【初稿版】特オタ~特撮ヒーローズオルタネイト~
第三十八話 回帰 ④平和の強要と初期化
過剰進化を以って人々の自由意思を侵害していた犯人。
魔法研究所の所長は死に、戦場に過剰進化した超越人が乱入することはなくなった。
前回そう判断してすぐに再出現し始めたこともあり、しばらく警戒を続けたものの、さすがに今度ばかりは終息してくれたようだった。
そうして彼女の死から二週間。
新たな問題が生じていた。いや、継続していたと言うべきか。
「……パラエナ」
眼前に立つ真水棲人の名を、強い怒りの感情と共に呼ぶ。
彼女は単身、王都モノコスモスを襲撃し、既に数名の基人を殺害していた。
半ば暴走したかの如き暴れっぷりは、騎士達の手に負えるものではなく、ウェーラからの情報を得た『雄也』が立ちはだからなければ被害は増えていたに違いない。
「たとえ狂人であれ、力を持たない弱者を殺す外道だとまでは思わなかった」
そんな彼女を前に、『雄也』は装甲に覆われた人差し指を突きつけながら、侮蔑するようにパラエナへと糾弾をぶつけた。
「ユウヤ……」
対して彼女は縋るように手を伸ばしてくる。
まるで『雄也』の存在、その姿は救いだとでも言うように。
「兵士達も市民達も誰も彼も気が狂い、理由もなく唐突に他種族を受容するようになってしまった。訳が分からないまま戦いは終わってしまったわ」
そして普段の間延びした口調ではなく、諦観を湛えた声色を出すパラエナ。
ウェーラだけでなく、彼女達にも発生していたあの症状。
それは一般市民や下位の兵士など力に乏しい者達において急激に進行し、時折呆けるといった症状に留まらず、全く人が変わったようになってしまっていた。
特に戦場に立っていた兵士達。
彼らは異種族への敵意が衰え、戦争に忌避を抱くようになっていた。
まるで市民に蔓延していた厭戦的な空気に影響されたかのように。
挙句、それは各国上層部にまで拡大し、結果、瞬く間に戦争は終結してしまった。
いや、戦争が終わって悪いことなど本来ならほとんどないはずだが。
「それが気に食わなかったのか?」
「いいえ。戦士にもなれない惰弱な存在に興味はないわ。けど……」
『雄也』の問いにそう答えたパラエナは、心底悔しげに更に続ける。
「私までそんな感覚を抱くのはあり得ない。絶対に」
その声色は、ほとんど泣きそうなものだった。
「ラケルトゥスやリュカ、コルウス、ビブロス、スケレトスもそう。何かが壊れてしまった。真妖精人ビブロスに至っては基人への憎悪と受容の狭間で発狂してしまっている」
そして「私も気が狂いそうよ」とつけ加えると――。
「う、く」
彼女は膝を突き、頭を抱えながら苦しげに呻いた。
「パラエ、なっ!?」
次の一瞬、真水棲人らしいシャチの如き特徴を持ったその姿がぶれて単なる水棲人となり、『雄也』は思わず驚愕の声を上げてしまった。
すぐに真水棲人に戻ったが、見間違いではない。
恐らく意思だけでなく、力まで衰えつつあるのだろう。
「私には、私でなくなる私を止めることができない。だったら、せめて……」
パラエナは呟くように言うと、突然立ち上がって『雄也』へと突っ込んできた。
「……お前は人の命を、自由を奪った。自我の証明のためとは言え、最期の瞬間まで誰かを殺し続けようというのなら、生かしてはおけない」
彼女の意図は分かる。
だが……いや、だからこそ敢えて唾棄すべき敵に告げるように言い放つ。
元より『雄也』にとって許せる存在ではなくなっているが、殊更否定の意を強めて。
《魔力ノ急速収束ヲ開始シマス》
《Change Therionthrope》《Convergence》
《Change Drakthrope》《Convergence》
《Change Phtheranthrope》《Convergence》
《Change Ichthrope》《Convergence》
《Change Theothrope》《Convergence》
《Change Satananthrope》《Convergence》
《Change Anthrope》《Maximize Potential》
そのままパラエナが間合いに入るまでの間に、魔力を収束し――。
「〈オーバーアイシクルフィスト〉!」
「〈レゾナントアサルトブレイク〉!」
水属性の魔力を圧縮したが如き塊を拳に纏わせた一撃それ自体に対し、正面から衝突するように全魔力を乗せた殴打を叩き込む。
「が、ああああああ、あああああああああぁっ!?」
直後それによってパラエナの右腕はぐちゃぐちゃに潰れ、彼女は両膝を地面に突きながら空に向けて天を切り裂かんばかりの鋭い絶叫を上げた。
やはり明らかに力が衰えている。
その衰えにより、呆気なくもこれが致命の一撃となってしまったようだった。
「ああ、あぐ、う。ふ、ふふ」
最期の瞬間。それでも笑い声を上げる姿に、戦場でパラエナに感じた狂気を思い出す。
