつの間にか傍に立っていた。阿頼耶も末那も気づかなかったらしく、驚いた表情を見せている。
 しかし、アミクスを超えた性能を持つはずの二人の聴覚で感知できないとは、一体どういうことなのか。それ以前に阿頼耶の名を何故知っているのか。
 疑問ばかりが脳を駆け巡り、連示は紀一郎の返答を待たずに質問を続けようとした。
 だが、それを制するように先に彼が口を開く。

「ああ。別れを告げに、な」
「どういう、ことだ?」
「阿頼耶は理解したはずだ。疑問は彼女に聞け」
「成程、やはり貴方は……もう、監視は必要ないと?」

 紀一郎の言う通り、一人理解した風の阿頼耶の問いに彼は深く頷いた。

「お前の報告にあった通り、世良末那は少なくとも金村遊香の脅威とはならない」
「わ、わたし?」
「人間の害となるかどうかは行動の結果次第だが、心の方も問題はない」

 正直、連示としては紀一郎の正体は見当つかなかった。だが、何やら事情に通じている様子の彼が末那を認めてくれたことに関しては素直に嬉しかった。

「いずれまた会うこともあるだろう」
「貴方は他の半端なファントムの許へ?」

 紀一郎は小さく首肯すると、そのまま三人に背中を向けて去っていった。

「阿頼耶、紀一郎は……」
「彼は不安定なファントムとしてあった末那を監視していたミラージュです」
「ミラージュ? なら――」
「はい。彼の体は私達と同等のものです。この体の目で彼を見たのは初めてですから、今まで確証が持てませんでした。当時の末那の目は恐らく欺瞞されていたでしょうし、ご主人様や末那が気づけなかったのも無理もありません」
「監視、か。友達の振りをしてただけ、だったのか?」
「それは違うと思います。それならご主人様に接触する必要はありませんから」
「……そうか。そうだな」

 末那がファントムとなったのは中学校の頃。紀一郎と話をするようになったのは、ほんの数ヶ月前。鈴音本人が学校に来るようになった後だ。
 それまでは単なる監視だったが、何かしら心境の変化があったのかもしれない。

「ご主人様と鈴音さんのことも見守ってくれていたのかもしれません」
「……そう、かもな」

 であれば、この騒動にも力を貸してくれれば、とも思ったが、ミラージュであれば人格交換しなければ防衛はできても攻撃はできない。
 貸したくても貸せなかった、というのが実情だろう。
 それでも、もし次に会う機会があったなら、友達らしく冗談っぽく文句の一つでも言ってやろう。連示はそう思った。

「ご主人様。鈴音さんが来たみたいですよ」

 阿頼耶の言葉に末那共々彼女の視線を辿る。と、遠くから歩いてくる人影が見えた。
 それがある程度近づいてきて、ようやく連示にも鈴音の姿であることが分かった。
 彼女は時間帯的に本来学校で授業を受けているはずの時間だからか、真面目に倫定学院の制服を着ていた。

「世良君、その、この二人は……って、え? ユウカちゃん?」

 まだ寝惚けて本音を口にしたことを引きずっているらしかった鈴音だったが、そんなことは驚きで意識の果てに飛んでいってしまった、という風に目をぱちくりさせた。
 どうもゴスロリ風の服装のせいで、一瞬そうだと分からなかったようだ。

「違うよ。鈴音ちゃん。わたしは世良末那になったんだよ」

 紀一郎にも認めて貰ったからか、自信満々に平らな胸を張る末那。

「へ? え、っと……え?」

 そんな末那の様子に鈴音は、ちょっと意味が分からない助けて、という感じに目線で説明を求めてきた。
 突然、それだけを聞かされたら、当然の反応だ。

「そのことも含めて、これから話すから。約束した通り。とりあえず座って」
「あ、う、うん。でも、その前に――」

 鈴音は適度な距離にあるベンチに腰かけながら、ちらっと阿頼耶に視線を送った。

「ええと、こちらは、どなた?」
「この姿では初めまして、ですね。風守鈴音さん。私は阿頼耶と言います」
「あ、はい、初めまして。……この姿、では?」
「それは追々。それでは、ご主人様に代わって説明をさせて頂きますね」
「ご、ご主人様あ!? ちょ、一体、どういうことなの!? 世良君!」

 色々と妙な誤解をしているのが見て取れる疑惑の目で鈴音に睨みつけられ、連示は顔を引きつらせた。
 ぎこちない態度が完全に吹っ飛んだところまではよかったが、正直この展開は余りよろしくない。
 隣にいる末那は完全に他人事のようにくすくすと笑っていて、阿頼耶は阿頼耶でその瞳に意地悪そうな色が微かに見て取れる。
 こういう悪ふざけのようなことができるのも、彼女達が優れたパーソナリティを有している証か。
 しかし、連示としてはこんな形でそれが発揮されるのは勘弁して貰いたかった。

「そ、それも全部話すから」
「そう。そうよね。ちゃんと全部話して貰わないとね。約束したんだし。私の本音まで聞いたんだし。……じゃあ、阿頼耶さん? きっちり包み隠さず、話してよね」

 阿頼耶に視線を向けて完璧な笑顔を作る鈴音。
 しかし、連示にはその笑顔に般若の面が重なって見えた。
 強烈な威圧感を放つそれを前にすれば、もはやぎこちなく笑うしかなかった。
 隣に寄り添う阿頼耶と末那もまた笑顔だったが、二人は連示とは対照的にとても楽しそうだった。

「分かりました。では、まず私の正体と私が電子の海に生まれたあの日のことから――」

 そうして、阿頼耶は今回の騒動の顛末を語り始めた。

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