イレンディア・オデッセイ

サイキハヤト

第22話 激情の波動

二つの満月が輝く、静かな夜。
……文字通りであればどれほど良かっただろうか。

レムリスは多数の怪物たちの攻撃を受け、門の周囲は怪物たちの死体が山のように積み上がっていた。

衛兵たちも多数の負傷者を出したが、魔法で治せる程度であり、死者がいなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。東門、西門における防衛戦は、怪物たちの全滅により終わった。

しかしまだ、街の南側では、戦いは終わっていなかった。

◆◆

セグムの腹に刺さっていた短剣が引き抜かれ、ドロリと血が溢れ出した。
ソルンの方を向いて、セグムは何か言おうとしていたようだったが、両膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。

ソルンは夫の名を叫んだが、何が変わるわけでもなかった。何かを変えられるチカラは、今のソルンにはなかった。
今すぐ駆け寄りたかったが、そこまで状況が見えていないわけではなかった。今動けば、次にやられるのは自分だった。オンテミオンにセグムの救出を託すしかなかった。

「おい、セグム!」
オンテミオンはセグムに近づきつつ声をかけたが、セグムの応答はなかった。オンテミオンはセグムを素早く背負った。

セグムをソルンの近くへと運ぼうとしたオンテミオンは、視界の左隅に、何もないところから出現した赤黒い物体を捉えた。

瞬間的に後方へ跳び、回避を試みたオンテミオンだったが、セグムを背負っていたこともあり、跳ぶ距離が足りなかった。
赤黒い短剣が、オンテミオンの胸の下辺りを真一文字に切り裂いた。傷は浅かったが、血はしっかりと滲んで裂けた衣服を朱に染めた。

オンテミオンは、如何ともし難い状況に陥った。セグムを今救い出さなければ、見えない存在によって死を確実にされてしまう可能性があった。

しかし、オンテミオンは見えない存在を捉えられないため、攻撃することはできない。何とか集中すればできるのかも知れないが、攻撃のためにセグムを地面に下ろす選択肢は存在しなかった。

自分が深傷を負っては意味が無い、と判断したオンテミオンは力場を展開し、セグムを背負ったまま少し距離を取った。だが力場は、オンテミオンを守っても、セグムを守る事はできない。

「ソルン、ここから離れるんだ! セグムはわしが運ぶ。このままではまずい!」
オンテミオンは、力場に突き立てられた赤黒い短剣を見て、ソルンに叫んだ。



ジャシードは、目の前が真っ暗になっていた。余りにも、想像の限界を超えた事態が、目の前で発生していた。

『もしかしたら、おれたちが殺されるのを目の前で見ることだってあるかも知れない』

旅の始まりに、いつもおちゃらけ気味のセグムが真面目な顔でそう言っていたのを、ついさっき言われたかのように思い出した。

その時は実感がなかったし、危険な目には遭いつつも、旅の途中もその実感はなかった。

セグムは強かったし、ソルンはしっかりと補佐をしていた。更に、予定にはなかったが、オンテミオンの助力もあった。

そんな事が起きるなんて、夢にも思っていなかった。ずっと格好いい、頼れる父親を見られるものだと思っていた。

……だが、夢にも思わなかったような事が、今、目の前に起こっていた。

父親を死なせたくない。
みんなを助けたい。
あいつさえ、いなければ。
あいつさえ、いなければ!

少年は激しく強い感情に突き動かされ、身体の奥底から湧き上がる熱いものを感じた。
熱いものは体中を駆け巡り、更に熱いものを呼び起こした。少年は、それに身を任せた……。



軽い地鳴りのような音が聞こえ、肌をビリビリと震わせる。それは生命力の煌めきであり、内なる激しい爆発でもあった。

オンテミオンと、言われるまま逃げようとしていたソルンにはそれが何か分かっていた。だが、これほどのものが、誰のものか分からなかった。

その発信源を探り、オンテミオンは視線を上へと向けると、剣聖とも呼ばれた戦士が城壁の上に立つ少年を見て息をのんだ。

少年は燃える炎のような紅いオーラを身体に纏っていた。歴戦のオンテミオンでも、ここまで強いものを見たことがなかった。

少年は、高さ十メートルもある城壁を蹴って地面へ跳び、射られたばかりの矢のような速度で加速しながら地面に接近していった。

少年は音もなく地面に片手を触れると、落ちるのと変わらぬ速度で一直線に跳んだ。彼が蹴った地面には、軽い砂煙だけが残った。

目にも止まらぬ速さで少年は短剣を抜き、何もない空間を真一文字に振り抜いた。今の少年には、見えていた。そこにいる、怪物が……。

「ぅぉぶばっ!」
何もない空中から、どす黒い緑の液体が迸った。どこからともなく赤黒い短剣が姿を現し、少年を突こうとしたが、赤黒い短剣は、炎のようなオーラに捕らえられ、少年には届かなかった。

オンテミオンとソルンは、今目の前で起きている出来事の全てが信じられなかった。あまりに唐突な事に声を出すのも忘れ、ただ、その瞬間を追うのが精一杯だった。

少年は短剣を柄の方へ丸め込むように構えると、赤黒い短剣の柄の先を通る軌跡を描く、まさに神速の一閃を放った。

少年の短剣は研いではいたものの、父親が散々使ったお古であり、それほど切れ味は良くないはずだった。その短剣は今、燃えるようなオーラに包み込まれていた。

武器の性能以上の能力を引き出したのか、はたまた、どこから湧いているのか分からない謎の怪力のためか……。
どちらにせよ、赤黒い短剣の柄の先にあったものを、骨ごとバッサリ切り落とした。