「勝てるかどうか分からない強大な存在とさえ命を懸けて殺し合い、その果てに死ぬ。勝てなかったことは口惜しいけど、そのあり方は私らしくもある。感謝するわあ」
パラエナは最後を彼女らしい間延びした口調で締めると、満ち足りた表情で目を閉じた。
やがて『雄也』が叩き込んだ魔力は体の中心に伝わり、そこで爆発的に膨張し始める。
「そんな筋合いはないけどな」
そして、そんな風に勝手に満足しているパラエナに『雄也』がそう吐き捨てた瞬間、臨界に達した魔力によって彼女は爆散してしまった。
罪なき市民を殺した人類の自由の敵が悔いもせず死んでいくことに、苛立ちと言い知れぬ敗北感を抱く。断罪することもできずに逃げ切られてしまった気分だ。
何より、これもまた自由を貫いた人間の一つの姿のように思えてしまって。
「はあ」
そんな感覚を一先ず胸の内にしまい込むために一つ息を吐く。
「…………〈テレポート〉」
それから地面についた爆発跡を少しの間だけ見詰め、『雄也』は自宅に転移した。
《Armor Release》
「ウェーラ」
そのまま装甲を取り払いながら駆け足気味にウェーラの元に向かい、部屋のソファでぼんやりとしていた彼女に呼びかけた。
「……ウェーラ?」
「え?」
一度では反応がなく、二度名前を呼んで彼女はようやく顔を上げる。
「あ、私、また……」
ウェーラは少しの間呆然とし、すぐに激しい苛立ちを示すように奥歯を噛み締めた。
そうした感情の乱れを振り払うように大きく顔を横に振り、直後彼女は自分で自分の両頬を張る。大分強く。
パチンという音と共に肌が真っ赤になるが、それで少し落ち着いたようだ。
痛みで己の存在を確かめているのかもしれない。
「パラエナはどうなったの?」
映像で見ていたはずだが、途中であの症状が出ていたようだ。
そう判断して、一々指摘せずにパラエナの末路を話す。
「そう。彼女も……」
ウェーラはそう呟くと、パラエナの考えに思いを馳せるように遠くを見た。
「私が私でなくなる前に、か」
それから彼女は何かを決意したように目を見開き、真っ直ぐに『雄也』を見詰めた。
症状が出た時とは違う、ハッキリとした意思の光が彼女の目の中で輝いている。
「この症状の原因は未だ分からない。我を失う時間も頻度も増えてるせいで、原因究明にかけられる時間まで減ってるしね。多分、私らしい私が消え去るのが先だわ」
「ウェーラ……」
気丈に振る舞ってはいるが、恐怖心に耐えていることは僅かな表情の変化から分かる。
たとえ自分というものを強く持っていた彼女であっても、己の全く預かり知らぬところからそれを揺るがされてはどうしようもない。
だからこそ、強い無力感と絶望感を抱かされる。
恐らく、あのパラエナもそうだったに違いない。
彼女が半ば自ら命を絶つような真似をしたのも理解できる話だ。
だからと言って安易な慰めを口にしても、異世界人だからなのか影響のない『雄也』の言葉では何も響かない。そもそもウェーラも同情して欲しい訳ではないだろう。
「私よりも症状が進んで本来の自分を失った人々は、気持ちが悪い程理性的で秩序だった社会を作り始めてる。異種族が手を取り合って生きる世界すら想像できる程に」
「……まるで、平和を強要されてるみたいだ」
呟くような声色ながらもハッキリと聞こえるウェーラの言葉に、刻一刻と変化していく国の様子を目の当たりにしてかねてから思っていたことを口にする。
「全くね。ゾッとしないわ」
対してウェーラは深く頷いて同意した。
「正直、こうも原因の分からない事態が世界的に起こると、本当に神様がいるんじゃないかって思ってしまうぐらいよ」
「……ウェーラは神様の存在を信じてなかったのか?」
続いた彼女の言葉に首を傾げる。
「確か、アテウスの塔って神に反逆するための塔って意味だったんじゃ……」
「神と神様は違うわ。少なくとも私の中ではね。神というのは世界を縛る法則、万物の限界のこと。私はそれを取り払いたかった。けど、神様、人格神の実在は信じてないわ」
そこまで言ってウェーラは「ううん、信じてなかったわ」と訂正した。
過去形。しかし、不本意そうな顔を見るに、信じたい訳ではないのは間違いない。
「けど、ある種の意図を感じさせるような現象が、こうも世界で同時多発的に起こっているのを見ると人類を超越した何者かの存在を感じざるを得ないと思う」
神様ではなく人類を超越した何者と言うに留める辺り、たとえ人格神と思しき存在がいたとしても、それが全知全能であるとまでは考えていないようだ。
そもそも、もし全てが人格神の仕業だったと仮定しても、今更方針転換して干渉してくる神など全知全能のはずがないが。
「確か、この世界で信仰されてる神って――」
「創造神アリュシーダね。この星の名前もそう。どちらが先に名づけられたかは分からないけど。いずれにせよ、世界そのものって扱いと考えて間違いないわ」
そう聞くと大仰だが、実際のところは日本で言うお天道様に近い日常に溶け込んだ信仰の形だった。宗教施設近辺には行っていないし、唯星王国の一般的なところでの話だが。
これが妖星王国だと宗教色がかなり強いらしい。
光の巫女というのもアリュシーダの巫女と主張しているとのことだ。
「話が逸れたわね」
ウェーラはそう言って間を取ると、一つ息を吐いてから再び口を開いた。
「私は……これまで生きてきた私が私らしいと信じる私は、たとえ神様の意思だろうと言いなりになるつもりはないわ。このまま何もかも失ってたまるもんですか」
「……もしかして、何か解決策を思いついたのか?」
彼女の言葉の内容からそう判断して問う。
しかし、彼女は眉間にしわを寄せて首を横に振った。
「じゃあ……一体どうするんだ?」
一瞬の期待も消沈し、沈み込んだ気持ちと共に問う。
「……ユウヤはもう少し私に頼らず、自分で可能性を探るようにしないと駄目ね。魔動器のアイデアを出したりしてくれたし、ちゃんと素養はあるはずなんだから」
余程『雄也』が情けない表情をしていたのか、微妙に苦笑いをしながら言うウェーラ。
見慣れぬ異世界で唯一人頼れる存在が世界的に稀有な天才だったのだから少しは大目に見て貰いたいところだが、確かに精神的に寄りかかり過ぎていたかもしれない。
「気をつける。……けど、その言い方だと何か可能性はあるってことか?」
「ええ。全てをひっくり返してやるわ」
そしてウェーラは、目の前の壁に挑みかかるように天井を見上げながら告げる。
「ひっくり返す?」
「そう。神を超越する力の一つ。アテウスの塔を利用した空間転移の応用。時間跳躍。それを利用して、この症状が出る前に戻るのよ」
「そ、そんなことが可能なのか?」
特撮ヒーロー番組でも時折出てくる要素。
だが、自分自身が直面すると俄かには信じられない。
「理屈の上では、ね。空間転移の延長線上にあるもののはずだから。全人類の魔力をアテウスの塔で集めれば実現できると私は考えてるわ」
ウェーラはそこまで言うと「ただ」と前置いてから補足をつけ加える。
「過去に跳ぶのはユウヤ、貴方だけよ」
「なっ、ウェーラは!?」
「原因も分からない症状を抱えた体で私が戻ってもリスクが大きいでしょ? 記憶を封じた魔動器を持っていって過去の私に渡してくれればそれでいいわ」
愕然とした『雄也』の問いに、ウェーラは微苦笑を浮かべながら答えた。
これもまた、内に渦巻く様々な感情を抑え込んでいることが丸分かりだ。
(けど、それじゃあ、今ここにいるウェーラは……)
一人残り、症状の進行が止まることはなく。
その結末ぐらいウェーラならば予測はついているはずだ。
そこまで考えて、これもまた彼女の心を苛む要因の一つだと気づく。
その苦しみを想像すると心が痛む。
しかし、彼女の言葉はそれを自らの強い意思で抑え込んで口にしたものだ。
納得はできないが、そうすべきなのだろう。そうすべきなのだろうが……。
「そもそも過去への跳躍は魔力消費が空間転移魔法の比じゃない。向かう過去が遠ければ遠い程、間違いなく膨大な魔力が必要になる。それも比例じゃなくて指数関数的にね。一人しか過去には行けないのよ」
ウェーラが逡巡する『雄也』に気づくのは当然のことで、彼女は少し困ったような顔をしながら根拠を口にし始める。
「短い時間跳躍を何度も行えばいいんじゃないか?」
「時間は川の流れのようなもの。一度到達した現在から無理に遡れば、世界にも自分にも負荷がかかる。その負荷こそ魔力消費を指数関数的に増大させる原因だけど、過去から更に過去に跳ぶ際には最初の負荷も加算されると予測できるわ」
「そう、なのか……?」
今一ピンと来ず『雄也』が首を傾げると、ウェーラは分かり易く説明し直そうとしてくれているのか少しの間、腕を組んで考え込んだ。
それから言葉を再開する。
「川のたとえを続けて使うなら、川の水を堰き止めて逆流させていくようなものね。しかも僅かな水の逃げ場もない川で」
つまり、勢いよく水が出ているホースを端から潰していって、中の水を無理矢理蛇口に戻そうとするようなものか。
最初の最初は弱い力で潰せるが、どんどん内圧が高まって潰せなくなっていく。
同じ力で最初と同じ分だけ潰すには、一旦端まで戻さなければならない。
そして、その端とは即ち己が経験した中で最も未来の時点という訳だ。
「だったら、俺は俺。ウェーラはウェーラで時間跳躍すれば……」
「一緒に行かないと、同じ世界に辿り着けない可能性が高いわ。先にユウヤが行ったことで過去が変わり、この今からのズレが大きくなるから」
「…………そうか」
これらの事実を考慮した上で、目的の時間に辿り着くための魔力量を試算して一回一人分しかないとウェーラが言うのなら、いずれにせよ単独で向かう以外なさそうだ。
こうなると駄々をこねているよりも、いつか何とかしてこの瞬間に戻ってくることを考えた方が建設的かもしれない。