「あああ、うきゅばあああ!」
赤黒い短剣は、それを掴んでいた手ごとゴロリと地面に落ちた。すると、緑黒い液体を手首から迸らせながら悶絶している、セグムを刺した赤黒い短剣の主が姿を現した。

赤黒い短剣の主は、二つの赤い目を持ち深い緑色の身体をした、腰に粗布を纏う醜い怪物だった。

背中が丸まっているため身長は定かではないが、高さは少年と同じぐらいだ。しかし筋肉は異様に発達していて、月の光を浴びて凹凸がはっきりと分かる。

それは、死に損ないのオークのような、ゴブリンのような、コボルドのような存在だった。

顔はひしゃげ、目立つ赤い目の大きさは左右異なり、鼻はひん曲がって潰れていた。口からは牙が一本飛び出ていて、唇は割けたまま固まっていた。

少年は、そんな見た目を気にも止めず、すぐさま短剣を翻し、今度は怪物の顔を斜めに切り裂いた。余りの速さに、怪物は反応すらできなかった。

「あぐぁぁんまぁぁ!」
二つの赤い目を持つ怪物は、顔から緑黒い体液を噴き出しながら仰向けに倒れた。その醜い顔には、恐怖のような表情が浮かんでいた。

直後、少年は倒れた怪物へ短剣を突き立てた。少年に手加減はなかった。
狂ったように、何度も、何度も短剣が突き立てられた。その度に怪物の奇妙な叫び声と緑黒い体液が飛び散った。

二つの赤い目をした怪物は、少年に何度刺されたか分からないが、大きさの違う左右の赤い目を開いたまま、口を大きく開けたまま、ピクリとも動かなくなった。

そして、炎のようなオーラに包まれていた少年も、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

「ジャッシュ!」
ようやく声を上げたソルンにとって、不幸の連続だった。生命力をあんな風に使った人間の末路は決まっている。マーシャと比べても、息子は格段に危険なのが明らかだった。
セグムは刺し貫かれ、息子まで生命の危機に瀕することになるだろう。いや、どちらも生きていれば御の字だと、ソルンは当たり前のようにそう思った。

「ソルン、セグムを頼む!」
「でも、ジャッシュが……!」
ソルンは、セグムを背負ってきたオンテミオンの腕を掴み、涙を流すのも忘れて取り乱していた。

「分かる。分かるが、今ここでセグムを初期治療してやれるのはお前しかいない。治癒魔法で応急処置したら、すぐに治療院へ運べ。ジャシードはわしが連れ戻る」
オンテミオンは、最後のオーガを倒したばかりの衛兵にセグムを託しながら、ソルンにそう言った。

ソルンは何も言わずに従って、衛兵によって地面に横たえられたセグムの深い傷に手を当て、ようやく出てきた涙を拭うこともせずに強化治癒魔法を使った。

涙を流しながら、魔法を使いながら、ソルンは息が乱れてくるのを感じた。既にかなり魔法を使ってしまっていた。
だとしても、手加減などできなかった。その手にセグムの命が掛かっているのだから。

何とか、出血が止まるところまで治療を終えたソルンは、呼吸がきついと思えるほど疲れ切っていた。

両側から衛兵に支えられながら、ソルンと衛兵たちは、セグムを連れて街の治療院を目指した。



先ほどまで炎のようなオーラを纏っていた少年に駆け寄ると、オンテミオンはその小さな身体を抱き起こした。
その身体には全くチカラが入っておらず、腕が地面に向かってダラリと垂れた。

一つ救いだったのは、少年にはまだ体温があったことだった。生命力を使い果たした人間は、即座に冷たくなっていくことが多い。その点でも、この少年は並大抵ではないように感じられた。

オンテミオンは、怪物が腰に下げていた巾着袋を奪い、近くに落ちていた少年の短剣と、怪物が持っていた赤黒い短剣を一本ずつ拾い上げて巾着袋に突っ込み、袋を自らの腰に結んだ。

少年を抱き抱えたオンテミオンは、月明かりの中、街へ向かって走り出した。

◆◆

誰もいなくなった、レムリスの南側。そこは緩やかな風が吹け抜ける場所。戦いが終わり、静かな夜を取り戻していた。

月明かりが照らす森の入り口に倒れていた、二つの赤い目を持つ醜い怪物の身体に付いた多数の傷は、グジグジ、ビチビチと音を立ててくっつき始めていた。

ヒッ、と言う音を立てて息を吸いこんだ醜い怪物の、二つの赤い目がぎょろりと動いた。

「……あ、の……ニン……ゲン、め……ゆ、るす……ま、じ……いつか……か、ならず……ワレ……が……また……」

怪物の傷は塞がりはするが、傷跡は消えない。この戦いの傷は、しっかりと刻み込まれ、その傷一つ一つが怨念へと変わっていく……。

二つの赤い目をした怪物、その名はフグード。いつしか驚異の再生能力を得たコボルドは、人間たちへの怨念をその傷に積み重ね、しぶとく生き長らえてきた。そして今回も……。

激痛の身体を引き摺りながら、フグードは地べたを這いつくばって、森の闇へ消えていった。

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