「……どの時点に戻ればいいんだ?」
「ユウヤがこの世界に転移してくる直前。傀儡勇者召喚の真っ只中よ。そして傀儡勇者召喚をぶち壊し、過去の私と会って魔動器を渡して」
「真っ只中……やっぱり自分自身と会うとまずいのか?」
タイムトラベルにはつきものの縛りだ。パラドクス云々で。
「そこは分からない。けど……理由は別よ。空間だけならともかく時間も跳躍する訳だから、尚更目印がないと成功確率が低くなる。下手をすれば、訳の分からない世界に飛ばされるかもしれない。リスクは抑えないと。だから」
つまりマーカーとして必要ということか。
(まあ、過去の自分と会っても案外問題なさそうだけどな。俺もウェーラも、もう体の構造自体違うだろうから同一人物と言っていいか微妙だし)
とは言え、ここもわざわざリスクを冒すべきではないか。
「ただ、目印として使う以上、傀儡勇者召喚を完全には止められないから、あの時の女の子とユウヤは別の世界や時代の、召喚の引力が発生した場所に転移するかもだけど」
「まあ……俺のことはいいや」
ウェーラが申し訳なさそうに言うから、軽く答えて流しておく。
とりあえず彼女の説明からすると、傀儡勇者召喚を潰せば召喚の引力とやらが消え去るから、あの近辺で出現することはなさそうか。時代的にも場所的にも。
彼女と出会えないのは残念だが、その雄也はそれを認識できる訳ではないし、後はもう運を天に任せて何とか頑張って欲しいと思うしかない。
「それよりも、あの子の人格は――」
「そこは大丈夫のはずよ。精神干渉は召喚完了の直前だから」
ウェーラのその言葉に少し安堵する。勿論、新たに転移した先で苦難が待っているだろうが、転移した段階で詰んでいるこの時代この世界よりはマシだと信じたい。
「理解、してくれたかしら」
と、一通り説明を終え、ウェーラが不安そうに問いかけてくる。
いつものように、実行するか否か『雄也』の意思を確かめているようだ。
勿論、ウェーラの頼みならば無暗に拒絶するつもりはない。
今回の件についても、これまでの説明で理解も納得もしている。
「いつ、過去に跳べばいいんだ?」
「……すぐにでも。刻一刻と魔力の消費量が増えてるから」
「分かった。やろう」
色々ごねたが、このままこの時代にいても何も解決できないのは事実だ。
ならば、一度何もかも白紙に戻した方が可能性はある。
過去で解決策を見つけ出し、この瞬間に戻ってくることを最終目標としよう。
「……じゃあ、私の記憶を封じる魔動器を持ってくるわ」
そしてウェーラは即答した『雄也』を前に、僅かに逡巡を見せながらも時間を無駄にできないと実験室に向かい、指輪状の魔動器を持って戻ってくる。
「これを握り締めてて」
言われるがまま、『雄也』はそれを受け取って固く握り締めた。
すると、彼女はその上から挟むように両手で『雄也』が作った拳を包み込んだ。
「ウェーラ?」
「最後の瞬間の記憶まで記録できるようにしてるから」
直接触れなくていいのなら理由になっていない気がするが、黙っておく。
僅かな震えに気づいてしまったから。
とは言え、この方法を容認した以上は何も言うことはできない。
ただウェーラの言葉を待つ。
「……アテウスの塔、完全起動。魔力収束開始。対象は全人類」
「う、く」
そして彼女がそう口にした瞬間、体から大量の魔力を持っていかれた感じがして、『雄也』は思わず眉をひそめてしまった。
見れば、ウェーラもまた同じようで眉間に深いしわを寄せていた。
「ユウヤ」
そんな中で、彼女は様々なものに耐えているかのような表情で名を呼んでくる。
「記憶の移行がどういう形になるか分からないから、言っておくわ」
それから、苦しみの声色の中に一抹の恥ずかしさを滲ませながらウェーラは続ける。
「ありがとう。貴方が来てくれてからの数ヶ月。本当に楽しかった。人生で一番ね」
「そんな……感謝するのは俺の方だ」
異世界にあって彼女の存在は本当に心強かった。救われた。
その想いがしっかり伝わるように真っ直ぐに見詰めて言う。
「……正直、一生一人で研究を続けていくものだと思ってたから、人並みにこういう気持ちを得ることができたのが新鮮だったわ」
対してウェーラは、更にはにかむようにしながら小さな笑みを浮かべた。
その表情はこれまでで最も魅力的で、思わず目を奪われて呆けてしまう。
「だからきっと、過去の私も貴方のことを大切に思うはずよ」
それから彼女はそう告げると――。
「〈トランセンドタイムフロー〉」
『雄也』の反応を待たず、最後に覚悟を決める間もなく、魔法を発動させた。
ハッとした時には視界が揺らいでいき、彼女の手の感触も消え失せてしまう。
同時に、今確かにあった世界から急速に遠ざかっていく。
「ウェーラ!!」
それを前にして『雄也』は咄嗟に彼女の名を呼んだ。
僅かに割り切れない思いの発露として。
しかし、その声は時空の狭間で空しく響くばかりで、誰にも届くことはなかった。
魔法研究所の所長は死に、戦場に過剰進化した超越人が乱入することはなくなった。
前回そう判断してすぐに再出現し始めたこともあり、しばらく警戒を続けたものの、さすがに今度ばかりは終息してくれたようだった。
そうして彼女の死から二週間。
新たな問題が生じていた。いや、継続していたと言うべきか。
「……パラエナ」
眼前に立つ真水棲人の名を、強い怒りの感情と共に呼ぶ。
彼女は単身、王都モノコスモスを襲撃し、既に数名の基人を殺害していた。
半ば暴走したかの如き暴れっぷりは、騎士達の手に負えるものではなく、ウェーラからの情報を得た『雄也』が立ちはだからなければ被害は増えていたに違いない。
「たとえ狂人であれ、力を持たない弱者を殺す外道だとまでは思わなかった」
そんな彼女を前に、『雄也』は装甲に覆われた人差し指を突きつけながら、侮蔑するようにパラエナへと糾弾をぶつけた。
「ユウヤ……」
対して彼女は縋るように手を伸ばしてくる。
まるで『雄也』の存在、その姿は救いだとでも言うように。
「兵士達も市民達も誰も彼も気が狂い、理由もなく唐突に他種族を受容するようになってしまった。訳が分からないまま戦いは終わってしまったわ」
そして普段の間延びした口調ではなく、諦観を湛えた声色を出すパラエナ。
ウェーラだけでなく、彼女達にも発生していたあの症状。
それは一般市民や下位の兵士など力に乏しい者達において急激に進行し、時折呆けるといった症状に留まらず、全く人が変わったようになってしまっていた。
特に戦場に立っていた兵士達。
彼らは異種族への敵意が衰え、戦争に忌避を抱くようになっていた。
まるで市民に蔓延していた厭戦的な空気に影響されたかのように。
挙句、それは各国上層部にまで拡大し、結果、瞬く間に戦争は終結してしまった。
いや、戦争が終わって悪いことなど本来ならほとんどないはずだが。
「それが気に食わなかったのか?」
「いいえ。戦士にもなれない惰弱な存在に興味はないわ。けど……」
『雄也』の問いにそう答えたパラエナは、心底悔しげに更に続ける。
「私までそんな感覚を抱くのはあり得ない。絶対に」
その声色は、ほとんど泣きそうなものだった。
「ラケルトゥスやリュカ、コルウス、ビブロス、スケレトスもそう。何かが壊れてしまった。真妖精人ビブロスに至っては基人への憎悪と受容の狭間で発狂してしまっている」
そして「私も気が狂いそうよ」とつけ加えると――。
「う、く」
彼女は膝を突き、頭を抱えながら苦しげに呻いた。
「パラエ、なっ!?」
次の一瞬、真水棲人らしいシャチの如き特徴を持ったその姿がぶれて単なる水棲人となり、『雄也』は思わず驚愕の声を上げてしまった。
すぐに真水棲人に戻ったが、見間違いではない。
恐らく意思だけでなく、力まで衰えつつあるのだろう。
「私には、私でなくなる私を止めることができない。だったら、せめて……」
パラエナは呟くように言うと、突然立ち上がって『雄也』へと突っ込んできた。
「……お前は人の命を、自由を奪った。自我の証明のためとは言え、最期の瞬間まで誰かを殺し続けようというのなら、生かしてはおけない」
彼女の意図は分かる。
だが……いや、だからこそ敢えて唾棄すべき敵に告げるように言い放つ。
元より『雄也』にとって許せる存在ではなくなっているが、殊更否定の意を強めて。
《魔力ノ急速収束ヲ開始シマス》
《Change Therionthrope》《Convergence》
《Change Drakthrope》《Convergence》
《Change Phtheranthrope》《Convergence》
《Change Ichthrope》《Convergence》
《Change Theothrope》《Convergence》
《Change Satananthrope》《Convergence》
《Change Anthrope》《Maximize Potential》
そのままパラエナが間合いに入るまでの間に、魔力を収束し――。
「〈オーバーアイシクルフィスト〉!」
「〈レゾナントアサルトブレイク〉!」
水属性の魔力を圧縮したが如き塊を拳に纏わせた一撃それ自体に対し、正面から衝突するように全魔力を乗せた殴打を叩き込む。
「が、ああああああ、あああああああああぁっ!?」
直後それによってパラエナの右腕はぐちゃぐちゃに潰れ、彼女は両膝を地面に突きながら空に向けて天を切り裂かんばかりの鋭い絶叫を上げた。
やはり明らかに力が衰えている。
その衰えにより、呆気なくもこれが致命の一撃となってしまったようだった。
「ああ、あぐ、う。ふ、ふふ」
最期の瞬間。それでも笑い声を上げる姿に、戦場でパラエナに感じた狂気を思い出す。
「勝てるかどうか分からない強大な存在とさえ命を懸けて殺し合い、その果てに死ぬ。勝てなかったことは口惜しいけど、そのあり方は私らしくもある。感謝するわあ」
パラエナは最後を彼女らしい間延びした口調で締めると、満ち足りた表情で目を閉じた。
やがて『雄也』が叩き込んだ魔力は体の中心に伝わり、そこで爆発的に膨張し始める。
「そんな筋合いはないけどな」
そして、そんな風に勝手に満足しているパラエナに『雄也』がそう吐き捨てた瞬間、臨界に達した魔力によって彼女は爆散してしまった。
罪なき市民を殺した人類の自由の敵が悔いもせず死んでいくことに、苛立ちと言い知れぬ敗北感を抱く。断罪することもできずに逃げ切られてしまった気分だ。
何より、これもまた自由を貫いた人間の一つの姿のように思えてしまって。
「はあ」
そんな感覚を一先ず胸の内にしまい込むために一つ息を吐く。
「…………〈テレポート〉」
それから地面についた爆発跡を少しの間だけ見詰め、『雄也』は自宅に転移した。
《Armor Release》
「ウェーラ」
そのまま装甲を取り払いながら駆け足気味にウェーラの元に向かい、部屋のソファでぼんやりとしていた彼女に呼びかけた。
「……ウェーラ?」
「え?」
一度では反応がなく、二度名前を呼んで彼女はようやく顔を上げる。
「あ、私、また……」
ウェーラは少しの間呆然とし、すぐに激しい苛立ちを示すように奥歯を噛み締めた。
そうした感情の乱れを振り払うように大きく顔を横に振り、直後彼女は自分で自分の両頬を張る。大分強く。
パチンという音と共に肌が真っ赤になるが、それで少し落ち着いたようだ。
痛みで己の存在を確かめているのかもしれない。
「パラエナはどうなったの?」
映像で見ていたはずだが、途中であの症状が出ていたようだ。
そう判断して、一々指摘せずにパラエナの末路を話す。
「そう。彼女も……」
ウェーラはそう呟くと、パラエナの考えに思いを馳せるように遠くを見た。
「私が私でなくなる前に、か」
それから彼女は何かを決意したように目を見開き、真っ直ぐに『雄也』を見詰めた。
症状が出た時とは違う、ハッキリとした意思の光が彼女の目の中で輝いている。
「この症状の原因は未だ分からない。我を失う時間も頻度も増えてるせいで、原因究明にかけられる時間まで減ってるしね。多分、私らしい私が消え去るのが先だわ」
「ウェーラ……」
気丈に振る舞ってはいるが、恐怖心に耐えていることは僅かな表情の変化から分かる。
たとえ自分というものを強く持っていた彼女であっても、己の全く預かり知らぬところからそれを揺るがされてはどうしようもない。
だからこそ、強い無力感と絶望感を抱かされる。
恐らく、あのパラエナもそうだったに違いない。
彼女が半ば自ら命を絶つような真似をしたのも理解できる話だ。
だからと言って安易な慰めを口にしても、異世界人だからなのか影響のない『雄也』の言葉では何も響かない。そもそもウェーラも同情して欲しい訳ではないだろう。
「私よりも症状が進んで本来の自分を失った人々は、気持ちが悪い程理性的で秩序だった社会を作り始めてる。異種族が手を取り合って生きる世界すら想像できる程に」
「……まるで、平和を強要されてるみたいだ」
呟くような声色ながらもハッキリと聞こえるウェーラの言葉に、刻一刻と変化していく国の様子を目の当たりにしてかねてから思っていたことを口にする。
「全くね。ゾッとしないわ」
対してウェーラは深く頷いて同意した。
「正直、こうも原因の分からない事態が世界的に起こると、本当に神様がいるんじゃないかって思ってしまうぐらいよ」
「……ウェーラは神様の存在を信じてなかったのか?」
続いた彼女の言葉に首を傾げる。
「確か、アテウスの塔って神に反逆するための塔って意味だったんじゃ……」
「神と神様は違うわ。少なくとも私の中ではね。神というのは世界を縛る法則、万物の限界のこと。私はそれを取り払いたかった。けど、神様、人格神の実在は信じてないわ」
そこまで言ってウェーラは「ううん、信じてなかったわ」と訂正した。
過去形。しかし、不本意そうな顔を見るに、信じたい訳ではないのは間違いない。
「けど、ある種の意図を感じさせるような現象が、こうも世界で同時多発的に起こっているのを見ると人類を超越した何者かの存在を感じざるを得ないと思う」
神様ではなく人類を超越した何者と言うに留める辺り、たとえ人格神と思しき存在がいたとしても、それが全知全能であるとまでは考えていないようだ。
そもそも、もし全てが人格神の仕業だったと仮定しても、今更方針転換して干渉してくる神など全知全能のはずがないが。
「確か、この世界で信仰されてる神って――」
「創造神アリュシーダね。この星の名前もそう。どちらが先に名づけられたかは分からないけど。いずれにせよ、世界そのものって扱いと考えて間違いないわ」
そう聞くと大仰だが、実際のところは日本で言うお天道様に近い日常に溶け込んだ信仰の形だった。宗教施設近辺には行っていないし、唯星王国の一般的なところでの話だが。
これが妖星王国だと宗教色がかなり強いらしい。
光の巫女というのもアリュシーダの巫女と主張しているとのことだ。
「話が逸れたわね」
ウェーラはそう言って間を取ると、一つ息を吐いてから再び口を開いた。
「私は……これまで生きてきた私が私らしいと信じる私は、たとえ神様の意思だろうと言いなりになるつもりはないわ。このまま何もかも失ってたまるもんですか」
「……もしかして、何か解決策を思いついたのか?」
彼女の言葉の内容からそう判断して問う。
しかし、彼女は眉間にしわを寄せて首を横に振った。
「じゃあ……一体どうするんだ?」
一瞬の期待も消沈し、沈み込んだ気持ちと共に問う。
「……ユウヤはもう少し私に頼らず、自分で可能性を探るようにしないと駄目ね。魔動器のアイデアを出したりしてくれたし、ちゃんと素養はあるはずなんだから」
余程『雄也』が情けない表情をしていたのか、微妙に苦笑いをしながら言うウェーラ。
見慣れぬ異世界で唯一人頼れる存在が世界的に稀有な天才だったのだから少しは大目に見て貰いたいところだが、確かに精神的に寄りかかり過ぎていたかもしれない。
「気をつける。……けど、その言い方だと何か可能性はあるってことか?」
「ええ。全てをひっくり返してやるわ」
そしてウェーラは、目の前の壁に挑みかかるように天井を見上げながら告げる。
「ひっくり返す?」
「そう。神を超越する力の一つ。アテウスの塔を利用した空間転移の応用。時間跳躍。それを利用して、この症状が出る前に戻るのよ」
「そ、そんなことが可能なのか?」
特撮ヒーロー番組でも時折出てくる要素。
だが、自分自身が直面すると俄かには信じられない。
「理屈の上では、ね。空間転移の延長線上にあるもののはずだから。全人類の魔力をアテウスの塔で集めれば実現できると私は考えてるわ」
ウェーラはそこまで言うと「ただ」と前置いてから補足をつけ加える。
「過去に跳ぶのはユウヤ、貴方だけよ」
「なっ、ウェーラは!?」
「原因も分からない症状を抱えた体で私が戻ってもリスクが大きいでしょ? 記憶を封じた魔動器を持っていって過去の私に渡してくれればそれでいいわ」
愕然とした『雄也』の問いに、ウェーラは微苦笑を浮かべながら答えた。
これもまた、内に渦巻く様々な感情を抑え込んでいることが丸分かりだ。
(けど、それじゃあ、今ここにいるウェーラは……)
一人残り、症状の進行が止まることはなく。
その結末ぐらいウェーラならば予測はついているはずだ。
そこまで考えて、これもまた彼女の心を苛む要因の一つだと気づく。
その苦しみを想像すると心が痛む。
しかし、彼女の言葉はそれを自らの強い意思で抑え込んで口にしたものだ。
納得はできないが、そうすべきなのだろう。そうすべきなのだろうが……。
「そもそも過去への跳躍は魔力消費が空間転移魔法の比じゃない。向かう過去が遠ければ遠い程、間違いなく膨大な魔力が必要になる。それも比例じゃなくて指数関数的にね。一人しか過去には行けないのよ」
ウェーラが逡巡する『雄也』に気づくのは当然のことで、彼女は少し困ったような顔をしながら根拠を口にし始める。
「短い時間跳躍を何度も行えばいいんじゃないか?」
「時間は川の流れのようなもの。一度到達した現在から無理に遡れば、世界にも自分にも負荷がかかる。その負荷こそ魔力消費を指数関数的に増大させる原因だけど、過去から更に過去に跳ぶ際には最初の負荷も加算されると予測できるわ」
「そう、なのか……?」
今一ピンと来ず『雄也』が首を傾げると、ウェーラは分かり易く説明し直そうとしてくれているのか少しの間、腕を組んで考え込んだ。
それから言葉を再開する。
「川のたとえを続けて使うなら、川の水を堰き止めて逆流させていくようなものね。しかも僅かな水の逃げ場もない川で」
つまり、勢いよく水が出ているホースを端から潰していって、中の水を無理矢理蛇口に戻そうとするようなものか。
最初の最初は弱い力で潰せるが、どんどん内圧が高まって潰せなくなっていく。
同じ力で最初と同じ分だけ潰すには、一旦端まで戻さなければならない。
そして、その端とは即ち己が経験した中で最も未来の時点という訳だ。
「だったら、俺は俺。ウェーラはウェーラで時間跳躍すれば……」
「一緒に行かないと、同じ世界に辿り着けない可能性が高いわ。先にユウヤが行ったことで過去が変わり、この今からのズレが大きくなるから」
「…………そうか」
これらの事実を考慮した上で、目的の時間に辿り着くための魔力量を試算して一回一人分しかないとウェーラが言うのなら、いずれにせよ単独で向かう以外なさそうだ。
こうなると駄々をこねているよりも、いつか何とかしてこの瞬間に戻ってくることを考えた方が建設的かもしれない。
「……どの時点に戻ればいいんだ?」
「ユウヤがこの世界に転移してくる直前。傀儡勇者召喚の真っ只中よ。そして傀儡勇者召喚をぶち壊し、過去の私と会って魔動器を渡して」
「真っ只中……やっぱり自分自身と会うとまずいのか?」
タイムトラベルにはつきものの縛りだ。パラドクス云々で。
「そこは分からない。けど……理由は別よ。空間だけならともかく時間も跳躍する訳だから、尚更目印がないと成功確率が低くなる。下手をすれば、訳の分からない世界に飛ばされるかもしれない。リスクは抑えないと。だから」
つまりマーカーとして必要ということか。
(まあ、過去の自分と会っても案外問題なさそうだけどな。俺もウェーラも、もう体の構造自体違うだろうから同一人物と言っていいか微妙だし)
とは言え、ここもわざわざリスクを冒すべきではないか。
「ただ、目印として使う以上、傀儡勇者召喚を完全には止められないから、あの時の女の子とユウヤは別の世界や時代の、召喚の引力が発生した場所に転移するかもだけど」
「まあ……俺のことはいいや」
ウェーラが申し訳なさそうに言うから、軽く答えて流しておく。
とりあえず彼女の説明からすると、傀儡勇者召喚を潰せば召喚の引力とやらが消え去るから、あの近辺で出現することはなさそうか。時代的にも場所的にも。
彼女と出会えないのは残念だが、その雄也はそれを認識できる訳ではないし、後はもう運を天に任せて何とか頑張って欲しいと思うしかない。
「それよりも、あの子の人格は――」
「そこは大丈夫のはずよ。精神干渉は召喚完了の直前だから」
ウェーラのその言葉に少し安堵する。勿論、新たに転移した先で苦難が待っているだろうが、転移した段階で詰んでいるこの時代この世界よりはマシだと信じたい。
「理解、してくれたかしら」
と、一通り説明を終え、ウェーラが不安そうに問いかけてくる。
いつものように、実行するか否か『雄也』の意思を確かめているようだ。
勿論、ウェーラの頼みならば無暗に拒絶するつもりはない。
今回の件についても、これまでの説明で理解も納得もしている。
「いつ、過去に跳べばいいんだ?」
「……すぐにでも。刻一刻と魔力の消費量が増えてるから」
「分かった。やろう」
色々ごねたが、このままこの時代にいても何も解決できないのは事実だ。
ならば、一度何もかも白紙に戻した方が可能性はある。
過去で解決策を見つけ出し、この瞬間に戻ってくることを最終目標としよう。
「……じゃあ、私の記憶を封じる魔動器を持ってくるわ」
そしてウェーラは即答した『雄也』を前に、僅かに逡巡を見せながらも時間を無駄にできないと実験室に向かい、指輪状の魔動器を持って戻ってくる。
「これを握り締めてて」
言われるがまま、『雄也』はそれを受け取って固く握り締めた。
すると、彼女はその上から挟むように両手で『雄也』が作った拳を包み込んだ。
「ウェーラ?」
「最後の瞬間の記憶まで記録できるようにしてるから」
直接触れなくていいのなら理由になっていない気がするが、黙っておく。
僅かな震えに気づいてしまったから。
とは言え、この方法を容認した以上は何も言うことはできない。
ただウェーラの言葉を待つ。
「……アテウスの塔、完全起動。魔力収束開始。対象は全人類」
「う、く」
そして彼女がそう口にした瞬間、体から大量の魔力を持っていかれた感じがして、『雄也』は思わず眉をひそめてしまった。
見れば、ウェーラもまた同じようで眉間に深いしわを寄せていた。
「ユウヤ」
そんな中で、彼女は様々なものに耐えているかのような表情で名を呼んでくる。
「記憶の移行がどういう形になるか分からないから、言っておくわ」
それから、苦しみの声色の中に一抹の恥ずかしさを滲ませながらウェーラは続ける。
「ありがとう。貴方が来てくれてからの数ヶ月。本当に楽しかった。人生で一番ね」
「そんな……感謝するのは俺の方だ」
異世界にあって彼女の存在は本当に心強かった。救われた。
その想いがしっかり伝わるように真っ直ぐに見詰めて言う。
「……正直、一生一人で研究を続けていくものだと思ってたから、人並みにこういう気持ちを得ることができたのが新鮮だったわ」
対してウェーラは、更にはにかむようにしながら小さな笑みを浮かべた。
その表情はこれまでで最も魅力的で、思わず目を奪われて呆けてしまう。
「だからきっと、過去の私も貴方のことを大切に思うはずよ」
それから彼女はそう告げると――。
「〈トランセンドタイムフロー〉」
『雄也』の反応を待たず、最後に覚悟を決める間もなく、魔法を発動させた。
ハッとした時には視界が揺らいでいき、彼女の手の感触も消え失せてしまう。
同時に、今確かにあった世界から急速に遠ざかっていく。
「ウェーラ!!」
それを前にして『雄也』は咄嗟に彼女の名を呼んだ。
僅かに割り切れない思いの発露として。
しかし、その声は時空の狭間で空しく響くばかりで、誰にも届くことはなかった。
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